BACK NOVEL

【 エピローグ 】 このままずっと
〜 JUST THE WAY YOU ARE 〜

 約束の時間の十分前に店に着いたが、既に相手は止まり木へ腰を据えて待っていた。前もこんな風に待たれた事を思い出し、苦笑しながら近づいた。
「ごめん、待たせてしまったかな?」
「ああ、いいえ。つい今し方来た所です。お久し振りです、望月さん」
 一年振りに会う吉田保は、にこやかに笑って挨拶してくれた。僕も挨拶を返しながら彼の隣へ腰掛けた。馴染みのバーテンが挨拶と共にお絞りを渡してくれる。シーバスリーガルをロックで頼むと、吉田も同じものを注文した。
 吉田から会いたいと連絡を貰って、迷わず歌舞伎町のこの店を指定した。職場が虎ノ門になってからは、あまり来る事も無くなったが、二人でじっくり話しをするには最適だし、何よりここは思い出の店だから。
「ここ、すぐに分かった?」
「はい。落ち着いた良い店ですね。今度、接待に使わせて貰おうかな」
「うん。簡単なものしかないけど料理も美味いしね。接待もいいけど、まず守口さんと来たら?」
「駄目ですよ。彼女に教えたら、やっぱり接待に使いますよ。良い店は内緒にしとかないと」
 そう言って悪戯っぽく笑った顔に思わず釣られて微笑んだ。吉田は顎髭が無くなり少し髪が伸びていた。前とは違って穏やかな雰囲気が漂っていて、もともとこんな人柄なのだろうと改めて思った。
「そう言えば守口さんから聞いたけど、文芸誌の売上げいいんだって? 公私共に順調で何よりだね。おめでとう」
「はい、ありがとうございます。お陰様で、無事一周年を迎えられました。望月さんこそ、ヘッドハンティングされて転職したんですよね。仕事の方はいかがですか?」
「う〜ん、大変。遣り甲斐はあるけど、結果が全てだから厳しいね…」
 こんな風に穏やかに互いの近況を報告し合える日が来るとは、正直思っていなかった。吉田の元から修二を連れ帰り、そのまま暮らしはじめて一年が過ぎた。あの後、吉田がどうなったのか、田辺がどんな風に吉田を慰めたのか、僕も修二も触れてはいけないものとして避けていたので知る由もなかった(田辺からは一言も無かった)。
 それが半年ほど前、突然僕らの許に守口さんがやって来て、吉田の事は心配いらないと免罪符を渡された。
「私たち、もう一度つき合う事にしたの。だから安心して」
 守口さんは晴れやかに笑って宣言したのだ。どうも、田辺はかなり前から守口さんに連絡を取っていたらしい。落ち込んだ吉田を二人がかりで慰め元気づけてくれたようで、結果、旧の鞘に収まったのだそうだ。修二は口にこそ出さなかったけれど常に吉田に思いを馳せていたから、守口さんの言葉に心底嬉しそうに頷いていた。
 その後も守口さんは小まめに連絡をくれたので、吉田とは一年振りに会う――恋人を奪い合うという修羅場を演じた――にも拘わらず、こうして蟠り無く会話が出来る。
 吉田の事だけじゃない。彼女の口添えでW大の同人誌に修二の書いた短編小説を掲載してもらう事が出来たし、それを目にした片桐教授に助手として呼んでもらえたので、修二は今、週三日W大へ通っている。勿論、小説も書いている。彼女には本当に感謝してもし足りない。そう言うと、
「あら、長瀬くんの事は、私は紹介しただけよ。彼は才能あるもの。感謝するとしたら、田辺くんにかな。全て丸く治まったのは彼のお陰だもの。私に連絡してくれて、助力もしてくれたし」と笑った。
 先々週の夜、今日のように二人だけで会いたいと守口さんに呼び出された折に、吉田と結婚する旨を聞かされた。祝杯をあげようと、彼女もよく来ると言うサラリーマンが群れをなす新橋の立ち飲み屋で、焼酎のグラスを合わせながら祝福と感謝の言葉を述べると、彼女は戯けた調子で件の台詞を口にした。
「私ね、いずれこうなるって分かっていたの。保くんの長瀬くんへの気持ちを聞かされた時、きっと保くんの望みは叶わないと思ったわ。長瀬くんは優しい人だけど、本当の意味で受け入れられるのは、自分から好きになった人だけなんじゃないかって。でも、夢中になってる保くんに意見しても聞く耳持たないだろうし、当たって砕けて貰った方が諦めがつくだろうと思って、戻ってくるのを待つことにしたんだけど、長瀬くんが保くんを受け入れたと知った時は、さすがにショックだったわ。振られるだろうと高を括っていたんだもの。でも、あれは望月くんに会ったからだって、田辺くんから事情を聞いて、俄然、保くんを取り戻す勇気が出たのよね」
 だから田辺のお陰なのだと微笑む彼女を見た時、僕は酷く複雑な気分になった。自分たちの事なのに、僕らがただ手を拱いていた間、田辺が外堀を埋めてくれたのだと思うと情けなかった。僕が余程情けない顔をしていたのか、守口さんは苦笑しながら僕の背中を叩いた。
「しっかりしてよ、望月くん! 田辺くんって凄い人よ。うかうかして横から長瀬くんをかっ攫われないようにね。貴方たちの幸せが、世のため人のため、延いては私たちのためなんだから」
「どういう意味?」
「保くんは、相手が望月くんだから諦めたの。もし、長瀬くんが田辺くんの所へ行くような事になったら、またお腹の虫が動き出すかもしれないんだから。長瀬くんをしっかり掴んで離さないでよ」
「それは安心して貰っていいよ。絶対、誰にも渡すつもりは無いから。でも…守口さんも、やっぱり田辺は修二を好きなんだと思う?」
「う〜ん。それが、微妙なのよね…。私も彼の長瀬くんに対する想いは、肉親の情以上のものを感じるけど、だからと言って、長瀬くんをどうしたいって言うのは無いみたい。『大事な従兄弟だから、誰よりも幸せになって欲しい』って…」
 有り得ない…。あいつみんなに言ってんのか! 涼しい顔で聖人みたいな台詞、吐きやがって…。あいつは、純粋に大切な従兄弟の幸せを祈っていて、人の恋路を結ぶ愛の天使だって? 否、嘘だ。絶対下心あるだろう! ある筈だ! 男だったら絶対ある!!
 僕が胸の内で毒突いていた間、何故か守口さんも物思いにふけっていたが、突然、ぱんっ!と手を叩いて叫んだ。その声の大きさに、隣で飲んだいた簾頭のサラリーマンが驚いて振り向いた。
「そうよ! 田辺くんにさ、長瀬くんによく似た可愛い娘を紹介すればいいのよ!」
「えっ?」
「それで、めでたく結婚してくれれば、貴方たちも安心でしょう? まぁ、結婚までは行かなくても、その人と恋に落ちて貰えたら言うこと無いわ。田辺くんって、ちょっと格好良過ぎるじゃない。彼が恋に狂って形振りかまわない姿を見てみたいわ〜。あの涼しい顔がデレデレと脂下がったりしたら傑作なんだけど」
「あはは。そりゃ、僕も見てみたいね…。でもなぁ…」
 僕の修二に似た人なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃない…と心の中でだけ呟いた筈なのに、守口さんはシラーっとした顔で僕を一瞥してからため息交じりに、
「そうよねぇ、長瀬くん似の美人を見つけるのは大変よねぇ」と嫌味を言った。
 守口さんは何とも察しが良い。吉田はきっと尻に敷かれるだろうなぁと、僕は苦笑を返すしか無かった。
「まぁ、長瀬くんが二人も三人もいたら、私も困るけど。でも、雰囲気とか、感じが似てるっていうだけでもいいと思うんだけど。誰か心当たりない?」
 しつこく食い下がる守口さんに、ふと、一人の人物が頭を掠めた。いる。一人だけ、修二に感じが似ている人が。でも…。
「なくも無いけど…。でも、女じゃない…」
「えっ? いいんじゃない? 男でも。長瀬くんは男なんだから…」
 目を大きくして疑問符を浮かべた表情に、僕は苦笑しながら答えた。
「ホントかウソか分からないけど、あいつ、男は駄目だと言っていたし、長男だしね。男じゃ、結婚は出来ないから」
 その答えに守口さんは戸惑った顔をして、気遣わしげに尋ねた。
「気にしているの? そういう事…」
「否、僕は別に…。隠す気は無いから、もうカムアウトしちゃったしね」
「えっ? ご両親に?」
「違う。職場に」
「ええ〜っ? この間、転職した会社に? みんな知っているの?」
「うん。全員ではないけど、同僚と上司はね」

 三ヶ月前、僕は転職した。その際、職場の上司にゲイである事を告げた。そもそも転職した理由も、ゲイである事が原因の一つだから。転職する更に三ヶ月前、守口さんが僕らを尋ねて来てくれた頃、僕には一つの悩みがあった。引導を渡した筈の川上が、再度アプローチして来たのだ。
 川上の結婚は、式の直前に花嫁が恋人と駆け落ちして破談になった。川上は行内での評価は高かったがその分敵も多く、同情と同じだけの冷笑を受け、表面上は意気消沈した様子だったが、頭取の側から謝罪と破格の慰謝料を受け取ったらしく、川上自身には何の打撃も無かったようだ。その証拠に、性懲りもなく逢いたいとのメールを受け取った時は、呆れ返って笑ってしまったくらいだ。だが、脅される理由が無くなった川上の誘いはしつこく、笑っていられない事態になった。
 そんな時、ヘッドハンティングの話が舞い込んだのだ。僕に白羽の矢を立てたのは、ニューヨーク支社に出向した元上司だった。渡米して一年後に向こうの経営コンサルティング会社へ転職したのだが、そこが新たに日本支社を立ち上げるにあたり支社長に抜擢され、自ら人員を集めているとの事だった。雇用形態は年俸制で、おまけに三年ごとに契約更新があり、その際、契約金の査定が行われる厳しいものだが、所得は銀行員としての年収の約二倍になる。
 一刻も早く川上の側から離れたかった僕には、渡りに船だったが、離れるだけでは意味がなかった。川上から脅される要因を無くす事。そして、僕の中でも修二の存在を確かなものにする事。だから、カムアウトしたのだ。
 契約に際して互いの条件を話し合いで詰めて行こうと言われ、僕から会社側へ出した条件はただ一つ、ゲイである事を承知してもらう事だと告げた。
 留学していた大学でアメフトをやっていたと言う強面の元上司、葉山昇は、見掛けは全くの日本人だが中身は殆どアメリカ人だった。僕の出した条件に一瞬だけ面食らった表情を浮かべたが、すぐに豪快に笑い出し、握手を求めながら「No Problem」と答えた。
 三ヶ月後に入社する事で仮契約を結び、後日もう一度契約の調整をする段取りを組んだ。別れ際、葉山支社長は握手の手を差し伸べながら僕に訊いた。
「何故、カムアウトを? アメリカではゲイは珍しくないが、いきなりカムアウトする奴はそうはいないよ。差し支え無ければ理由が知りたいんだが?」
「一緒に暮らしている恋人がいます。一生を共にしたいと思っています。日本の社会ではまだ容認される事柄ではありませんが、僕は彼の事を隠して暮らす気はありません。ですから、その内僕らの事が人の口にのぼる事もあるかと。そうなる前にはっきりさせておきたかったんです。僕らの事が会社に不利益をもたらすとお考えでしたら、契約を結ぶ事は出来ませんから」
 葉山支社長は神妙な顔つきで僕の話を聞いていたが、
「よく分かった。守りたい家族が有るのは尚更結構だ。大いに頑張ってくれよ。期待している」
 と大きく頷くと僕の背中をばんばん叩いた。百九十センチの大男の怪力に噎せた素振りをして、涙が出そうになるのを必死で怺えた。嬉しかった。自分の事も修二の事も、他人に認めて貰えた事が、こんなに嬉しいものだとは思ってもみなかった。
 契約を交わしたその日の内に、僕は川上にメールを出した。自分はゲイである事を隠して生きて行くつもりは無いから、貴方のどんな脅しにも屈しない。縒りを戻すつもりは無いので、二度と連絡しないで欲しいと書いて。その後、川上からの連絡は無い。
 僕に適切なアドバイスをしてくれた後輩の田中には、転職する旨と恋路が実った事を伝えた。まるで自分の事のように喜んでくれて有り難かったが、修二に会わせて欲しいとの彼の望みは保留にしている。来年から新卒と中途採用を募集するという僕の転職先に、「僕も、絶対受けます!」と張り切っていたから、無事採用されれば、どっちみち紹介する事になるのだろうけど。
 心配げな顔をしている守口さんを安心させるために、転職に際してのカムアウトの経緯を(勿論、川上の話は伏せて)話すと、感極まった顔をして見る見る瞳を潤ませた。
「そっかぁ…。なんか…嬉しいね。よーし、乾杯しよう!」
 彼女は沁みじみと呟いて僕のグラスに焼酎をなみなみと注ぎ、手酌で自身のグラスも一杯に満たすと頭上に掲げてにっこり笑った。
「私の結婚と、田辺くんを結婚させよう同盟結成、並びに望月くんと長瀬くんの輝かしい未来のために。かんぱーい!!」
 守口さんがでっかい声を上げてグラスを合わせると、何故か先ほどの簾頭のサラリーマンも振り向いて、にこやかにグラスを掲げてくれた。

 こうして守口さんと乾杯した日から一週間後、吉田から会いたいと連絡を受けたのだ。修二にではなく僕に会いたいと。二つ返事で了承したが、僕にだけ会いたいという吉田の真意は分からなかった。
 にこやかに仕事について語る吉田の横顔を見ながら、その心中に思いを馳せた。恐らく守口さんから色々僕らの事を聞いてはいるのだろうが、今、彼の中に修二に対するどんな想いがあるのだろう。当たり障りの無い会話を続けている内に、言葉少なに頷くだけになった僕に気づいた吉田は、罰の悪い顔をして頭を掻いた。
「済みません。だらだらとお時間を取らせてしまって。修二さん待っていますよね…。今日、来て貰ったのは、望月さんと修二さんのお二人に、僕らの結婚式の介添人になって貰いたいと思いまして…」
「介添人? 教会式なんだ」
「いいえ、人前式にするつもりなんです。会費制で、参列者全員に立会人になって貰います。だから介添人と言っても要は立会人の代表なんですけど」
「でも、普通、そういうのは男女で組むものなんじゃない? 会社の人も出席するんだろう? 一人は僕がするにしても、もう一人は守口さんの友だちの女性にしないと拙いと思うけど…」
「私は、お二人にお願いしたいんです」
 戸惑う僕に、吉田は僕の目を真っ直ぐ見詰めて言った。
「今日子から、望月さんが職場にカムアウトした話を聞きました。それでスッキリしたんです。今日子の事は好きですし、結婚に躊躇いはありませんが、心のどこかでまだ諦めきれない部分がありました。でも、痛感しました。私では修二さんを幸せには出来ないと。私には望月さんと同じ事は出来ない。どんなに修二さんを好きでも、あの人を日陰の立場にしていただろうと思います。現に、あの人を養う事で、その後ろめたさを埋めようとしていましたから…。なのに、貴方は外へ向かって修二さんを解放した。貴方なら、否、貴方にしか修二さんを幸せに出来る人はいないと、心底納得しました。だから、貴方たち二人の前で結婚を誓いたいと思ったんです。自分の気持ちにけじめを付けるためにも、私自身を解放するためにも…」
「そう…。そういう話なら僕は構わないけど――」
 どうして先に僕にだけこの話をするのか、という疑問が沸いたが、すぐに心中を察して口を噤んだ。修二なら喜んで引き受けるだろう。だが、それを直接修二の口から聞くのは、彼にはまだ辛い事なのだろう。
「ありがとうございます。本来はお二人揃っている時にお願いするべきだと思ったんですが…。望月さん、本当に今まで申し訳在りませんでした」
 吉田はほっとした表情を見せた後、すぐに顔を引き締めると深々と頭を下げた。突然の謝罪の言葉に訳が分からず僕は慌てて訊き返した。
「吉田? 何? どうして謝るの?」
「自分の気持ちを整理したものの、自信が…無かったんです。お二人の前に立つ自信が。でも貴方には、何よりもまず非礼を詫びたかった。私は貴方を軽蔑していました。許してください。そして…私がこんな事を言うのは僭越だと分かっています。でも、言わせてください。修二さんを、どうか、よろしくお願いします。幸せにしてあげてください…」
 そう言って、再び頭を下げたままの吉田の肩が震えていた。僕はその肩を軽く叩いて揺さ振った。
「もう、いいんだよ。頭を上げてくれ。勿論、修二の事は幸せにするよ。約束する。介添人の件、修二には僕から話しておくよ。喜んで引き受けてくれると思うよ。さあ、乾杯しよう。結婚、おめでとう」
 吉田は顔を上げると少し涙ぐんでいたが、柔和な笑顔を見せるとグラスを手に取った。僕らはグラスを合わせ、薄くなったウイスキーを飲み干した。

 部屋へ帰ると修二が不安気な顔で僕を出迎えた。一年振りに会う吉田とどんな会話があったのか、気になって仕方がなかったのだろう。背広を受け取ってくれた修二に
「お酒、飲もうよ」と言うと、
「もう、飲んで来たんだろう?」と呆れた顔をしてため息をついた。
 部屋着に着替えてリビングへ戻ると、ダイニングテーブルの上にジャックダニエルのボトルとグラスの他に、生ハムとチーズを使った摘みやサラダが用意されていた。修二は和食中心の食事を作るから、こんな摘み系の料理は珍しい。悩み事があるとすぐ食が細くなるので、きちんと夕食を取ったのかと訊くと、
「さっきまで賢造が来ていたから、一緒に食べたよ。生ハム貰ったからって、わざわざ持って来てくれたんだ。夕食の残りだけど、それでいい? 後、冷凍のピザがあるけど。ああ、ワインも持って来てくれたよ。白だけど、開ける?」
 修二はワインの瓶を眺めて銘柄を確かめていた。
 また来てたのか、あの野郎…。屈託無く話す修二に悪気は無いのだろうけど、さっきまでの良い気分が半減した。
 修二と暮らしはじめてすぐ、三鷹から中野のマンションへ引っ越した。三鷹は緑が豊かで良い場所だが、部屋の広さと修二の足の事を考え、より都心に近い利便性の高い広めの物件へ移ったのだ。古いが間取りが良く、駅にも近い。部屋は気に入っているが、一つ問題なのが、ここへ越してから始終田辺が来るようになった事だ。僕がいてもいなくても、堂々とやって来て寛いで行く。まるで、『協力してやったんだから、当然だろう』とでも言うように…。
「また、来てたんだ…」
 ため息をつきながらソファに腰をおろした僕に、修二が氷を入れたグラスと酒瓶を乗せたワゴンを押して近づいて来た。そのまま僕の隣に座ると苦笑しながらグラスを手渡した。
「今日、聡と保が会う事を守口さんから聞いたんだろう。俺を心配して来たんだよ。だから、怒らないで…」
 そう言って微笑まれると、何となく怒りが治まってしまうのだから自分でも笑ってしまう。仕方ない、惚れちゃってますから…。だからと言って、この状況に甘んじている気は更々無い。
 協力するよ、守口さん。絶対、田辺を修二から遠ざけてやる! 紹介してやるともさ、“ 修二によく似た可愛い人 ” を。『結婚させる』事は出来ないと思うけどね。僕は田辺が修二の側から離れてくれれば、どっちでも構わないんだし。でないと、老後に二人で入る養老院にまでついて来そうな雰囲気だもの。覚悟しろよ、田辺。恋に思い煩って身悶えて貰うからな…。僕は内心で決意の炎を燃やしながら、顔に浮かべた笑みを深くした。
「怒っている訳じゃないよ…。まぁ、そんな事より、吉田が守口さんと十月に結婚するだろう。それで、結婚式の介添人を僕たちに頼みたいんだって。今日はその依頼で呼ばれたんだよ」
「えっ、そうなの? あれ? でも、介添人って…、男同士でやれるものだっけ?」
 修二は目を見開いて驚いた後、首を傾げた。
「僕もそれが気になって訊いたんだけど、吉田は僕たち二人に頼みたいんだって。人前式だから正式には立会人の代表になるらしいよ。僕は一度だけ人前式の結婚式に出た事があるけど、やっぱり男女が組になっていた。でもまぁ、別に構わないんじゃないかな、男同士でも。介添人のやる事なんて挨拶とか、二人の紹介だとか、指輪の交換を手伝うくらいだろうから。吉田の真意はね…、僕たち二人の前で結婚の誓いを立てたいんだって。いいよね、修二。引き受けてあげよう」
 僕の言葉に、修二はもう一度目を大きく見開いて僕を見詰めた後、泣き笑いのような表情を浮かべて頷いた。その顔を見ながら修二の手をそっと握ると、修二も指を絡めて握り返し、僕に寄りかかって肩に頭を乗せた。これで修二の心労も漸く無くなるのだと思うと、僕の心も軽くなった。手放しで自分たちの幸せを甘受出来るのだから。僕は修二の髪に口づけてずっと考えていた事を口にした。
「修二、僕らも結婚式を挙げよう。別にみんなの前で誓う訳じゃなくて、どこか景色の良い所へ二人で旅行に行ってさ、そこで指輪の交換ならぬ、時計の交換をしよう」
 修二は驚いたのか身体を硬くして絡めた指に力を入れたが、拒否はしなかった。またすぐに力を抜くと不思議そうに尋ねた。
「時計の…交換?」
「そう。僕はね、『ラベル』のマスターにお揃いの時計を贈られた時、いつまでも修二と同じ時を刻んで生きて行きたいと思ったんだよ。今もそう思っている。だから、離れていた互いの時間を結び直したいと思って…。マスターがご存命だったら、それこそ立会人になって貰いたかったな。せめてお墓参りをしたいけど、どこだか分からないしね…」
「金沢にある」
「えっ?」
「金沢の祖母の実家の菩提寺に墓がある」
 今度は僕が驚いて修二の顔を見たが、修二は僕の肩に頭を乗せたまま伏し目がちに話し続けた。
「祖母の同郷の人だった。幼馴染みだと言っていたよ。音楽学校に入るために上京したのだと聞いてはいたけど、どうしてあそこで音楽喫茶を始めたのか、何故独身を通したのか詳しい事はよく知らない。祖母もマスターもあまり口数の多い人ではなかったから…。ただ、子どもの頃に『君のお祖母さんは初恋の人だ』と聞かされた事がある…」
「それって…。前に修二が書いた小説って、マスターがモデルなの?」
「うん…。でも、設定だけだけよ。殆どフィクション」
 修二がW大の同人誌に載せた小説は戦時中の男女の悲恋物だった。学生の頃書いていたような不条理物ではなくごくごく普通の恋愛小説だったが、清冷とした男女の仲を緻密に描いて味わい深く、評価も高かった。
「子どもの頃は、どうして祖母が祖父と別れなかったのか、ずっと不思議に思っていた。マスターの話を聞いた時、余計にそう思った。でも、今なら分かる…。祖母は、とても不器用な人だったんだ。少しだけ物を見る角度を変えれば、幾らでも視野は広がったんだろうけど…。そして、俺も…。どうしても、“ その人 ” でなければ駄目なんだ。とても罪深い人間だと思う。そんな俺を…保は許してくれたんだろうか。俺は、幸せになって…いいんだろうか…」
 修二は顔を上げて僕を見た。深い奥二重の栗色の瞳が露を含んで揺れていた。僕は同じ色の髪の間に指を入れて引き寄せると、形の良い額に口づけた。
「いいんだよ、修二。ねぇ、今度、金沢へ行こう。お祖母さんとマスターのお墓参りに。そこで誓ってこようよ、『幸せになります』って。二人とも喜んでくれると思うよ。吉田の事は大丈夫。守口さんって素敵な恋人がいるからね。きっと幸せになれる。だから乾杯しよう。吉田の幸せを祝して」
 修二が微笑んで頷くのを確認してから、僕は立ち上がってベランダの窓を開け、ワゴンの上のジャックダニエルのボトルと修二のグラスを手にソファへ戻った。窓から入る心地よい風にカーテンが揺れている。空には夏の靄をまとった月が飴色に輝いていた。
 あの日、修二と偶然の再会を果たした日も月が出ていた。それは綺麗な朧月夜だった。あれから何度も月が満ち欠ける間、修二が欲しくて手に入らなくて、足掻いて苦しんで何度も挫けそうになったけれど、諦めなくて良かったとつくづく思う。今、こんな風に穏やかに一緒に月を眺められる幸せがあるのは、自分の執念と沢山の人の協力があったから。ちょっと悔しいけれど、やっぱり田辺にも心から感謝している。
 僕は修二のグラスと自分のグラスに琥珀色の液体を注いだ。溶けかけた氷が動いてカランと心地よい音を響かせた。不意に、田辺が言った『一握の砂』という言葉を思い出した。
 確かにね、こうして幸せの中にいても、ちょっとした隙に、気づかぬ内に、握った一握の砂のように、幸せが指の間からさらさらと零れ落ちる事もあるだろう。でも、もしも零れ落ちてしまったら、何度でも掴み直せばいい。
 ねぇ、修二、そうだろう? その度に少しずつ形は変わってしまうかもしれないけれど、それだっていいんだ。どんな事があっても修二は修二のままだし、僕もずっと変わらず愛しているよ。心の底から約束する。だから、明日も明後日も、いつまでも僕の隣で笑っていて欲しい。
「あの時は、二人の再会に乾杯したね…」
 修二も再会した日の事を思い出していたのか、懐かしそうに目を細めて囁いた。僕は修二の肩を抱き寄せてグラスを掲げた。
「そうだね…。今度は、吉田の幸せと、僕たちの明日に。乾杯…」
 微笑みながらグラスを寄せた修二のグラスに優しく触れ合わせると、チンと、透き徹ったグラスの音が、夜空に高く吸い込まれて行った。

 (了)

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