INDEX NOVEL

一握の砂 〈19〉

 バーの中は紫雲が立ち込めて、時折大きな笑い声と、無数の騒めきが細波のように響いていた。ちらりと見上げた店の時計は、八時を回ろうとしていた。吉田保はため息をついて薄くなった水割りを舐めた。学生時代から馴染みの店の止まり木に腰を据えて二時間近く経つ。こうして用もないのにぐずぐずと油を売っているのは、自分の部屋に帰るのを躊躇っているからだった。
 土曜日から二泊三日の予定で出た出張は一日帰宅が早まり、日曜の夕方、保は贅沢かと思いつつも東京駅からマンションまでタクシーを使った。新しく創刊する事になった文芸誌の編集を任され、ここ一ヵ月、帰るのは着替えをするためだけで、まともに部屋で休む暇もなかった。予定が切り上がった分、今日こそは最愛の恋人とゆっくり過ごせると出張の疲れも忘れるほど上機嫌だった。それが、マンションの目と鼻の先まで来た時、最悪の気分に陥った。
 その最愛の恋人、修二が、鞄を手に見知らぬ車から降りてくるのを目撃したのだった。保は慌てて運転手に車を止めるように言うと中からその様子を伺った。修二は走り去る車が見えなくなるまで名残惜しげにその場に佇んでいたが、やがてマンションの中へ入って行った。保は暫く呆然と修二が消えたマンションのエントランスを眺めていたが、運転手に降りるのかと訊かれ、思わず「新宿へ」と告げていた。それから二時間、あれはどういう事なのかと、埒もない物思いにふけっていた。
 田辺の車は濃紺のアウディ。今日見たのは銀色のレガシーだった。修二は最近、田辺の紹介で企業の広報誌に執筆する事になったと言っていたから、その関係者の車かも知れない。打ち合わせ後に送って貰ったのだろうか? 休日に? 自分が留守の間に出掛ける予定など一切聞いていない。直感が、一番恐れていた事態が起きている事を告げている。
 保は頭を振って、何度目になるか分からないため息をついた。別に運転者を見た訳ではないから、良い方へ考えようと思うのに、どうしても思考がひとりの人物へと繋がってしまう。
 望月聡――彼が尋ねて来たのが一ヵ月ほど前の事だ。あれだけ牽制したのだから、よもや近づくまいと思っていた。まさか修二の方から…と思った瞬間、胸が掻きむしられるような痛みを感じた。それでも、頭の何処かで、こんな日が来る事を予感していた気がする。切っても切っても、あの二人は磁石のように惹かれ合う運命なのだろうか。
 では、自分は? 足かけ十年、修二を見詰めてきた自分はどうなる…。
 保は初めて修二を見た時の事を思い出していた。あれは、高等科へ進学したばかりの頃だった。放課後のクラブ活動の勧誘で何気なく覗いた講堂の中、紺地の袴を着けた修二が合気道の演舞をしていたのだ。細い身体で技の切れも鮮やかに相手を倒していく姿が印象的だったが、何より全てが美しかった。磨き抜かれた床に影を映して凛として立つ姿は、まるで水辺に咲いた花菖蒲のようだった。
 本気で合気道部へ入ろうかと思ったが、よくよく確かめると修二は客寄せのために駆り出されただけで、部活動そのものはしていなかった。それ以来ずっと修二の姿を追い続けてきたが、マンモス校だったから一学年違う修二の姿を見掛ける機会は殆ど無かったし、会えたとしても影のように寄り添う田辺が邪魔で、容易に近づく事は出来なかった。
 大学まで追いかけて、やっと邪魔者は消えたと思ったのに修二は既に望月のものだった。あの時の喪失感は今でもはっきりと覚えている。思えばあの時から好きだったのかも知れない。諦め切れず、文学部の伝を利用してやっとやっと修二と口をきく事が出来たのは、大学も二年になってからだった。
 あまりに綺麗で近寄り難く、人慣れしない気位の高い猫のような修二だが、その実体に触れると賢い割に抜けた所もある、お人好しで涙脆くて繊細で、慈愛に満ちた優しい人だった。知れば知るほど魅せられて、憧れは長い時間を掛けて恋情へと昇華していた。
 保は水割りの入ったグラスを握ると、ぎりっと奥歯を噛みしめた。十六歳の時から十年かけてやっと手に入れた宝物を、どうして今更手放せるだろう。負けるものかと腸が煮え返るようなのに、頭の中では、望月と一緒にいた頃の修二の嬉しそうな顔や、別れた時の打ち拉がれた暗い瞳、先ほど目にした名残惜しく見送る背中が思い出されて弱気になった。
 どうして自分では駄目なのか。何故、彼でなければならないのか…。
「あら、久し振りね。こんな所で会うなんて…」
 物思いに浸っていたのを後から突然声を掛けられ、保は飛び上がるほど驚いた。慌てて振り向くと、華やかに着飾った守口今日子が笑いながら立っていた。
「酷いわね、そんなに驚かないでよ。幽霊が出たみたいじゃない」
「驚くよ…」
 保はそう呟いて、この店を選んだ自分の迂闊さに心の中で舌打ちした。ここは今日子とよく一緒に来た店だったのだから、偶然会ってもおかしくない。保は平静を装いながら久し振りに会う今日子の綺麗にセットされた髪と手にした大きな紙袋を交互に見て「結婚式?」と尋ねた。
「そう。誰のかなんて訊かないでね。貴方の嫌いな人のだから」
 今日子は保の隣へ腰を掛けると、バーテンにカクテルを注文した。断りもなく隣に座った今日子に保は鼻白んだが、ため息をついて自分も水割りを注文した。今日子の友だちで『貴方の嫌いな』と言われれば一人しか思い浮かばない。前川由美だ。
「あの女か?」と保が吐き捨てるように言うと、今日子は苦笑いを返しただけだった。
「田辺先輩を振り向かせようと、あれだけ大騒ぎしたくせに、いったい何処の誰と一緒になったんだ? 弁護士か? 実業家か?」
「相手は普通のサラリーマンよ。それに、もう昔の話でしょ。あの事は本人も後悔しているのよ、許してやって。由美は本気で田辺くんの事が好きだったのよ。だけど、田辺くんは長瀬くんしか見ていないし…。まあ、それは貴方も一緒だわね…」
 今日子は穏やかに笑いながらさらりと嫌味を言って寄こした。
 今日子とは保が大学二年の時、修二合いたさに潜り込んだゼミの教室で知り合った。見掛けに依らずさばさばした性格の今日子とは馬が合い、文学談義を繰り返すうちに自然とつき合いはじめたのだった。一つ年上の今日子は大手出版社に編集者として就職し、保も一年後、今日子とは違う出版社に就職した。互いに同じ道に進み、将来の事も漠然とだが考えてはいたが、まだまだ道半ばであり時期が来れば自然と事が運ぶだろうと鷹揚に構えていた。ところが思い掛けず修二の事件が起こり、自分の修二に対する恋情を認識してしまった保は懊悩の末、今日子に洗い浚い自分の気持ちを打ち明けて、納得尽くで別れたのだった。
 驚いた事に今日子は別れる条件として、友人としてのつき合いを続けたいと言い、保は仕方なく近況を知らせるメールの遣り取りを続けてきたが、こうして直接会うのは一年振りの事だった。
「そう言えば幽玄社さん、すごいじゃない。新しい文芸誌の発行なんて、眠れる獅子がついに目覚めたって評判よ」
 何も答えない保に、今日子はさり気なく話題を変えた。
「どうして知っているの?」
「嫌ね、先週、新聞や書店に広告を出していたじゃないの。大丈夫?」
 保はそうだったと額に手をやってため息をついた。忙しすぎるのだ、それが全ての原因なのだと思った。保の勤める出版社は辞書や教育書がメインで、その他に何故か社長の趣味で車とバイクの雑誌を出していた。一般にはそちらの方が有名だったが、業界では老舗の堅実な出版社として認知されていた。それが、時流に迎合してネット小説家と新人小説家を育てる文芸誌を作るのだと、これまた社長の鶴の一声で、社員一同は昼も夜もない生活を余儀なくされ、同業者には好奇の目で見られているのだった。
「ああ…、そうだった。はっ! 何が眠れる獅子だよ。今更文芸誌の発刊なんて冗談かと思ったよ。相変わらず僕ら社員は社長の気まぐれに泣かされてばかりさ。ここ一ヵ月、碌に家にも帰れやしない。お陰で…」
 保は鼻を鳴らして忌々しそうに話し出したが、危うく修二の不貞疑惑を口にしそうになって話の途中で黙り込んだ。
「長瀬くんとはすれ違いになっちゃってるの?」
「うん…」
「上手くいっていないの?」
 今日子の執拗な問い掛けに、保は答えに窮して下を向いた。
「その質問に、僕は答える義務があるのかな?」
「勿論! 私が身を退いてあげたんだから、当然訊く権利はあると思うわ…。なーんて、単なる興味なんだけど。でも、どうせなら上手く行ってくれないと、私の立つ瀬がないじゃない?」
 今日子は悪戯っぽく言った後、優しく微笑んだ。保は今日子の言葉に驚きながらも、前を向いたまま冷静に答えた。
「君は…強いね。俺が君なら、ぶっ壊れちまえばいいと思うよ。とても相手の幸せなんて考えられない…」
「私だって、聖人君子な訳じゃないわよ。意地よ、意地。ただ、由美の例もあるし、相手の気持ちが自分に向いていないのに、悪足掻きはしたくないじゃない?」
『相手の気持ちが自分に向いていない…』それはまるで、今の自分の立場を見透かされているようで、保は思わず今日子の顔を見た。声音は穏やかだったがその顔は笑っておらず、今日子がその心に何を思っているのか窺い知ることは出来なかった。ただ、凛として澄んだ瞳を真っ直ぐに向けた今日子の顔を、保はとても美しいと思った。
「どうして、その人じゃないといけないんだろうな…」
「えっ?」
「どうして、“ 彼 ” でなければならないのかと思って…」
 どうして自分は、聡明で強く美しい今日子ではなく、硝子のように儚く心許ない修二が好きなのか? どうして修二は、あんなにも辛い思いをさせられた自分勝手な望月を忘れられないのか?
 愛情を示してくれる相手をそのまま愛し返せればこんな楽な事は無いのに、何故、己が心惹かれる相手しか受け入れられないのだろう?
 今日子は暫く保を眺めた後、正面を向いて緑色の液体が入ったグラスを捧げ持ち、円を描くように揺らしながら答えた。
「生まれた時に魔女に魔法をかけられた、なんてお伽話を子どもの頃に読んだ事があるわ。貴方は、栗色の髪に同じ色の印象的な瞳を持つ美しい人に、恋する魔法をかけられたのかもね…。何故、“ その人 ” に惹かれるのかなんて誰にも分からないわ。多分、永遠の謎。それが恋っていうものなんじゃない? でも私は、人は自分の心持ち一つで変われるものだと思うし、もっと違う想い方が出来ると思う」
「違う想い方?」
「そう。恋慕を至情の愛に変化させるの…。自分が大事に想う相手なら、その人の本当の幸せを考えてあげられるのじゃない?」
「至情の愛…。君は、それが出来たという事かい?」
「さあ、どうかしらね…」
 そう言うと、今日子は目を細めて薄く微笑んだ。
 保はその顔を見ながら、複雑な心境になってため息をついた。今日子は、今の自分と修二の間の溝について何も知らない筈なのに、相手の幸せを考えれば身を退くべきだと言う。今日子は自分の想い――抑制出来ない激しい恋情を、至情の愛――人が自然に生まれ持つ愛情へ変化させたから身を退いたのだと。それ程に、今日子の器は大きく、懐深く保を愛していたのだと言われているようで、遣る瀬なく居たたまれない思いに駆られた。
 確かに、そういう想い方もあるだろう。それが愛というものかも知れない。でも、自分にそれが出来るのかと言えば、今の時点では否としか答えられない。修二の熱く柔らかい躯や、高潔で包み込むような優しさに触れてしまった今では、それを手放すなど考えるだけでも耐えられなかった。自分にとっての愛とは、奪う事なのかも知れない。修二の本当の幸せを…。
 保は今日子を直視する事が出来ず、視線を外すと「帰るよ…」と言って逃げるように席を立った。背中に今日子の視線を感じたが振り切るように店を出ると、ネオン瞬く喧噪の波へふらふらと引き込まれて行った。

NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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