INDEX NOVEL

一握の砂 〈21〉

 修二は顔色を無くして呆然と保を見詰めていたが、保が息がかかるほど近くまで来ると、かたかたと小刻みに震え出した。保は修二の頬に左手を添えると優しく撫でながら囁いた。
「酷いな、修二さん。どうしてそんなに震えているんです? 僕が怖いですか?」
 くっきりと青黒い隈を作った目を細めて睨めつけている自分の顔に気づかない保は、修二の震えが別れ話を聞かれた事に対する怯えだろうと思い込んでいた。修二は口を開けば歯が鳴り出しそうなほど震えが酷く、僅かに首を横に振っただけだった。
「違う? じゃあ、驚いているだけですか? まあ、気づかれないように荷物をまとめて行こうとしていんたですから、驚くのも無理ないですけど。だからって、貴方も酷いですよ。僕がいないからと安心して別れ話の相談なんて…。言ったでしょう? もう少し時間をくださいと…。それすら待てないんですか? そんなに僕が嫌ですか? 相手は誰です? 誰と話していたんです? 望月さんですか?」
 鬼気迫る形相で畳みかけるように言い募る保の手を逃れるように、後ろ手に少しずつソファの端へずり下がった修二だが、聡の名前を聞いた途端おこりのような震えがぴたりと止まった。温かい日差しを浴びたように頬に赤味が差し、瞳に光が宿った。
「違う…。望月じゃない。賢造と話していた。だから保、お願いだから落ち着いて…」
 声こそ上擦っていたが、先ほどの怯えも消え失せていつもの冷静な修二に戻っていた。その変化に保の方が驚いて修二の顔をまじまじと見詰め返した。修二の目には決然とした意志が感じられ、保は先延ばしにした決着をこの場でつけなければならない事を悟ったが、同時に脆くなっている理性にひびが入るのを感じた。
「落ち着け? 僕は落ち着いていますよ」
「だったら、その手に握っている包丁…、まず、片付けてくれ」
 修二は怖そうに横目で保の右手に握られている包丁を見ながら言った。保は自分の右手を前に差し出すと握っている包丁を一瞥して、ああ、と言うなりそのままテーブルの上に置いた。
「話し声がしたんで、望月さんがいるのかと思ったんですよ。いたら、貴方の目の前で殺してやろうかと思って…」
「た、もつ…」
 保の言い放った言葉に修二は再び戦慄したが、すぐ辛そうに顔を顰めて俯いた。保はその顔を眺めながら修二の横に腰を下ろした。
「望月さんと逢っているんでしょう? いつからですか? いつから逢ってるんです!」
「一ヵ月ほど前から…」
「僕の仕事がピークを迎えた頃からですね…。はっ! ははははは…」
 保は突然額に手を当てるとソファの背に凭れて仰け反るように笑い出した。
「ああ…、そうだ。思えばその頃から貴方は僕を受け入れなくなりましたよね…。人を気遣う振りをして、そういう事だったんですか! 貴方と恋人同士になれてから、たった一ヵ月で…。やっと手に入れたと浮かれていた僕は…ははっ、本当に、好い面の皮だ…」
「保、済まない…」
「済まないと思うなら!!」
 保は跳ねるように上体を起こすと大声で叫んだが、その先の言葉が出てこなかった。暫く肩で息をしながら修二を見詰め、「僕の元に返ってきてください…」と声を絞り出した。
 祈るような気持ちだった。失いたくなかった。浮気だと言ってくれたらそれで良かった。自分の元に戻ってくれさせすれば…。
 修二はじっと保を見詰め、保の絞り出した切ない言葉を聞いて涙を滲ませたが、それでもきっぱりと、「元には、戻れない…」と静かに告げた。
 その答えを訊いた瞬間、辛うじて保っていた保の理性は粉々に砕け散った。
「どうしてですか?! 何故あの人じゃないと駄目なんです? 貴方は諦めたと言ったでしょう? 僕の気持ちを弄んだんですか?」
 保は叫ぶように矢継ぎ早に言葉を発しながらソファの上に片膝を乗り上げ、修二の襟元を掴んで引き寄せた。修二は苦しげに顔を歪めながらも抵抗はしなかった。保はそのまま修二の背中へ左腕を回し、右手を修二の首筋に這わせた。
「僕は真剣に貴方を愛した。貴方もそうだと信じた。全部、嘘だったんですか?!」
「違う! 嘘じゃない! 言い訳にしかならないけど、本当に望月を諦めたつもりだった。実際、もう会うつもりは無かったから連絡先も教えなかった。保に告白された時、お前を愛そうと思った。だから躯だって繋げた…。だけど、聡は…俺を愛してるって…。諦めようとしたのに…駄目、だった…。許して、保。弄んだ訳じゃない。保の事は好きだよ。感謝してる。でも、駄目なんだ。俺は…、俺は、聡が――」
「黙れ!!」
 保は大きく叫ぶと修二の首筋に這わせた右手に力を込めた。修二は喉を締め付けられる圧迫感に言葉を詰まらせ苦しげに眉間に皺を寄せたが、やはり一切抵抗しなかった。
「聞きたくない! それ以上、聞きたくありません…。貴方は酷い人だ…。積年の想いを遂げた絶頂で突き落とすなんて…。今更どうやって諦めろって言うんです? この身体の柔らかさも温かさも、知らなければ我慢も出来た。それを…今になって!」
「保…」
 保は苦悶の表情を浮かべそのまま修二の肩口に顔を埋めた。いつもの修二なら、今頃優しく抱擁してくれる筈が、振り払う事もない代わりに手を差し伸べる事もなく、辛そうに顔を曇らせ唯じっと無抵抗のまま保の恨み言を受け止めている姿に、保は修二がもう自分を受け入れてくれない事を痛感した。
 激しい胸の痛みと共に不意に目の前が暗くなり、修二に出会ってからの十年間の出来事がぐるぐると頭の中を駆けめぐった。自分の青春はこの人と共にあったのだとつくづく思う。今日子に出会ったのもこの人が切っ掛けだった。自分を誠実に愛してくれた今日子を捨ててまでこの人を選んだ自分は、この人を失ったら何も残らない…。
「貴方を失って、この先どうやって生きて行けばいいんですか…。今日子を捨ててからの僕には貴方しか無かった。僕の人生は貴方で回ってるんだ。貴方が誰のものにもならないならまだ我慢も出来るが、望月さんのものになるのは耐えられない…」
「えっ? ちょっと待って! 今日子って…、今日子って守口さんの事? 捨ててって、どういう事…」
 修二は驚愕に震えた声を上げた。その様子に保は卑屈な笑みを見せながら答えた。
「そうです。守口今日子です。ずっとつき合っていましたが、貴方が刺されて入院した時、自分の気持ちに気がついて彼女には別れて貰いました。黙っていたのは、これは僕と彼女の問題で貴方には関係ないからです。彼女は気持ちよく別れてくれましたよ。だから僕には貴方しかいないんです」
「別れるなんて…どうして…。どうして…そんな…」
「言ったでしょう。僕は貴方を愛しているんです。他の人が好きなのに彼女と一緒にはいられない。同じ理由で貴方は僕と別れようとしているんでしょう? 彼女は強い人だから、潔く身を退いてくれた。でも、僕に同じ事は出来ない。悔しくて悔しくて仕方がない…。京都の女の気持ちが分かりますよ…。一度は愛し合えたのに、一番深い所では結局受け入れて貰えなかった…。あの時は許せないと思ったあの女の行為が、今はとても理解できる。このまま貴方を失ってしまうくらいなら、いっその事…」
 そう言いながら保は修二の首を掴んでいた右手にもう一度力を込めた。修二は保の話を青ざめた顔で震えながら聞いていたが、首を圧迫されると目を瞑って強張っていた身体の力を抜いた。保は突然左腕に重みを感じ、慌てて修二の身体を支えたが、今度は力を弱めた右手の甲に温もりを感じて目を向けると、修二の左手が添えられていた。
「修二さん?」
 いっその事殺してしまいたいと示唆した行動に対して逃げるならまだしも、修二の起こした行動の意味を理解しかねて保は訝しげに名前を呼んだ。修二は薄く目を開けると哀しげに顔を歪ませたが、すぐに微笑むと首にかかる保の右手に添えた手に力を込め、「いいよ…」と囁いた。
「えっ?」
「いいよ、保。殺して…。俺を、殺してくれ…」
「何を、言って…る…」
 保は修二の言葉を聞いて、一瞬にして正気にかえった。

 聡は息を切らせて修二たちが住むマンションのエントランスに飛び込むと、三階まで階段を一気に駆け上がった。通路へ出ると足音を忍ばせて部屋番号を確認しながらゆっくりと進み、目的の場所で足を止めた。
 田辺から連絡を受けた後、聡はなおざりに残業を片付けて銀行を出るとすぐにタクシーを拾った。無理を承知で飛ばしてくれるように頼むと、運転手は聡のただならぬ剣幕に気圧されて四谷神田間を十五分で走り抜けた。一万円を手渡すとそのままタクシーから飛び降りて走り続け、修二たちの住む303号室の前に着いたのは、田辺に連絡を受けてから四十分後の事だった。
 扉の前で深呼吸して弾んだ息を整える。中で何が起きているか分からない恐怖に緊張して身体が寒く感じたが、実際はワイシャツが身体に張り付くほど汗をかいていたせいだった。生唾を呑み込んでドアノブをゆっくり回すと、田辺の言った通り鍵はかかっていなかった。
 音を立てないように気をつけながら玄関の扉を開ける。玄関から続く廊下の突き当たり、真っ正面に見えるリビングの扉の前の壁に背中をつけた状態で田辺が立っているのが見えた。田辺も玄関の開く気配に気づき、顔だけ玄関に向けて聡を認めると唇の前で人差し指を立て、それから小さく手招きして見せた。
 聡は静かに田辺の元まで行くと「どうなっているんだ? 何故、中に入らない?」と小声で訊いた。田辺は扉の中央に細くはめ込まれた硝子を指さすと「テーブルの上を見ろ」と囁いた。聡は言われるまま中を覗き込むと、扉から程近い場所にある応接セットのテーブルの上に刃渡り二十センチ程の文化包丁が置いてあり、そのテーブルの右横のソファにいる修二と吉田の姿を見て息を呑んだ。吉田は背中しか見えないが、その身体は修二に覆い被さっていた。
「俺が来た時には既にテーブルの上にアレがあった。話し合っているようだが、吉田が興奮しているみたいで下手に近づけないんだ。京都の女の時の二の舞は避けたいからな…」
 携帯に連絡してきた時の取り乱し様は影をひそめ、いつもの落ち着いた田辺の様子に聡はカッと頭に血が上った。田辺を睨みつけて掠れた声で詰め寄った。
「あの日、無理にでも修二を連れ去れば良かった!」
「確かにその方が良かったかも知れない…。だが、修二は頷かなかったろうよ。叔母との事が堪えていたからな…」
「母親との確執の事か?」
「ああ。どちらかを選択すれば、どちらかが傷つく。選んだ事で母親を失ったも同然の事態になったから、“ 選択 ” する事を修二は躊躇っていた。だから吉田の傷が深くならない方法を模索していたようだが、所詮無理な話だよな…。俺も本人のしたいようにと思ったが、失敗した…」
 ため息交じりにぼそぼそと話す田辺はさすがに覇気が無かった。聡はその様子に更に苛ついた。
「兎に角、今は修二の身の安全を確保するのが先決だろ。このままじっとしていても埒が明かない。幸い吉田は後向きだし、扉を開けて様子を窺いながら踏み込むタイミングを掴もう」
 そう囁くと田辺も小さく頷いた。聡はノブをゆっくり下げて音を立てずに五センチほど扉を開けた。その途端、くぐもっていた会話が鮮明に耳に飛び込んできた。
「俺がいるとみんなが傷つく。若菜に刺された時、死んでいれば良かった。そうすれば守口さんも、保も傷つかずに済んだ。聡だって血迷う事も無かっただろうし…。本当に俺は疫病神だな。賢造には迷惑ばかり掛け続け、祖母も、母も、若菜も、誰ひとり幸せに出来なかった…。もう、疲れた…。だから、殺して…」
 修二の言葉を聞いて聡も田辺も互いに顔を見合わせて硬直した。
「で、き、ません…。そんな事…出来ません…」
 吉田は震える声で切れ切れに呟いて修二の首に掛けた右手を外そうとするが、修二の手に強く掴まれたまま動かす事が出来なかった。首を何度も振りながら「出来ません」と繰り返し呟いていた吉田は、終いに項垂れて震え出した。
 修二は握っていた吉田の手を離し、ゆっくりと上体を起こした。吉田は修二の身体から離れ、正面を向いて座り直すと両手で頭を抱えて前のめりに蹲った。
 扉の硝子からその様子を眺めていた聡は、今がチャンスと中へ踏み込もうとした瞬間、
「ごめん…保。俺は、狡いよな…。こんな酷いやつの事は忘れてくれ…」
 そう修二が囁いて、テーブルの上の包丁に手を伸ばした。
「修二!!」
 聡は思いっきり扉に体当たりしながら大声で叫んだ。
 修二と吉田は飛び込んで来た聡の姿を見て息を呑んだ。修二の手は包丁の上で止まり、そこにいる筈の無い聡の姿を驚愕の面持ちで見詰めていた。
 聡は興奮のために肩で息をしながら修二を睨みつけ、もう一度厳しい声で修二の名を呼んだ。その呼びかけに修二はびくっと肩を震わせ包丁に伸ばした手を引っ込めたが、代わりに吉田が包丁を掴もうと手を伸ばした。聡はその動きに素早く反応し、テーブルを蹴りつけ包丁諸共部屋の隅まで吹っ飛ばした。
 テーブルはひっくり返えると大きな音を立てて壁に激突して止まり、包丁は床の上を転がってくるくると回った。修二はその物音に目を硬く瞑って俯き、吉田は呆然とひっくり返ったテーブルを見詰めた。
 暫く誰もその場から動かず、部屋の中は聡の荒い呼吸の音しかしなかった。聡は呼吸を止めるように喉を鳴らして唾を飲み、一回大きく深呼吸して息を整えると修二の側まで歩いて行き、修二を横抱きに抱え上げた。修二は慌てて目を開けると落ちないように聡の首に縋りつき、聡はその状態で吉田を上から見下ろして静かな口調で告げた。
「修二を貰って行く。吉田、君には心から済まないと思う。でも、君では修二を幸せに出来ない。それは君も分かっているだろう?」
 吉田は呆然としながら聡と修二を眺めていたが、聡の言葉を聞くと俯き、両膝に肘をついて手で顔を覆うと肩を震わせてくつくつと笑った。聡は目を細めてその様子を一瞥し、そのまま玄関へ向かって歩き出した。背中から聞こえてくる吉田のくぐもった笑い声が嗚咽に変わると、修二は口元を手で覆いながら声を殺して泣き出した。聡は足を止める事もなく修二を抱えたまま静かに部屋を出た。通路を渡り階段を下り始めた時、後から田辺が「忘れ物だ」と修二の靴と杖を持って追いかけて来た。
「吉田の事は引き受けたから、後の事は心配しなくていい。あんたたちは俺の車を使って帰れ。駐車場の場所は修二が知っているから」
 そう言って荷物と一緒に車のキーを修二に手渡すと返事も聞かずに部屋へ戻って行った。聡は有り難くその申し出を受け、二人は車で三鷹の聡のマンションへ向かった。

 三鷹のマンションへ着いて、聡は来客用の駐車場に車を止めると、自分で歩くと言う修二の言葉を無視して抱え上げた。聡はえも言われぬ怒りに包まれて眉間に皺を寄せたまま、吉田のマンションを出てから一言も発しなかった。その怒りを感じるためか、修二は一度は抵抗したものの、諦めて大人しくそのまま部屋へ運ばれた。
 聡は部屋へ入るとソファへ静かに修二を下ろした。そのままキッチンへ向かうと冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し修二の為にグラスに注いだ。残りの水をその場で一気に飲み干してしまうと、その冷たさに少しだけ怒りが退いた心地がした。グラスを手に取って部屋へ戻ると修二はソファにぐったりと凭れて目を閉じていた。涙は既に乾いていたが、目の淵が赤く腫れていた。
「修二、水」
 聡はコップをテーブルに置くと修二の隣へ腰掛けた。修二は薄く目を開けると聡の方へ顔を僅かに傾けて小さな声で言った。
「俺、やっぱり…、聡と一緒には――」
 部屋の中にパンッと渇いた音が響いた。修二は叩かれた右頬を手で押さえて目を見張った。
「いい加減に目を覚ませ! 修二、選ぶって事は、もう一方を捨てるって事だよ。それが生きて行くって事なんだ。人を傷つけたくない修二の優しさは分かるよ。でも誰も傷つけずに生きて行く事なんて出来ないんだ。人は自分の人生を第一に考えて生きて行くものだよ。自分が幸せにならなくて、どうして人が幸せに出来る?」
「俺は、人を不幸にしてまで自分の幸せなんて望まない! 俺が自分の意志を貫こうとすれば、必ず苦しむ人が出る。母も、若菜も、保も…。もう嫌なんだ。もう誰にも苦しんで欲しくない。選ぶ事で人を傷つけるなら、もう俺は選ばない。もう誰も愛さない。聡、ごめん。疲れたんだ…。辛くて堪らない…」
 修二は勢いのまま叫ぶように言葉をぶつけたが、途中から涙を溢れさせ嗚咽に混ざって消えてしまった。
 聡は腹の底で再び怒りが渦巻いていた。吉田との遣り取りを耳にした時から修二の言葉は予測出来ていた。ただ、実際に聞くまでどう対処していいか分からず、怒りと焦燥に駆られたのだが、修二の涙を見た途端、哀れさと愛しさが込み上げた。修二の優しさも脆さも全てを愛している。焦る事も苛つく事も無いのだ。今の自分はその全部を受け止める自信があるのだから。
 聡の心は凪いで静まったが、それでも厳しい表情を崩さずに窘めるように言った。
「だから、殺して欲しいって? 僕はもう一度、修二を叩かなくちゃいけないみたいだね」
 そう言うと、口元を押さえて俯いてしまった修二の顔を両手で挟んで上向けた。
「修二、よく聞いて。修二はそうやって逃げてばかりいるから、余計に周りを不幸にしているんだよ。ねぇ、修二。人の不幸を望む人などいないよ。自分も人も、幸せになって欲しい。誰だってそう思うものだよ。ただ、それは場合によっては矛盾する結果になる。修二の事に関して言えば、この世にたった一人しかいない修二を皆で奪い合っているんだから、あぶれた者は悔しい思いをしなければならない。当然の結果なんだよ。
 修二は今までずっとそんな立場にいたから、辛い思いをしてきた事は分かっているつもりだよ。でも、それで自分の幸せを捨てるなんてナンセンスだ。人に説教出来る立場じゃないけど、今だからこそ分かる。人生なんて矛盾だらけだよ。でも、人はその矛盾を最小限に止める方法を知っている。それは、自分の人生をひたむきに、誠実に生きる事。そうして自分が選択した道で幸せになる事だよ。修二が昔、僕に教えてくれたんじゃないか。忘れてしまったの?」
「俺…が?」
「そうだよ。『あるがままの自分を認めてやること。そして、どうせ生きていかなきゃいけないなら、少しでも良いように生きて行きたい。どうにも出来ない事もあるけど、自分に出来る事を一つずつやっていく。その積み重ねがいつか必ず、自分の理想の姿――“好きになれる自分”に導いてくれる』そう、修二は言ったんだよ。
 どう生きて行ったらいいか分からなかった僕に光明を与えてくれた教えだった。僕は片時も忘れた事は無かったよ。あの頃の修二はどんなに辛くても死ぬ事なんか考えなかった。もっと前を向いていた。それを、殺してほしいと言わせるほどの苦しみを慮ると僕も胸が痛い。だからって、死んだ方が良かったなんて…。死ぬなんて…、死ぬなんて言うな! もう二度と考えるな!!」
 言いながら聡の目からも涙が溢れた。修二は聡の涙を見ると目を見張り、聡の身体に腕を伸ばした。聡は修二の身体を掻き抱き互いにしっかり抱きしめ合った。
 修二は聡の胸に顔を埋め、「ごめん…。ごめんなさい」と呟いた。
「僕が修二を幸せにするよ…。選ばなかった人生に取り残してきた人たちが修二の幸せな姿を見て、修二の選択が間違っていなかったと納得して貰えるように。僕と一緒に幸せになろう。ずっと同じ時を刻み続けて、いつか老衰でこの世を去るまで、昼も夜も、巡る季節を、辛い事も嬉しい事も、共に分かち合って生きて行こう」
 修二は目を閉じてじっと聡の言葉に耳を傾けていたが、ゆっくりと顔を上げると
「俺で、いいの? もう…俺は、昔の俺じゃないよ。今は肉体的にも精神的にも自分の足で立つ事も出来ない。こんなに弱い…俺でいいの?」と心細げに問い掛けた。
 聡は修二の顔を覗き込み、少しだけ赤く腫れた頬に目を細めると、その頬へ左手を添え優しく撫でながら囁いた。
「修二は弱い訳じゃないよ。それに、人は誰だって弱さを持っている。僕にだってある。でも、欠点は補え合えばいい。僕は修二がいいんだ。修二の全てが欲しいんだ。修二以外、何もいらない…。叩いてごめん。痛かったね」
 聡の言葉に修二は一筋涙を零したが、首を振りながら自分の頬を撫でる聡の手の上に右手を添えて、聡を魅了して止まない微笑みを見せた。聡はその微笑を湛えた薄い唇に触れるだけの口づけを落とすと厳かに言った。
「愛してる。誓って、修二。一緒に生きて行くと…」
「誓うよ…。聡と一緒に…生きて行く」
 更に微笑を深めた修二に聡も微笑み返すと、その身体をもう一度抱きしめた。漸く完全に手に入れた美しい宝物を、今度は決して離さないと胸の奥に誓いながら。

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