INDEX NOVEL

一握の砂 〈4〉

 九月に入り二学期を迎えても、休みモードが抜けきらない生徒が殆どだった。進学クラスへいけば気が引き締まるが、自分の教室に戻ると、のほほんとした空気が漂っていた。その中で一人、聡は受験勉強に励んでいる。休みの前と後の聡の変化に、同級生は皆一様に驚いていた。
「熱入ってんね。どうしたん?」
 隣の席の生徒に訊かれ、聡は意気揚々と答えた。
「大学に行く目標ができたから」
「志望学部、絞ったの?」
「うん」
「そーねー。俺も本腰入れないとねー」
 言葉とは裏腹の級友の答えに聡は苦笑した。夏休みの最後に受けた模擬試験で、初めて合格ラインの成績を取れた。附属大学の経済学部へは道が開けたが、聡は既に目標を変えていた。
 修二と同じ大学に行く。――W大学に行くことが、今の聡の目標だった。それは更に高いハードルで、他の生徒のように呑気に構えてはいられなかった。
 今も “ 長瀬塾 ” は続いている。平日は予備校へ行っているので、日曜日だけ図書館で勉強を見てもらっていた。目標を変えたことは修二に伝えていない。合格するまで言うつもりはなかった。修二が泣いた日、そう決心した。
 結局、修二の泣いた理由は訊いていない。帰り際、真っ赤に泣きはらした目で「ごめん。ありがと」とぽつりと呟いた修二が哀れで、追求する事は出来なかった。
 一体何があんなに修二を悲しませたのか。親戚が亡くなった事だろうか。それが一番自然だけれど、でも、と聡の胸に消せない疑問が湧き上がる。田辺と会った直後から修二の様子はおかしかった。何を言われたのだろう? まるで恋人同士のような、あの雰囲気。思い返す度に、焼けつくような嫉妬に駆られた。
 翌日、何となく気まずい思いで図書館へ行くと、修二はいつもと変わらなかった。「今日から飛ばすぞ」と笑った修二に肩透かしを食った気がしたが、却って普通に接することが出来てほっとしたのだった。話して差し支えない事はいつも自分から話してくれるから、触れて欲しくない話題なのだと理解した。とは言えそれは、聡の中に解けない疑問として澱のように沈んでいった。
「あっ、長瀬だ」
 声に釣られて顔を上げると、修二が戸口に立っていた。聡は急いで弁当を抱えると入り口へ走って行った。クラス中の視線を背中に感じながら、連れ立って図書室へ向かう。新学期から同級生を驚かせている聡の所業は、勉強だけではなかった。聡は学校が始まってからも修二と昼食を一緒に取るようになったが、“ 文系一部 ” の同級生とは言え、休み明けから急に親しくなった二人の姿に、周りはあからさまに驚愕と好奇心の目を向けた。
 何せ修二は目立つのだ。制服を相変わらず着崩した修二は、バイトの時とも、図書館にいた時とも違う、独特の雰囲気があって、ただ立っているだけでも衆目を集めていた。そんな修二といることは聡にとって慣れない居心地の悪さを覚えたが、修二は全く気にならないようだった。
 食事は図書室の資料室で取った。普通はここで食事をするなど許されていないが、図書委員である修二は、他の生徒が遣りたがらない本の修繕をする条件で権利を得たらしい。一年生の時からここで一人で食べていたと聞いて聡は吃驚した。
「何で教室で食べないの?」
「特に理由はないけど。教室は煩いんだ…、一人の方が気楽だし。本もゆっくり読みたかったしね」
 食事を一人で済まそうなどと思ったことがない聡には、ちょっと理解出来ない理由だった。そう言えば、修二の口から“友だち”という言葉を聞いたことがない。教室が離れているので、普段修二がどんな風に過ごしているのか分からないが、気さくな人柄だから友人がいないとは考えられない。それでも修二が誰かと親しげにしている姿を見たのは、田辺とだけだと苦々しく思った。
「勉強会、まだ毎週続けるのか?」
「えっ?」
「もう、合格圏内に入っただろう? まだ、続けるか?」
 ぼうっと修二の交友関係を想像していた聡は、言われた内容を理解した途端青ざめた。
「まだ、合格圏内って行っても確実じゃないし…。修二はもう嫌なの? 僕につき合うの…」
 W大学に行く目標は立てたが、自力でやれる自信はない。何より修二がいてくれるからここまで頑張れた。確かに、おんぶにだっこの自覚はあるから、まだ頼るのかと言われれば情けない気持ちもあるけれど、ここで見栄を張って修二の手を離すのは全てを諦めることになる。上目遣いで修二を窺うと、しょうがないなという目で見返された。
「嫌な訳ないだろ? 俺は、お前を合格させるって約束したんだから。ただ、いくら受験生と言っても、たまには休んで息抜きしたいだろうと思ってさ。平日は予備校だし、日曜日まで勉強じゃあ息が詰まるんじゃないかと思って」
「僕は、全然平気だけど。そうか…修二は遊びに行きたいよね」
 言われてみれば、修二の日曜日を独占しているのだ。自分の事ばかりで、他人の事に思いが及ばないことが欠点だと聡はいつも思っていた。殆ど一人っ子として育ったから、端から自分優先で物を考える癖がある。聡は赤面して下を向いた。
「いや、俺の事は気にしなくていいよ。分かった。聡の気の済むまでつき合ってやるよ」
 修二はそう言うと、聡の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜながら微笑んだ。

 十月に入ると、一気に受験色が濃くなってくる。推薦を取る生徒はこの二ヶ月間が勝負だし、附属大学へ行く生徒も二学期の成績が良ければ優遇されるから、皆目の色が真剣になっている。
 修二もさすがに人の事どころではなくなり、日曜日の勉強会は止めている。その代わり昼休みが聡にとって貴重な勉強時間になっていた。
 ある日、いつもならとっくに迎えにくる筈の修二が来なかった。自分から誘いに行こうと、滅多に行かない修二のクラスを覗くが姿が見えない。先に資料室へ行こうと踵を返すと「ああ、望月!」と声を掛けられた。振り返ると “ 文系一部 ” の同級生が手招きしていた。
「長瀬にさ、もし望月が来たら『先に行っててくれ』って伝言頼まれた。お前ら、最近仲良いのな。うちのクラスじゃ、お前、噂の的だぜ。とんだ伏兵だって。どうやって射止めたんだよ?」
「はぁっ? 何言ってんの?」
「まーたまた。惚けちゃって。あの『氷のお姫様』こと長瀬クンをどうやって諄いたんだよ」
「『氷のお姫様』って…、何それ…? だいたい僕は勉強を見てもらっているだけだし…」
「おおっ。その手があったか! あいつ頭いいもんな〜」
 わざとらしく手を打つ仕草をする同級生に呆れながらも、修二が普段はどんな風に過ごしているのか興味を覚えた。それに修二と、『氷のお姫様』という渾名が結びつかない。何故そんな渾名がついたのだろう。
「ねえ、何で長瀬は『氷のお姫様』なんて呼ばれているの?」
「ああ、知らないのか。望月のクラスは離れているからな。今でこそ普通だけど、入学当初は、長瀬って全然笑わなかったんだぜ。近寄りがたくてさ、なまじ綺麗なだけに冷たーい感じでさ。いつも隣のクラスの田辺と、その取り巻き連中と一緒にいるもんだから、絶対田辺のお手つきだと思われてたんだぜ。あの二人感じがよく似ているし、雰囲気ぴったりじゃん。でも違ったんだな〜。お姫様の好みはワイルド系じゃなくて、可愛い子ちゃんだったのね」
 田辺の名前を聞いて聡の心臓が跳ねた。勝手なご託を並べる同級生のお喋りを遮って問い質した。
「長瀬は高校から入学したのに、何で隣の田辺となんか…。田辺って一体どんなやつなの?」
「田辺は、神田の有名な蕎麦屋の息子だよ。なんでも江戸時代からあるって老舗でさ。幼稚舎からうちの学校通ってて、ぼんぼんなのさ。でも、まあ…、あんなヤンキーっぽくなったのは高校になってからかな。それまではごく普通で、そんな目立たなかったよ。長瀬とは入学早々ひっついてたから、前から知り合いだったんじゃないの? そうそう、理系が得意なのに選択クラスを文系に変えたのは、長瀬と同じ大学に行くためだって噂だぜ。急に変えたもんだから、学年十位に入るくせに “ 文系二部 ” なんだから」
「田辺は “ 文系二部 ” なの?」
「そう。アレは諦めてないね。望月、うかうかするなよ。さっきも長瀬を連れてったの、田辺だもの」
「えっ? ちょっ…。どっちに行った!?」
 聡は慌てて同級生の首を掴まんばかりに詰め寄った。
「あっち。たぶん視聴覚室」
 同級生は廊下の方へ指を向けると意味ありげな笑いを浮かべた。聡は礼も言わずに視聴覚室へ走って行った。
 視聴覚室は渡り廊下で繋がれた旧校舎の端にある。木造で趣のある建物だが、老朽化のため建て直されることになっており、普段は人の出入りがない。他の教室はきちんと施錠されていたが、ここだけ鍵が壊れていて自由に出入り出来たから、内緒の話をするには打ってつけの場所だった。
 足音を忍ばせて近寄ると、僅かに人の話し声がする。扉が開いているのだ。息を詰めて耳を澄ますと、確かに修二の声が聞こえた。
「…そんなの、いらない…」
「でも、これしか残っていないから、お前が持っているのが一番良い…」
 口から心臓が出そうだと思いながらも、強い好奇心に突き動かされて聡は扉の陰から中を覗いた。窓に凭れている修二に向かって田辺がアルバムのようなものを差し出していた。田辺は修二より頭一つ分背が高く、がっしりとした体躯をしている。そのせいか修二がとても小さく見えた。修二は無言のまま、一向に受け取ろうとしない。田辺はため息をついてアルバムを引っ込めた。
「まだ、許せないか…。恨んでも仕方ないけど――」
「そんなんじゃない。そんなこと初めから思ってない! でも、それは…見たくない」
 言いながら修二は田辺に背を向けて窓の外を眺めた。
「分かった。これは俺が預かっておくよ。お前が受け入れられるようになるまで…」
 そう言うと田辺はアルバムを脇に抱え、扉に向かって歩き出したので聡は慌てた。隠れる所が全くないので、このままでは鉢合わせしてしまう。身を竦ませると修二の声が聞こえた。
「賢造。俺は、もう大丈夫だよ…。もう、俺のお守りはしてくれなくていい…」
 絞り出すような修二の声に、田辺は立ち止まって修二の方を見た。
「大丈夫じゃねーだろ。だいたい、お守りって何だよ。そんなつもりはねえよ。お前は、俺の大事な――」
 田辺の台詞に被るように、ピロピロピロ〜と間抜けな電子音が鳴り響いた。えっ? と思った瞬間に「誰だ!」と田辺が走り出て来た。聡は自分の携帯メールの着信音だと一拍遅れて気がついたが、どうしようもない。
「あれ…、お前さん、望月だろう? 何でこんな所に…」
 咎めるよりも驚きを露わにして田辺が訊いてくる。盗み聞きをしていたばつの悪さと後ろめたさに動けずにいると、田辺の後ろから修二が顔を出した。
「聡?」
 修二と目が合った瞬間に聡は走り出していた。恥ずかしさで頭から湯気が吹き出そうだった。それに、あの会話の内容…。どうして二人は、いつもあんな意味深な話ばかりしているのか。田辺は『俺の大事な』の後に何と言おうとしていたのか。
 渡り廊下まで戻った所で、いきなり腕を引っ張られた。驚いて振り向くと荒い息をした修二に腕を掴まれていた。まさか追いかけて来るとは夢にも思わなかった。
「聡…。何で、あんな、所に…」
 荒い息を吐きながら、修二が切れぎれに問い質す。言い訳の仕様がないが、それでも聡は本当の事が言えなかった。
「伝言、聞いたから」
「伝言? 先に行っててって、言っといたんだけど…」
「来たら、悪かった? 僕に聞かれたくない話でもしていたの?」
 修二は一瞬怯んだが、強く首を振って否定した。
「大した話はしていない。何でもないんだ…」
「じゃあ、何の話をしていたの? 修二は、田辺とつき合ってるの? “ 視聴覚室 ” なんかで、何の話をしていたのさ!」
 聡は盗人猛々しくも修二を問い詰めた。嫉妬に眩んで平常心が保てなかった。修二は質問の内容に戸惑っているようだった。
「つき合ってるって…、俺と賢造が?」
「そうだよ。『アウトローのお気に入り』って、みんな言ってる。一学年の時からくっついてるって…」
「誰がそんな…。違う! つき合ってなんかない!」
 修二は必死の形相で否定した。聡の腕を掴んでいる手に力が入る。
「でも、田辺は修二を…。修二と同じ大学目指してるって…」
「それは…。でも、賢造とは唯の友人なんだよ。そんな、噂されるような関係じゃない。本当に…嘘じゃない」
 修二の目は真剣で、嘘を言っているようには見えなかった。まるで神聖な誓いをするよな口振りに、聡も同調するように呟いた。
「僕も、修二と同じ大学に行く。W大に行く。決めた事があるんだ…。修二、約束してくれたよね。合格させてくれるって。だから…」
 協力して。僕だけを見て。他の人は見ないで欲しい。自分でも女々しいと思う。言うまいと決めていたことを反故にしてでも、修二を縛り付けたいと切望した。
 修二は息を呑んで目を見開くと、次の瞬間、顔が真っ赤に染まった。大きく開けた襟元から覗く白い首筋にまで朱が走っているのが見て取れた。その変化に聡の方が驚いて茫然と修二を見詰めた。聡の視線をかわすように伏せた睫が僅かに震えている。修二は掴んでいた聡の腕を放すと額に手の甲を押し当てて上を向いたが、そのまま突然笑い出した。
 聡は自分の決意を笑われたのだとショックを感じて俯いたが、その顔の前に修二の右手が差し出された。
「オーケイ、聡。頑張ろう…」
 弾かれたように顔を上げると、修二が晴れやかに笑っていた。

 十一月に修二は推薦でW大の合格を決めた。その後は、付きっきりで聡の受験勉強をみた。年が明けて、聡はまず附属大学に合格し、次いでW大学も無事合格を果たした。
 W大学の合格発表の日。聡が何度も何度も自分の番号を確かめて、喜びを噛みしめていると、後ろから肩を叩かれ飛び上がった。
「よお、お互い合格みたいだな。よろしく」
 一番会いたくない男、田辺がニヤニヤしながら立っていた。内心ムッとしたが無視するわけにもいかず、声を低くして「よろしく」と愛想悪く返事を返えした。田辺は苦笑を浮かべて聡を見たが、急にわざとらしい笑顔を作ると「ライバルが多いほど燃えるだろ?」と言って片目を瞑って見せた。その顔が一瞬、修二にダブって見えて驚いた。笑いながら去って行く後ろ姿を茫然と見送りながら、少しだけ憂鬱な気分になった。
 卒業式の次の日、修二と待ち合わせをした『ラベル』へ行くと、マスターが二人に入学祝いをくれた。お揃いのオメガの腕時計で、白の文字盤に黒い皮ベルトのシンプルなデザインのものだった。デ・ビルのクラシックという時計で、「ちょっとおじさん臭いけどね、永く使えるものを選んだんだ」とマスターは言った。こんな高額な物はいただけないと遠慮したが、気持ちだからと言われ有り難く頂戴した。その場で時計を腕に着けて見せ合う二人に、マスターは目を細めた。
 聡はこの日、ある決意をしてここへ来た。修二が泣いた日に、志望大学の変更ともう一つ、固く決めたことを果たすために。幾度も悩んだ。けれど、溢れた気持ちは既に胸に溜めておけないくらいで、このままでは自分の想いに溺れてしまいそうだった。駄目なら駄目で、どうせ溺れ死ぬのなら、自分の気持ちを潔く告げてしまおう――そう決心したのだ。
 心臓が煩いくらいに鳴っている。入試でもこんなに緊張しなかったと苦笑いを洩らす。自分と同じ腕時計をした修二がにこやかに笑っている。その時計を見詰めながら、いつまでも同じ時を刻んで生きて行きたいと、心から祈るように聡はゆっくり口を開いた。

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