INDEX NOVEL

一握の砂 〈2〉

「望月、昼飯は?」と言う修二に、聡は済ませたと申し訳なさ気に答えた。一度も話したことがないのに、自分の名前を知っていてくれたことが嬉しくて胸が高鳴った。修二はアルバイト先からほど近い喫茶店へ案内した。
 『ラベル』というその喫茶店は元は音楽喫茶で、クラシックを聴かせる店だった。窓は入り口にあるだけで、壁は全面コルク板が貼られていて薄暗かった。天上が高く、むき出しの梁から吊り下げられた硝子ランプの白熱灯が、柔らかい光をテーブルに落としていた。店主の耳が悪くなってから音楽喫茶ではなくなったが、頼めば好きなクラシック音楽をかけてくれる。店内は昼時の割に空いていて、二人は奥の革張りのソファーへ腰を下ろした。
「ああ、修ちゃん。いらっしゃい」
 温厚そうな店主に声を掛けられ、修二は手を上げて挨拶を返すと「いつものね。望月は何にする?」と微笑んだ。
 聡はその遣り取りに目を丸くした。神田の古本屋街に「いつものね」で通じる行き付けの店を持つ高校生っているんだろうか? 長瀬って何者なんだと、口を開けたまま返事もできないでいると、修二が困惑した面持ちで再度問いかけた。我に返って慌ててコーヒーを頼むと「ブレンドでいいのかな?」と店主に聞き返される。赤くなって頷くと修二にクスリと笑われた。
 どうせこんな所にき慣れてませんよ、と心の中で悪態をつきながら、先刻感じた疑問を口にした。
「いつもここに来ているの?」
「ああ、まあ、だいたい。この辺は、庭みたいなもんだから」
「えっ? 長瀬の家ってこの辺なの?」
「いや、万世橋の方だけど、子どもの頃からこの辺で遊んでたから」
 そう答える修二に興味津々の顔つきを向けると、苦笑しながら説明しはじめた。
 修二の家は万世橋の通り沿いにある、食品の卸をしている大きな商家だった。曾祖父の代までは全国に支店を出すほど羽振りが良かったが、祖父の代で傾き、父親の代で万世橋の自宅兼、店舗だけになった。
「俺が生まれた頃が一番危なかったけど、親父が何とか立て直した。今は兄貴が手伝っているから、俺は好きな事をさせてもらえるよ」と修二は笑った。だから学校も高校から中途入学した、と聞いて聡は驚いた。
 同じクラスになった当初、『アウトローのお気に入り』と聞いていたから、てっきり修二も幼稚舎組だと思い込んでいた。中途入学の生徒と、隠語で括られる幼稚舎組の生徒とは、普通はあまり親しくならない。教養学部であれば、よほど羽目を外さない限り大学までスルーできたから、幼稚舎組のお坊ちゃん連中は出席こそすれ勉強ができる生徒は少なかった。一方、入試を受けて入ってきた中途入学の生徒は頭が良かったから、彼らを馬鹿にしている節があり、互いに敵対視することが多かった。
 噂がひとり歩きしているのかもしれないと、聡は修二を眺めながら思った。直に接した修二は、気さくで話しやすかった。簡潔な言葉で要領のよい説明はユーモアを交えて楽しく、聞いていて飽きい。最初の悪い印象が好感へと、あっという間に転換した。
 「いつもの」と頼んだピラフを優雅な動作で食べながら「望月んちは何屋よ?」とぞんざいな口をきくギャップに、聡は可笑しく感じながら、経堂で医院をしていると説明した。
 五代前の先祖から医学を生業とした家だったが、町の小さな開業医にすぎなかった。それを父が入院病棟も備えた総合病院へ発展させた。父は産婦人科と小児科を担当し、兄が皮膚科と外科を担当している。他に内科と消化器内科、眼科、耳鼻咽喉科の担当医を抱え、経堂では割と有名だった。
 修二はへぇーと言いながら、ほんの一瞬、疑問に満ちた顔をした。聡はその表情を見逃さず、やっぱり他のみんなと同じ反応をするんだなと遣る瀬なくなった。
「どうして医者の息子が “ 文系一部 ” のクラスにいるのかって思ったんでしょう? 僕は、出来損ないの不肖の息子なんだよ」
 と投げ遣りに言った。恥部を曝してしまったようで、情けなかった。
「不肖の息子ってところは、俺と同類だな…」
 項垂れてしまった聡の耳に、静かな声が聞こえた。同類って…と怪訝に思って顔を上げると、
「でも、気にするなよ。それは、俺たちが悪い訳じゃないさ。敢えて言うならDNAの問題だろ? それに “ 腐っても一部 ” のクラスにいるんだぜ」
 そう言いながら片目を瞑って笑って見せた。その笑顔が妙に子どもっぽくて、聡は救われる思いがした。「俺たちが悪い訳じゃない」そんな言い方をした人も初めてだった。
 バイトへ戻る修二と店の前で別れたが、いつまでも名残惜しい気がして、午後の授業などまるで頭に入らなかった。
 翌日、煩がられるだろうかと悩みながらも、会いたい気持ちが止められず、聡は古本屋の前に佇んだ。昨日と同じ格好をした修二が羽箒を振っていた。立ち読みしている高校生らしい女の子が、チラチラと修二を盗み見ている。聡はそんな目線の先の修二を眺めて、「無理ないよね、あんな姿でも格好いいんだもの…」と心の中で呟いた。
 その呟きが届いたように修二は聡の姿を認めると、よう、と片手を上げて「望月、飯は?」と問いかけた。内心の動揺を隠しながら、まだだと答えると、修二はにっこり笑って「食いに行こうぜ」とバンダナをはずした。頭の隅でこれ以上彼に近づくなと警笛が鳴っていたが、それを敢えて聞き流し、聡はゆっくりと頷いた。
 それから毎日、聡は修二と昼を共に過ごした。ファーストフードの時もあるし、立ち食いそば屋の時もあったが、結局最後は『ラベル』に落ち着いて、時間いっぱいまで他愛のない話に興じた。
 修二はクラシック音楽と本が好きだった。海外の推理小説しか読まない聡に、今まで読んだ純文学の本について、皮肉とユーモアを込めた講釈をして笑わせた。聡はポップス音楽と古い映画が好きで、ヒッチコックの映画の魅力を力説して修二を感心させた。たった一時間の会話だったが、その積み重ねが互いの距離を急速に近づけた。
 明日からお盆休みという日の午後、いつものように『ラベル』で涼みながら、二人でぼうっと窓の外を眺めていた。既に休みに入っている会社が多いのか、通りはいつもより人が少ない。店の中も聡たちの他に昼寝をしているサラリーマンが二人いるだけだった。
 修二のアルバイト先も明日から五日間休みに入る。予備校も休みになるから、暫く会えないのかと思うと寂しかった。修二が休み中どうして過ごすのか気になって予定を訊いた。
「うちは、田舎がないからな。特に出かける予定はないよ。課題を片付けるくらいかな」
「僕は出かけるどころじゃないんだよね。模試の結果も最悪だったし…」
 修二の口からは受験の受の字も出てこない。羨望の眼差しを向けてため息をついた。今日、予備校の担当講師に結果を聞かされ「望月君はどうしてこう、伸び悩むのかなぁ」とぼやかれた。理由は分かっている。特に目標がないからやる気が出ないのだ。志望学部も就職することを考えて漠然と選んだにすぎない。
「長瀬は推薦取るんだったよね。どの学部に行くの?」
「俺は、学外推薦だから…」
「えっ? うちの大学に行くんじゃないの?」
「ああ。W大の文学部に行きたいんだ」
 何気なく聞いた問いに、思いもかけない答えが返ってきて聡は茫然とした。同じ大学へ行くものとばかり思っていた。じゃあ、何で進学校でもないうちの高校へ入学したのか?
「何で?」と思いの外大きい声が出て自分で口を押さえた。修二は顔を赤くしながら躊躇していたが、意を決したように口を開いた。
「俺、作家志望なんだ。作家になれないまでも、物を書く仕事に就きたいと思っている。W大には俺が敬愛している作家が教鞭を執っているから、その人の講義を受けたいんだ。まあ、まだ、迷ってるけど…」
 本が好きなのは分かっているけれど、まさか作家志望だとは。作家など成りたくてなれるものではないし、本が売れるようになるまで、まともに生活できるとも限らない。聡には選択すべき堅実な職業には思えなかった。それでも修二の目は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
 夢を現実に引き寄せようとしている修二に呆れながらも羨ましく感じた。自分には現実的な将来の展望もなければ、叶わずとも憧れる夢すらもっていない。
「いいね、長瀬は。自分の遣りたい事が決まっていて、必死に勉強しなくても難無くその道に進めるんだ…。僕には何もないよ。夢どころか、将来のことも決められない。成績も悪くて進学もままならない。なのに何で期待なんかするんだろう。応えられやしないのに…」
 修二は驚いた顔で聡を見詰めている。みっともないと思いながら、心中を吐露してしまいたかった。いつもどんな話にも真剣に、澄んだ栗色の瞳を真っ直ぐに向けて、最後まで聞いてくれる修二。誰にも話した事はないけれど、彼になら受けとめてもらえる。聡はたった数日間のうちに、そう信じるようになっていた。
「母の期待が重いんだ。駄目だって分かっている筈なのに…」
 唐突に話しだした聡に、修二は黙って頷いた。その仕草に促されてぽつぽつと心中を語った。

 聡の母は後妻だった。病気で先妻を亡くした父と人の紹介で結婚したとき、母は短大を出たばかりで義理の息子より年下だった。先妻の息子である長男は医大を卒業し、大学病院のインターンをしていた。父と母は二十歳以上年が離れていたので、跡取りの心配のいらない父は特に子どもを希望しなかったが、母が切望し生まれたのが聡だった。
 孫のような聡を父は可愛がったし、聡が生まれた時、既に結婚し独立していた兄も自分の子どもと同様に聡に接していたから、家族関係は何の問題もなかった。ただ、周りの親戚には、母が若いという事と、聡が男の子という事が気に入らなかったようで、良好な関係を結べなかった。跡取りが先妻の息子ということで何かと入り浸る先妻の親族が、ことごとく聡と兄を比べては母に難癖をつけた。
 母は徐々に神経質になり聡に勉強や習い事を強制した。聡は出来が悪い訳ではないが、もともとおっとりとして反応の鈍いタイプの子どもだった。それが母には許せなかった。何故なら兄は、ほんの子どもの頃から全てに於いて優秀だったからだ。小学校入学前の知能テストで “ 平均値 ” とされた聡に母は怒りを爆発させた。
 「あなたはお医者さんにならなきゃいけないのに、どうしてそんなに出来ないの!」
 母の罵倒を浴びた聡は体調を崩し、数日間寝込んでしまった。心配した父に「この子は医者の器じゃないから好きにさせよう」と、現在通っている大学附属の小学校へ入学させられた。親戚一同にもとやかく言うなと一喝して「医者にはさせない」と宣言してしまった。それは父の愛情から出た言葉であり、聡にとっては枷が外されて楽にはなったが、『不肖の息子』だとレッテルを貼られたようで幼心に傷ついた。
 以来、母や聡に表だって難癖をつける者はいなくなったが、影で笑われている事は知っている。親戚の殆どが医者という家系の中で、それ以外の職業につけというのも肩身が狭いものだった。それに我慢がならない母は「精神科医でもいいのよ、お医者さんなら…」と言って、未だに聡を困らせる。
 母の期待に応えたいとは思うが、実際問題、平均的に良好な成績は取れるもののそれ以上は無理だったし、幼い頃からのトラウマか血や傷口を見ると貧血を起こした。だからと言って精神科医になるなど、恥の上塗りになる気がして嫌だった。『医者にはなれない』聡にとって、将来の職業を考える度に自分の無能さを思い知ることになり、自然と避けてきてしまった。そのツケが今、大きく伸し掛かっている。
 まして……。
 聡は言葉を切った。急に押し黙った聡に修二は頷いて先を促すが、喉が張り付いたように声が出なかった。全部吐き出してしまいたいと思う裏側で、これ以上話すのを拒む自分がいる。唇を振るわせた聡が修二の瞳に映っている。
「望月…。嫌な事は無理に話さなくても―」
 修二の言葉に重ねるように聡は声を絞り出した。
「女の人、駄目なんだ。好きになれない…」
 修二は言葉を呑んで聡の顔を凝視した。その視線に耐えられず下を向く。氷が溶けて二層に分かれたアイスコーヒーが目に入る。まるで他人と相容れない自分の心のようで、聡は無意識にストローで掻き混ぜると言葉を続けた。
「母が、怖かったんだ。母と同じ年代の女の人も苦手だった。でも特に変だとは思わなかった…」
 普段の母はとても優しい。若く、美しく、それが自慢だった。しかし、聡の成績や将来の事になると容赦がなかった。親戚よりも何よりも、聡を窮地に追い込むのはこの母だった。一転して鬼のようになる母を嫌いたくはなかっが、だんだん受け入れられなくなった。
 それでも、女性が嫌いだとか、受け入れられないとは思っていなかった。姪に当たる兄の二人の娘たちとは仲が良かったし、母と、その同年代の女性が駄目なのだと思い込んでいた。
 初めて変だと思ったのは中学生になって、同級生の疑似恋愛ごっこを間近で目にしてからだ。彼らは勿論、表立ってやっていた訳ではないが、聡は気づいてしまうのだ。そういう生徒たちの “ 空気 ” に。
 流されるように聡も同級生を好きになった。他の生徒に倣い軽い気持ちで告白したが、「そういう遊びにはつき合えない。悪趣味だ」と突き放された。
 ショックだった。酷く傷ついた。遊びなんかではなく、聡は本気で相手の同級生を好きになっていたからだ。“ 疑似恋愛ごっこ ” と割り切っているつもりだったのに、振られて初めて気がついたのだ。『男が好き』だという事実に。
 頭の中で何度も否定するけれど、街ですれ違う女の子にも、テレビに映る水着姿のアイドルにも何の感心も沸いてこない。なのに、水泳中の同級生の躯にときめいてしまう自分がいる。一つ年上の先輩の裸体を想像しながら自慰をした時、吐き出した精に汚れた手のひらを眺めて泣き崩れた。
 母の顔が脳裏を掠めて戦慄を覚えた。不出来な上に『ホモ』だなんて、『不肖の息子』どころの騒ぎでは済まないだろう。どうして良いか分からなかった。ただ、母をこれ以上悲しませることはしたくないと思い、隠し続けてきた。誰にも話さず、誰も好きにならず、ひとりで耐えてきた。
 どうして展望なんかもてるだろう? 将来なんか無いも一緒だ。一生、独りで生きていくしかないと思っていたから。

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