INDEX NOVEL

一握の砂 〈1〉

 ノートパソコンの画面がスリープ状態になる。望月聡は今日、何度目になるか分からない舌打ちをすると忙しなくキーボードを叩いた。
「どうかしたんですか? 今日は何だか変ですよ…」
「えっ? ああ、そう? 何でもないよ」
 斜め前の女子社員に指摘されて慌てて返事をする。聡自身、仕事に身が入らないことを自覚しているからばつが悪い。咳払いして頭を振ると気を取り直して数字を打ち込むが、それも数行で止まってしまう。
 駄目だ。集中できない。気分転換しようと席を立つと後ろから支店長に呼ばれた。
「望月、悪いんだが、忌引きの田中の代わりに、江崎物産と藤倉さんのところを回ってきてくれないか。日にちの都合がつかないんだそうだ。挨拶替わりにもなるから、よろしく頼むよ」
「はい、行ってきます」
 渡りに船と、鞄を用意する。本当は今日中にまとめたい書類だったが、このまま続けても無駄な時間を費やすだけだと諦めた。今は外へ出た方が気が紛れるだろう。
 聡は鞄を抱えて外へ出ると、すぐ側の地下鉄の階段を下りた。改札の前で中年のサラリーマンが携帯電話に向かって大声を張り上げている。釣られるように背広のポケットから携帯を取り出すと、リダイヤル番号を呼び出した。十ケタの番号を確かめるように眺めながら祈るような気持ちで通話ボタンを押す。
「お客様がお掛けになった電話番号は、現在使われておりません…」
 間髪容れず聞こえてきたのは、もう何十回も聞いたメッセージの繰り返し。その優しげな声が恨めしく、携帯を閉じて握りしめた。
 間違える筈はないのだ。
『携帯は持ってないんだ。吉田の家で世話になっているから、その番号でよければ…』
そう言って、長瀬修二は自らの手で聡の携帯へ番号を登録したのだ。単純に打ち間違えたのか、でなければ―。
「僕と連絡を取る気がないのか…」
 口に出すと余計に沈んだ気分になった。舞い上がっていた分、落ち込みが激しい。
 奇跡のような再会だったのだ。神に感謝したほどの。なのに…。
 聡は唇を噛みしめて携帯を背広にしまうと、滑り込んできた地下鉄に乗り込んだ。

 一週間前、今日のように外回りをして直帰をした折、予てから欲しいと思っていた画集を買うために紀伊国屋へ寄った。特に急いでいなかったので、エレベーターを使わず一階ごと階段で移動していると、文芸書のフロアーで杖をついた男が目に入った。ダークグレーのカジュアルなスーツを身につけた、遠目でもスタイルのよい華奢な男だった。
 注目したのはその髪だ。真っ白なのだ。白髪と言っても所々栗色が混ざっていたが、無造作に伸びたその髪に隠れて顔が見えない。体つきは二十代前半に見えるが、髪のせいで年齢がまったく分からない。そのアンバランスさが否でも人目を引いた。周りの客も彼をチラチラ眺めている。
 聡には、その後ろ姿が誰かに似ているようで余計気になった。でもこんな白髪の知り合いはいない。気のせいだと思ったし、あまり見ているのは悪いだろうと目を逸らすと、直ぐ様ドスンという音がした。振り返ると件の男が文庫本と一緒に床に倒れていた。近くにいる客は驚いて見ているだけで誰も動かない。慌てて駈け寄って男の顔を見た途端、心臓が止まりそうになった。
 修二だった。片時も忘れたことのない大学時代の恋人。
 白髪で杖をつく姿は想像も付かない変貌で、自分の目を疑ったが、その顔だけは昔のままだった。伏していても分かる深い二重の瞳と綺麗に弧を描く柳眉、鼻筋の通った女性的な印象を与える顔の中で、薄い唇と細く尖った顎が意志の強さを表していて凛々しかった。
 穴が開くほど眺めた。何度も見直して、恐る恐る名前を呼んだ。
「修二…だよね…」
 ゆっくりと顔が上がり視線がぶつかった。見る間に驚愕の色を湛えて見開かれる大きな瞳。間違いなく長瀬修二、その人だった。
 聡はこの機会を逃したくないと、修二を飲みに誘った。あまり動けないと左足をさする姿に胸が痛んだ。幸い、馴染みの店が近所にある。バーなのだが落ち着いた店で、簡単な食事もできるし味も良かった。
 店に腰を据えてからも戸惑いと困惑に満ちた風情の修二に、無理もないと心に刺さるものを感じながら、それでもこうして、傍らに座って修二を見られる喜びに痛みが麻痺していった。修二は外見こそ変わったけれど、その顔つきも、澄んだ瞳の中に不意に浮かんでは沈む翳りの色も、昔と少しも変わらない。それが聡には嬉しかった。
 足のことは風の聞えで知っていた。一年前、ただ事故にあったと聞いただけで詳細は分からなかった。心配で矢も楯もたまらず京都の新聞社へ電話をかけたが、退職したと告げられ、居所は個人情報だから教えられないとの一点張りだった。迷ったものの、修二の実家にもかけてみたが、母親らしき女性が出て、「ご心配いただかなくても命に別状はありません。こちらから連絡は取れません」それだけ言うと一方的に切られてしまった。どういう家族なんだと憤慨したが、思えば修二の口から家族の話が出ることは希で、何一つ知らなかったのだと愕然としたのだった。
 電車の窓に映る自分の顔を見詰めながら、聡はため息を漏らした。
 友人として一年。恋人として三年。一緒にいた時間よりも離れていた時間の方が長い。知らない人間を見るような怪訝そうな修二の視線が蘇る。そっと身体に触れながら、高校生の頃の自分の姿を思い描くが上手くいかない。姿かたちが変わったと言えば自分の方こそだと苦笑した。
 就職を機に、独り暮らしを始めてから五センチ身長が伸びた。おまけに残業や接待で不規則な生活が影響してか横にも成長した。さすがに気になって、自炊を心がけジムで鍛えた。お陰で大学生の頃とは比べものにならないほど体格が良くなったが、父親や兄の体型を思い起こせば、実家にいた頃は精神的に萎縮していたせいか成長が遅かっただけかもしれない。
 あの時、『立派になった』と自嘲と羨望が入り交じった目で、ずっと抱えていた内面の毒を吐露する修二の姿に驚きながらも、聡はぞくぞくと足元から這い上がる喜びに震えが止まらなかった。
『…知らなかっただろう。当然だ、ずっと隠していたから。ずっと格好つけていた。
 お前の信頼に応えられる、余裕のある大人の男でいたかった。そう見せたかった…』
 声音こそ冷静だったけれど、身を切り刻むような自虐の告白は、紛れもなく自分へ向けられた生の感情で、まるで愛の告白に聞こえた。
 ずっと聞きたかった。ずっと見せて欲しかった修二の内面。それを、別れてから七年もたった今、知ることになるなんて―。
 聡は電車の揺れに身を任せながら目を閉じた。瞼の裏に鮮やかに蘇るのは、本を抱えて笑っている高校三年生の修二の姿だった。

 聡が修二に会ったのは高校三年の選択クラスでだった。受験科目別に変則的に組まれた受験対策クラスで、授業時間以外は本来の自分たちのクラスへ戻るから、初めて顔を合わせる生徒が多かった。成績順に上から組まれるため、文系一部という聡のいるクラスは、トップの成績を誇る真面目で堅物そうな生徒ばかり。その中で一人、修二は異彩を放っていた。
 栗色の細くさらさらした髪とその同じ色の瞳。手足がスラリと長く、女性的で上品な、ちょっとしたモデル顔負けの美貌。それなのにブレザーの袖を捲り上げ、濃紺のネクタイを緩めて着崩しているから目立つったらない。
 興味を引かれて、彼と同じクラスの生徒にどんな人か尋ねると、学年でも五番に入る秀才でスポーツもできると教えられた。「唯ね…」とその生徒は声を小さくして、「アウトローの連中に人気が高くて、近寄り難い存在なんだ」と付け加えた。
 アウトローと言うのは隠語で、素行の悪い生徒の事ではない。幼稚舎からある私立大学附属の男子高だったから金持ちのぼんぼんが多く、そうした遊び人のお坊ちゃん連中の事を、中途入学の生徒が揶揄して言ったものだった。修二は男子校特有の疑似恋愛ごっこの対象にされているという事だ。成程、あの顔ならそうかもしれないと聡は納得した。
 聡は中学生の時から同性愛者の自覚があった。自分なら疑似恋愛ごっこなどシャレにもならい。そんな相手には近づかない方が得策だ。もしも溺れてしまったら受験どころではなくなるだろう。聡は修二の存在を頭の中から閉め出した。秀才で美形など、ちょっと頭にも来たし、卒業するまで話もしないだろうと思っていた。
 その相手と夏休み中にばったり出会った。お盆前の蒸し暑い日だった。
 聡は夏休みに入ってから毎日、駿河台下の予備校へ通っていた。エスカレーター式とはいえ大学自体のレベルは高く、自分の希望する学部へ行きたい場合は、外から来る一般の生徒と同じ入学試験を受けなければならなかった。成績は悪くはないが、志望学部へは手が届いていなかった。
 午後の授業までだいぶ間が合ったので、聡はふらふらと神田の古本屋街を覗いて暇を潰していた。その中の何気なく入った一軒に修二がいたのだ。
 赤いバンダナを巻いて特徴的な栗色の髪が見えなかったから、最初は他人の空似かと思った。だが、却って印象的な深い二重の瞳が露わになって、間違いなく修二本人だと確認できた。
 聡が驚いたのはその出立ちだった。黒いTシャツとジーンズに薄汚れたキャンパス地のエプロンを締め、軍手を填めた両手に本を抱えている。じっと本の背表紙を目で追っては、一冊ずつ丁寧に棚に入れていた。
「何しているの?」
 思わず声をかけていた。自分からは近づかない、そんな諫めはとうの昔に頭の中から抜け落ちていた。振り向いた修二は目を大きく見開いて驚いていたが、「バイト」とぱつりと呟いた。
 この時期に? と、聡は心底驚いた。修二は進学しないつもりなのだろうか。否、そんな筈はない、彼は学年五番の秀才なのだから。意地の悪い気分になって「余裕だね」と言い返すと、「推薦を取るつもりだから」と事も無げに答える。ああ、その手があったかと、ため息が出た。何もかも自分とは違うのだと聡は改めて修二を眺めた。
 頭が良くて、顔が綺麗で、恋愛ごっこも楽しんで…。この地獄の夏休み中にバイトをする余裕があるのだ。その中身の出来に感服しつつ嫌味の一つも言ってやりたくて
「そうか…。長瀬って、“ 意外と ” 成績が良いんだよね…」
 と言うと、ちょっと困った顔を見せた後、「 “ 意外と ”、は余計なんじゃねーの」とぶっきらぼうに答えた。
 聡はその口の悪い物言いに呆気に取られた。考えて見れば、初めて口をきいたのだ。こんな風に喋るのかと思わず顔を凝視してしまう。よく見ると、仏頂面をしているくせに頬が少し赤い。聡は、今までその外見から、勝手に想像していた修二とのギャップに吹き出してしまった。
 何故か釣られて笑い出した修二の声に、店の奥から主人らしき年輩の男性が出てきた。友だちかと訊かれた修二がそうですと答えると、休憩しておいでと愛想よく言われ聡は慌てた。同じ授業を取ってはいるけれど、友だちでもなんでもない。話すことなんて無いんじゃないか、と修二を窺うと、「じゃあ、行こうか」とバンダナを外して微笑んだ。
 栗色の髪がさらりと額に落ちてきた。間近で見る修二の妖艶な微笑みに、鼓動が速くなるのを感じながら、聡は小さく頷いた。

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