INDEX NOVEL

一握の砂 〈18〉

※ 性描写があります。18歳未満の方はお読みにならないでください。

 その日は朝からしとしと霧雨が降り、この季節にしては肌寒かったが、ベッドで絡み合う二人には寒さも湿気の鬱陶しさも関係なかった。窓から差し込む薄暗い光とベッドサイドの白熱灯の灯りが、二つの裸体を照らしている。昼日中だと言うのに淫猥な空気が立ち込めた寝室には、苦しげな喘ぎと猫が水を舐めるような水音だけが響いていた。
「あっ…もう、やめ、て…」
「どうして? 好きでしょう? ここ…」
 聡はそう言って、修二の後孔に入れた左手の中指を括約筋にひっかけると、ぐっと孔を広げるように引っ張った。おちょぼ口のように僅かに口を開いた入り口に、硬く尖らせた舌を差し込んで舐ると、修二は悲鳴を上げて身体を震わせた。
「やあっ…ああっ、んっ…ん、ん――」
 修二が顔をシーツに擦りつけて声を抑えようとすると、更に深く舌を潜り込ませて襞を舐った。
 聡は自室のダブルベッドの上で、もう二時間近くも修二をこうして後から責めている。ホテルで身体を重ねてから一ヵ月近く経つが、こうして逢うのはまだ四度目の事だった。たまたま週末にかけて吉田が二泊三日の予定で出張に出たので、土曜日の今日、修二は初めて聡の部屋へ泊まりがけの逢瀬に来たのだった。
 車で迎えに行くとの申し出を断わられ、修二が電車で来るのを今か今かと待ちわびて、挨拶もそこそこにベッドへ押し倒したのが二時間前。逸る気持ちを抑えて服を脱がせれば、背中にくっきりと吉田の所有の印を見つけてしまい、理性が弾け飛んだ。
 部屋中のクッションやら枕やらを山に重ね、修二の腰に負担を掛けないようその上に俯せて尻を高く上げさせ、後孔と身体中を隈無く指と舌で焦らしながらも、雄蘂への決定的な刺激はわざと与えてやらなかった。
 修二は二度目の逢瀬の時から自分で後を清めて来たので、それ以来スキンは使っていない。どんなに綺麗に清めても、後を直接舌で愛撫されるのは抵抗があるようで修二はいつも嫌がる。それをわざとするのは、吉田が絶対にしない愛撫だと知っているからだ。挿入も、負担の少ない背面位の方が良いと分かっていながら対面位でするのは、全く同じ理由だった。
 修二は聡と肉体を結んでから、吉田とは挿入込みのセックスはしていないと言っていた。事実、編集者をしている吉田は忙しく、新たに立ち上げることになった雑誌の創刊号の編集に追われているとかで、目と鼻の先に職場があるにも拘わらず、ここ一ヵ月まともに部屋へ戻っていないようだった。
 お陰で平日の夜も逢う事が出来た。と言っても、田辺に口裏を合わせて貰った上で――吉田は電話魔で、一日に一度必ず連絡を取り合っていたから――の事だが。
 聡にとっては、亭主のいない間を狙う間男のような苦しい立場を強いられていた。可愛さ余っての心境が、聡の意地を悪くさせる。責め苦のような長い愛撫に、修二は堪らず身悶えて懇願した。
「お、願い…、もう挿れて…。もう我慢できない…」
 振り向いて涙を滲ませた切ない目つきで懇願されても、その首筋にあるまだ新しい紅い斑点が目について聡の気持ちは冷たくなっていく。それなのに、気持ちに反して身体の中心は熱く修二を求めていた。
「もう、入っているよ」
 そう言って、修二の中に入れたままの指をぐるっと回して腹側の良い場所を擦ってやると、修二は頭を振って身悶えた。
「ゆ、び、じゃなくて…聡を…挿れて…」
 修二は震えて力の入らない身体を動かしてクッションの山から降り、聡の手から逃れて向き直った。クッションの山に凭れて自由に動かせる足を折って大きく広げると、聡が舐めて濡らした窄まりを曝して見せた。背後から指で散々弄った胸の突起が、石榴の一粒のように紅く艶やかに立っている。頬を薄っすら上気させて深い奥二重の瞼を細めて横目で切なげに見詰めながら、
「ここに、聡が欲しい…」と自らの指で窄まりを撫でて見せられては、聡の意地も吹っ飛んだ。自分のものが怒張するのが分かる。それでも平静を装って修二の先走りで濡れた鈴口を指で撫でながら
「そんなに、僕が欲しい? ここをこんなに濡らして…、修二は淫乱だね」と囁くと
「聡のせいだ…。聡が俺を…こんなに、した、の、に…」と修二は目に涙を浮かべて手を伸ばした。
 聡はさっと修二の脇の下に手を入れてその身体を抱え上げ、自分の膝の上に跨らせると、修二は首に腕を回した。
「このまま自分で挿れてごらん」
 聡は修二の後孔に己の楔を宛った。修二は目を見張ったが、すぐに目を閉じると聡に支えられながら深呼吸してゆっくりと腰を下ろしていった。修二が挿れる事に集中するのを邪魔するように、聡は胸の石榴を舌先で転がしては口に含んで吸いついた。
「あっ、んっ、ん…ふっ、ああっ!――」
 修二は身悶えて上体が揺れる。途中まで支えてやっていた手を緩めると、片足にしか力の入らない身体は自力で支えきれずに一気に聡のものを呑み込むことになった。修二は痛みのためか涙を零して聡の首に縋りながら息を弾ませていたが、聡に涙を舐め取られ背中を撫でられると顔を上げてキスをせがんだ。修二は挿入すると必ずキスを欲しがる。噛みつくように口づけて舌を絡めて啜り上げると、修二は鼻から甘く吐息を洩らした。思う様口腔内を犯しながら、納めた雄蘂を小刻みに動かすと修二の身体から力が抜けた。
 聡はクッションの山を下へ落とすと、そのまま修二を押し倒して覆い被さり、足首を掴んで高く上げさせ、激しく腰を突き上げはじめた。長い間焦らされ続けた修二の躯は直ぐに達ってしまいそうだったが、聡はその根本を左手でぐっと握りしめた。
「やっ、あぁっ! 痛いっ、聡! 離して…達かせてぇ」
「駄目。一緒に達こう。もう少し我慢して」
 手で堰き止めているくせに修二の感じるポイントを楔で何度も突き上げるため、修二は苦痛に顔を歪めて脂汗を浮かべた。それでも、呻きながら文句も言わずに唇を噛みしめて怺える姿が、聡を一層煽り立てた。自分が暗に責めているのを知っていて、それに耐えている修二が可愛くも憎らしくもあった。
「修二、いいよ。達ってごらん」
 聡は堰き止めていた左手を不意に緩めて根本から先へ向かって一度だけ強く扱いたが、そのまますっと手を離してしまい、また激しく腰を使って修二のポイントのみを責め立てた。修二は一旦吐精したものの中途半端な刺激のために、たらたらと白濁を流し続けるだけで決定的な射精感を得られず、苦しそうに喘いで身悶えた。解放を求めて自分の手を性器に伸ばしたが、聡は無情にその手をシーツに縫いつけた。
「ほら、達ってごらん、修二。このまま、後だけで達ってごらん」
「あっ、あっ、聡…。駄目、出来ない…。許して…。もう、許し、て…」
 許してと、何度も髪を振り乱して涙を流す修二の苦悶の表情に、さすがに可哀相になって
「じゃあ、一緒に達こう」と耳元で囁くと、修二は目を開けて薄く笑い、こくっと小さく頷いた。その仕草が何とも言えず可愛く見えて聡も微笑み返すと、自分の快感を追うために小刻みに腰を使いながら修二の陰茎を握って激しく扱き上げた。修二はすぐに悲鳴と共に下腹を痙攣させて勢い良く射精した。反動でぎゅっと後孔が収縮し、聡も大きく呻いて修二の中に熱い激情を迸らせた。
 修二は聡を躯に入れたまま、しどけなく目を閉じて喘いでいたが、暫くするとそのまま寝入ってしまった。聡はその弛緩した身体から出ると、ため息をついて涙の跡が残る頬を優しく撫でた。決して泣かせたかった訳じゃない。他の事では幾らでも寛容になれるのに、修二の事になるとまるで自制心が利かなかった。
 聡はローブを羽織るとキッチンで蒸しタオルを用意し、寝室に戻って修二の身体を隅々まで清めた。迷った末起こさないようにシーツも取り替えたが、修二は余ほど疲れてしまったのか、その間一度も目を覚ます事はなかった。聡は浴室で簡単にシャワーを浴びて戻ると、裸のまま修二の横に滑り込んでその身体を抱き込んだ。懇々と眠る修二の顔をよく見ると、目の下に薄っすら隈が出来ている。聡は、「許して」と言った言葉を思い出し、好い加減大人気なかったと深く反省した。
 初めて修二の躯を貫いた日、やっと手に入れたその身体と離れがたく、一緒に自分のマンションへ来るよう懇願したが、いきなり吉田を切る事は出来ないと拒否された。
「一緒に行きたいよ、聡といたい…。でも、本当に吉田には恩があるから、いきなり消える事は出来ないよ…。もう、裏切ってしまったのだから今更だけど、せめてちゃんと気持ちを打ち明けて、納得して貰って別れたいんだ。だから、少し待って欲しい。時間が欲しい…」
 そう哀願する修二に否とは言えなかった。迎えに来た田辺にも
「あんたは知らないだろうが、吉田は本当に献身的に修二を支えていたんだよ。友人として失いたくないんだろう。出来るなら、修二のしたいようにさせてやってくれないか」と言われた。
 聡は、人に『寝取れ』と嗾けておいて、今度は度量の広さを見せろという田辺に理不尽さを感じて腹が立ったが、修二の手前、男の余裕を見せて笑って帰したのだった。
 だが、待っても待っても、修二が動く気配は無かった。吉田の仕事が忙しくなってしまってタイミングが計れないのも事実だったが、修二の中に迷いがあるように思えて仕方が無かった。勿論、気持ちは確かめ合ったのだし、修二の心が自分にある事には自信を持っている。優しいが故に修二が優柔不断なのも分かっていたし、七年の時間の長さに比べたら、一ヵ月や二ヵ月待つくらいどうと言う事はないと言ってやりたかったが、情けなくも既に我慢の限界を感じていた。そこへ吉田の所有の印など見てしまったのだから堪らない。喩え吉田と躯を繋いでいないにしても、本当なら自分以外、誰にも触らせたくない修二を抱いて眠っている吉田に対する激しい嫉妬を必死で押さえているのだから。
 聡は修二の身体を横に向けさせ、襟足を掻き分けて吉田のつけたキスマークを露わにした。首筋に一つ、背中に二つある痕を指でつなげるようになぞると、唇を寄せてその上から強く吸い付いた。紅い斑点が更に濃く色づく。吉田にバレのを承知の上で、聡は三つとも所有の印を上書きした。
 刺激を感じたのか修二が身動ぎして目を覚ました。仰向けになり聡の方へ顔を向けると、薄く目を開いて 「俺、寝てた?」と訊いた。
「少しね。ごめん。僕が無理させた…」
 そう言って修二の身体を強く抱きしめると、修二は首を振って聡の胸に頬を擦りつけ、楽しそうに囁いた。
「少し疲れただけ。夢を見ていた。犬を飼う夢…」
「犬?」
「そう。子どもの頃、祖母に柴犬を飼っていた話を聞いて、自分も飼いたかったんだ。でも、商家だったし、食品を扱っていたから許して貰えなかった…」
「今なら飼えるよ。柴犬、飼ってみる?」
「この足じゃ、散歩に行けないよ…。いいんだ…」
 そう言うと、目を細めて聡の頬を両手で包み、「ここに、いるから」と言って笑った。聡は意味が分からず、目を大きく見開いて首を傾げた。
「ほら、そうして目を丸くすると、柴犬にそっくりだ」
「えっ? 僕が柴犬? せめてラブラドールか、ハスキー犬とか言って欲しいなぁ…」
 聡は情けなく眉尻を下げて修二を見詰めた。修二は微笑むと遠い目をして独り言のように呟いた。
「ハスキー犬は、賢造のイメージだな…」
「確かにそんな感じだけど、何かムカつくな。恋人の前で他の男を誉めるなんて」
 聡は修二の鼻を摘んで憎らしそうに囁いた。修二は吃驚して摘まれた鼻を押さえたが、苦笑しながら 「俺は柴犬が、世界で一番好きなんだけど。だから、機嫌直して…」と言って聡の鼻にキスを返した。 「ホントに?」と聡が訊くと、「本当に」と修二が答え、微笑み合うとキスを交わした。
「出会った頃の夏休み、賢造が図書館に尋ねて来たのを覚えているか?」
 修二の唐突な問い掛けに、聡はすぐに頷いて返した。忘れる筈もない。あの日初めて、田辺の事を意識したのだ。
「あの日、俺を訪ねて来たのは、祖母が金沢で亡くなった事を知らせるためだった。きっと母が俺に伝えないと思ったんだろう。事実、両親は俺に内緒で、父だけ金沢に行くつもりだった。聡と別れて家に帰った後、どうしても行きたいと言い張って翌日葬儀に出たけれど、何故か母も付いて来たんだ。お陰で泣く事も、形見分けの品を貰う事も出来なかった。家に帰っても同じだった。聡の顔を見た時、ほっとしたら涙が止まらなくなった。思えばあの時から、俺は聡の側が一番落ち着けたな…」
 修二は少しずつ自分の事を話してくれるようになった。聡は当時を振り返り、田辺との仲を疑った自分の取り越し苦労を笑った。ふと田辺の語った修二と母親の確執を思い出し、さり気なく問い掛けた。
「修二は、お母さんの事が好きじゃなかったの?」
「否、好きだったよ。今も嫌いな訳じゃない。でも、色々有り過ぎた…。父や兄は俺を金で祖母に売ったという罪悪感を抱えていたから、腫れ物に触るような感じだった。でも、母はもっと別の感情を持っていたな。祖母に対する対抗意識と、女の格好をした俺を嫌う事で、反対に俺に対する愛情を示そうとしていた。俺自身が女の格好をするのを嫌がっている事を知っていたからだ。
 俺はもともと大人しい質(たち)だったし、茶を点てるのも、花を生けるのも嫌いじゃなかった。でもそう思う事自体が怖かった。だから女性的で在る事全てが嫌だった。顔も、身体も、嗜好も。今から思えば、別に茶道や華道を嗜む男性がみんな女っぽいかと言えば、そんな事は有り得ないから、俺の単なる思い込みだったんだけど…。
 自分がどうしていいか分からなくなると、こっちが何も言わないのに不思議と賢造がやって来て、キャッチボールやサッカーの相手をしてくれた。そうして疲れると、甘いものが食いたくなったから茶を点てろと言うんだ。時には、お前に合う花が在ったと花束を持って来て、生けて見せろと言われた事もあった。鬱積した思いを抱えた俺に、詩や小説に書いてみたらどうかと勧めてくれたのも賢造だった。
 賢造の前ではバランス良く、どちらの俺でもいる事が出来た。自分が自然な姿でいられたのは、唯一賢造の前だけだった。賢造は俺にとって精神安定剤みたいな存在なんだ…」
 修二の話を聞きながら『俺たちの関係を説明するのは難しい』と田辺が言っていたのを思い出す。どんなに時間を巻き戻しても二人の間に入る事は出来ないのだから、嫉妬するだけ無駄だと分かっていても、聡の胸にどう仕様もない悔しさが込み上げた。
「僕といる時はどうだったの? やっぱり無理をしていた?」
 修二は暫し考えてから、聡の目を見てきっぱりと答えた。
「無理はしていたかも知れない…。でも、そんな事を考える以前に、一緒にいるのが楽しかった。聡といる間は、賢造に側に居て貰う必要性を感じなかったよ。初めは、聡の嗜好と母親との関係を訊いて人事だと思えなかったから、自分の事を棚に上げて何も出来ないくせに、少しでも助けになれればと受験勉強を手伝った。そのうち一緒にいるのが当たり前になって…。可愛かったな。子犬みたいに必死に懐いてくれる聡が、可愛くて、愛おしくて、好きになった…」
「今は?」
「今も、愛してる…。七年経って、こんなに立派になって戻って来てくれた…」
 じっと見詰めて自分の気持ちを伝えてくれる修二が、聡は愛おしくて堪らなかった。互いに見詰め合い微笑み合うと、聡は修二の頬を両手に包んで顔を近づけた。鼻と鼻を擦り合わせて、唇に何度も触れるだけのキスを落とす。修二はくすくすと笑い出し、「擽ったい」と言って身を捩った。笑う度に動く喉に噛みついて甘噛みすると、
「こら、躾がなってない」と声を上げて笑った。
「じゃあ、修二が躾直して。でも、こっちは僕が躾てあげる…」
 聡はそう耳へ囁くと修二の尻を揉んであわいに指を差し込み後孔を探った。たっぷりと湿ったままの窄まりの中は熱く柔らかかった。
「あっ」と声を上げて仰け反る身体を捕まえて、転がるように修二を下に組み敷いて上に乗ると、するっと修二の中に雄蘂を納めてしまった。修二は眉を寄せて「聡、もう出来な…い…」と喘ぎながら呟いた。
「無理はしないから。修二の中にいたいんだ。もう少し、このままで居させて…」
 そう囁いて修二の上唇を柔らかく吸って離すと、修二の唇はゆっくり離れて紅く色づいた。聡の話す振動すら刺激になったのか、修二は小さく喘ぎながらも目を細めて微笑み、そのまま瞳を閉じた。
「もっと…奥まで来て…」
 そう言って、修二は聡の首に縋りつくと右足を聡の腰に回し、自ら腰を使って官能を追いはじめた。修二の姿態を見ながら、聡は近日中に自分から吉田に決着を付けようと思った。
 出来れば修二の思いを尊重したかったし、自身で決着を付けて貰うのが一番だと思うが、未だ吉田に言い出せない事に贖罪を感じるからこそ、どんな抱かれ方をしても拒まないし、「許して」などと口走るのだろう。悩みがそのまま身体に表れる修二には、この事が相当負担になっているのは明白で、目の下の隈がいい証拠だった。
 早々に解決しなかければならない。何より聡自身がもう限界なのだ。一刻も早く、修二の昼も夜も、全て自分のものにしたかった。
 週末の二日間、聡は思う存分修二の躯を堪能し、ゆっくりと恋人の時間を楽しんだ。日曜日の夕方、電車で帰ると言う修二を言い包め、車でマンションの前まで送り届けた。車の中で別れを惜しんでキスを交わし、また来週逢う約束をして別れた。
 明けて月曜日の夜、残業しながらいつ吉田に連絡を取るか思い悩んでいた聡に、田辺から携帯に電話が掛かってきた。訝しく思いながら携帯に出ると、せっぱ詰まった田辺の声が耳に飛び込んできた。
「今から神田まで出て来られるか!」
「えっ? 何故? 一体どうしたんだ?」
「修二と電話で話していて、いきなり切られた。別れ話の相談をされていたんだ。多分、吉田に聞かれたんだと思う。俺の取り越し苦労ならいいが、胸騒ぎがする。どれくらいで来られる?」
 聡は時計と行内を見回した。まだ何人か残っているが、押しつけて帰る訳にはいかないだろう。明日の事を考えるとすぐに放り出して行くとは言えなかった。
「多分、一時間は掛かる」
「分かった。俺は先に行っている。場所は分かるな。303号室だ。古いマンションだから直ぐに入れるし、鍵は開けておく。兎に角、出来るだけ早く来てくれ!」
 そう言うが早いか切られてしまった。修二は呆然として携帯を眺めたが、頭を振ると慌てて書類を整理しはじめた。
 一体何が起こったのか? 胸騒ぎとはどういう事か? 修二は自分で別れ話をすると言っていたのだから、それを聞かれたからと言って、そんなに心配する必要があるのか分からなかったが、いつもは憎たらしいほど冷静な田辺の尋常ではない取り乱し方に、聡にも胸騒ぎが伝染したようで、次第に高くなる鼓動を落ち着かせながら一刻も早く残業を終わらせる事に専念した。
 いきなりばたばたとやっつけで仕事を終了させた聡を、他の行員たちは呆気にとらて見ていたが、そんな視線を一切無視して、挨拶もそこそこに聡は銀行を飛び出して行った。

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