INDEX NOVEL

一握の砂 〈3〉

 長年の鬱積を吐き出した聡は口を噤んだ。下を向いたまま話していたので、修二が今どんな顔をしているのか分からない。気がつけば、無音だった店内にクラシックが流れている。タイトルは知らないがよく耳にするピアノの曲だ。
 聡は急に怖くなった。修二なら受けとめてくれると信じていたが、無言のまま一言も発しない。ただ柔らかなピアノの音だけが二人の間を流れていく。
 やっぱり気持ち悪く思われたんだろうか。初めて告白した同級生の迷惑気に歪められた顔が浮かんだ。苦い思いが込み上げ手のひらに汗が滲んだ。
「やっぱり、気持ち悪いよね。男が好きだなんて…」
「そんな事、思わない」
 静かだがきっぱりと言い切る声に顔を上げると、修二が真っ直ぐ見詰めていた。
「気持ち悪くなんか無いよ、望月…。前にも言ったと思うけど、それは望月のせいじゃない。人の心の有り様は複雑で、自分自身でもよく分からないし、どうにも出来ないことってあるんだよ。それを自分のせいだとか、人のせいにしちゃ駄目だ。そんな事をしたら自分が壊れる。あるがまま、それを受け入れるしかないんだよ…」
「あるがまま、受け入れるって…」
「自分で自分を認めてやることだよ」
「認めて、何になるの? 自分自身の事は分かっているつもりだよ。それで何が変わるっていうの?」
 自分がホモで無能な人間であることは、とうの昔に分かっている。そんな自分を認めることで、未来がどう変わるというのだと、修二に対する理不尽な怒りが込み上げた。
「望月は、自分を認めてないよ。否定している。だから、嫌いな自分の将来を真剣に考えられないんだろう? 認めるって事は、そうだな…、“ 好きになれる自分になる ” 努力をする事、かな…」
「どうやって好きになれるのさ! こんな自分を…。長瀬は自分に自信があるからそんな事が言えるんだよ」
 やっぱり分かってもらえない、そんな絶望的な気持ちに満たされて、聡は八つ当たりだと分かっていながら吐き捨てた。修二は悲しそうな顔をして俯いたが、すぐに顔を上げると首を横に振った。
「自信なんか無い。望月の気持ち、分かるよ。偉そうに言ったけど、俺も自分が嫌いだった。今も好きだとは言い切れないよ。でも、俺たちは生きていかなきゃいけないだろ? だったら、少しでも良いように生きたいと思ったんだ。どうにも出来ない事もあるけど、それはそれとして、自分に出来る事を一つずつやっていこうと思った。その積み重ねがいつか必ず、自分の理想の姿―― “ 好きになれる自分 ” に導いてくれる。俺はそう信じてる」
 一言一言、噛みしめるように話す修二は、まるで自分に言い聞かせるようだった。修二の真摯な姿に聡の心が和らいだ。
「でも、どうしたらいいのか分からない…」
「そうだな…。望月は、将来遣りたい事が無いって言ってたけど、大学には行くつもりなんだろう? だったら他の事は全部忘れて、まず、大学に行くことだけ考えればいいんだよ。その先のことは、入ってからじっくり考えればいい」
「そんなんで、いいのかな…。適当に決めた学部だからやる気も出ないし…。母は未だに諦めていないみたいだし…」
「学部なんて、後から幾らでも変えられる。お袋さんの事は考えなくてもいい。それとも望月は、医者になりたいの?」
 聡は驚いて修二を見詰めた。医者には『させない』と言われ、自身は『なれない』と思っていたから、『なりたい』など考えた事もなかった。心の中を浚ってみるが、なりたいとは一欠片も思わない。聡はふるふると首を横に振った。
「なら、医者のことも、もう忘れろ。親父さんは『好きにさせる』って言ってくれたんだろ? いいじゃないか。期待されてないんなら、好きなように生きたらいい。大学に入って、じっくり自分の将来を探して、見つかったらそれに向かって努力する姿を見せて、お袋さんに諦めてもらえばいい」
「…まだ、合格圏内じゃない…」
「俺が手伝う。明日から望月の受験勉強につき合うよ。俺が、お前を合格させてやる」
 不遜とも取れる物言いに目を見張ったが、それが修二に似つかわしいと可笑しくなった。微笑を浮かべて「ありがとう」と呟いた聡に、修二もほっとしたような顔をして「覚悟しとけよ」と笑い返した。

 神田の図書館で “ 長瀬塾 ” が始まった。北側の冷房の利いた窓際の席を指定席にして、毎日閉館まで粘って今日で五日目になる。修二はツボを押さえた教え方が上手く、予備校に行くよりも捗った。
 修二は「望月は頭がいい。ちょっと押え所がずれていただけだよ」と言って聡を誉めた。自分がずっと欲しかった言葉を、修二は惜しげもなく与えてくれる。聡にとって修二の存在は暗闇に差す光明のようで、無くてはならないものになっていた。
 英訳のコツを教える修二の声を聞きながら、聡はその秀麗な横顔に見惚れた。窓から入る日差しを受けた修二の栗色の髪は、透けて金色に輝いている。アルバイトをしている時の出立ちと違って、アイロンのきいたプレーンな白いシャツと濃紺のスラックス姿で、澄ました顔で座っているとまるでどこかの貴公子に見えた。 実際、教えている時の修二はいつもより丁寧な言葉遣いをする。それはとても自然な感じで、もしかしたらこれが修二の地なのかも知れないと思う。
 テキストの文字を追う瞳も金色に見えるな…と思わずため息をついた時、聡は頭に衝撃を感じた。
「いたっ!」
「オイ! 聞いてんのかっ! さっきからボケっとして…。しょうがねーな、ったく。休憩にするか…」
 こうして、ぞんざいな口をきくと魔法が解けた気分になるが、貴公子然とした修二はどこか近寄りがたく、下町の悪ガキといった喋り方の方が、聡には親しみがあって好きだった。
 飲み物を買って外へ出ることにし、修二は自販機へ行き、聡はテキストを片付け始めた。
「よう、アンタ」
 頭上で声を掛けられ顔を上げると、サングラスをかけた長身の男が立っていた。
「今、ここに修二いなかった?」
 金髪に近い髪、オールドアロハにジーンズという、いかにもヤンキーという感じの男に、聡は面食らって返事も出来ずにいると、男は「ねえ、聞いてる?」と首を傾げた。
「あっ…。今、自販機の方へ行ったけど…」
 こいつは誰なんだと戸惑いながらも修二の行った方を指さした。男は釣られて指した方角を見ると「サンキュー」と言って歩き出したが、不意に立ち止まると振り向いて聡を見詰めた。
「アンタさ…、もしかして望月サン?」
 見ず知らずの男の口から自分の名前が出たことに驚いたが、頷いて見せると、男はサングラスを外してまじまじと聡を眺めた。
「へぇー、カワイイ顔してんな、アンタ。なるほどねぇ…」
 男は値踏みするような視線をよこしてニヤリと笑った。その不躾な態度にムッとして聡が睨み返すと、男の後ろから声が聞こえた。
「賢造?」
 訝しげな修二の声に男は振り向き、「ああ、修。今、ちょっといいか?」と打って変わって真面目な声を出すと、顎をしゃくって見せた。修二は、ああ、と返事をすると聡に缶ジュースを渡して「ちょっとごめん。ここで待ってて」と言い置いて、男を連れて外へ出て行った。
 聡は茫然と二人を見送った。あんなヤンキー男と修二が知り合いだった事に心底驚いたが、聡自身、サングラスを外した男の顔をどこかで見たことがある気がして、更に動揺した。何か心に引っかかるものを感じて二人の後を追った。
 図書館を出ると、二人は入り口近くの楠の木の下で立ち話をしていた。聡は咄嗟にロッカーの陰に隠れて二人の様子を窺った。修二は楠の木に凭れて項垂れている。そのすぐ側で男は一方的に何かを喋っていたが、修二が完全に下を向いてしまうと右腕で修二の頭を抱き寄せた。修二はされるがまま、頭を男の胸につけるような格好でじっとしていた。
 聡はその姿に頭を殴られたようなショックを感じて目を逸らせると、駆け足で元いた席に戻った。見てはいけないものを見た気がして、心臓が痛いほど鳴っていた。二人はどんな会話をして、何であんな…。
『アウトローのお気に入り』―― 不意にその事が頭に浮かんだ。と同時に、あの男が同じ学校の生徒だということを聡は思い出していた。
 程なく修二は戻ってきたが、その後はずっと様子がおかしかった。物思いに沈んでぼおっとしている。盗み見たことを知られたくなかった聡は問い質すことも出来ず、ただ「あの人、誰? 友だち?」と訊くのが精一杯だった。修二は潤んだ瞳を聡に向けるとちょっと戸惑った顔をしたが、「隣のクラスの田辺賢造…」そう言うと、また自分の世界に入ってしまった。
 その様子と先ほどの二人の親密な姿が、どうしようもない邪推を生んで、居たたまれなくなった。聡は踏ん切るように「今日は、もう止めようか」と声を掛けると、修二は申し訳なさそうに「ごめん」と呟いて力なく笑った。
 盆休みが明け、予備校が始まった聡がいつものように昼に古本屋へ行くと、店主に修二の休みを聞かされた。親戚に不幸があり、三日間休ませて欲しいとのことで、店主は「四日後の五時半に図書館で」という修二の伝言を伝えてくれた。
 聡は一日千秋の思いで三日を過ごした。頭の中で修二と田辺の姿がぐるぐる回っている。田辺のことはよく知らない。マンモス校なので、一緒のクラスにならない限り、学校の行事で見たことがある程度の認識だ。田辺の姿を思い出して、あんなに目立つ奴だったろうかと疑問に思う。
 噂が本当だとしたら、あいつが修二の疑似恋愛の相手なのだろうか。直接訊いてみようかと思うが、どう訊いたらよいか分からない。もしも、そうだと言われたら――。聡の胸は掻きむしられるように痛んだ。
 四日後、予備校から走って図書館へ向かうと、いつもの席に修二が座っていた。聡の姿を認めると手を上げて嬉しそうに笑った。
「ごめん。急なことだったから、直接連絡できなくて。ロスした分、土日もつき合うから追い込もう」
 そう言う修二はいつもと変わらないように見えた。聡は会えた事が嬉しく、田辺のことは気になるものの今は訊くのを止めようと、溢れそうになる疑問を胸に仕舞った。
 模擬試験問題を時間内に解いて、少し離れた席で本を読んでいる修二の所へ持って行くと、修二は声もなく涙を流していた。驚いて立ち尽くす聡に気づくと、片手で顔を覆って立ち上がり、人気のない本棚の方へ足早に歩いて行った。慌てて後を追いかけると、本棚の横に置かれた椅子に座って俯いていた。
 肩が小刻みに震えている。両手で顔を覆い泣いていることを隠すように、必死に嗚咽を堪えている姿が儚く見えて、聡の胸に愛しさが込み上げた。抱きしめたいという衝動に駆られるが、嫌がられるのではという理性も残っていて躊躇する。
 不意に、田辺が修二の頭を抱き寄せた情景が思い浮かんで、激しい嫉妬に駆られた。堪らず、震える手で修二の肩に触れると、ピクリと僅かに身動いだ。理性がぷつりと切れた気がした。
「修二…」
 自然と名前を呼んで、そっと胸に抱き込んだ。驚いて顔を上げた修二の頬には、幾筋もの涙の跡がついていた。赤くした目で聡の顔を見詰めるとすぐに目を閉じ、そのまま頭を預けると、両腕を聡の腰に回して抱きついた。嗚咽を洩らすたび、忙しなく息を継ぐ姿が幼く見えて、庇護欲をそそられた。こんな風に泣くんだと、初めて見る姿に胸が痛んだ。守りたい、守れるほどの男になりたいと、聡は修二を抱く手に力を込めた。
 『修二が好きだ――愛しくて、堪らない』
 身の内を焼くような痛みの正体をはっきり自覚しながら、震える肩をずっと抱きしめていた。

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