INDEX NOVEL

一握の砂 〈15〉

 川上は外で逢う時はいつも都内のOホテルを使用した。ラブホテルではない、一流のホテルだ。
 地銀の支店長とは言え、一介のサラリーマンがこうしたホテルの顧客なのは驚くが、もともと川上は資産家の息子で、このホテルも家族が常用していたものだった。川上の父親は既に亡くなっており、資産一切を受け継いだ彼に、今や怖いものは何も無い。
 初めてこのホテルに連れてこられた時、聡は狼狽え怯えた。一般の、しかも一流のホテルに、男同士でダブルの部屋に宿泊するなど正気の沙汰とは思えなかった。吃驚して青ざめている聡に、川上は心底可笑しそうに喉の奥でくつくつ笑いながら、
「こうした一流ホテルの条件は何だと思う? 顧客の秘密を厳守する事さ。犯罪でもない限り、大抵の事は目を瞑っていてくれる。まあ、安心し給え。君の名前は性別がつきにくい偽名になっているから」
 そう言って、堂々としていろと囁いたが、聡は一向に慣れる事は出来なかった。
 休日の夜のホテルは、割合に人が多かった。ホテルのレストランで会食だけする客もいるし、会合を終えたばかりといった華やかに着飾った人々でラウンジは一杯だった。フロントを通さず宿泊客用のエレベーターへ直行するには、多くの客に紛れ人目を気にせずに済むので助かった。川上はいつも同じ部屋へ宿泊する。あの後、連絡が無かったから変更は無いはずだ。
 707号室の扉の前、聡はルームナンバーを睨んで生唾を飲み込んだ。聡は決別する決意の表れとして、三つ揃いのスーツ姿でここまで来た。戦闘服ではないが、スーツを着ると何故か気が引き締まるし、簡単に脱ぐものかという思いもあった。
 聡は深呼吸をして扉をノックした。暫くして音もなく扉が開かれた。
 部屋へ招き入れた川上は、聡のスーツ姿を見て片眉を上げると「休日出勤か?」と訊いた。だが、そう言う川上も、平素とは違う明るい色の、こちらも三つ揃いのスーツ姿だった。
「貴方も、仕事ですか?」
「否、僕はプライベートだよ。さっきまで婚約者と会食していた。式と披露宴の細かい打ち合わせがあってね。面倒だが、これも仕方がないな」
 このホテルで式を挙げる? 聡は驚愕に目を見開いた。
 川上にとって自分がどういった位置にいるのか知らないが、曲がりなりにも情人だった自分と逢瀬を重ねた場所で結婚式を挙げる、その神経が理解できなかった。しかも、さっきまで、これから人生を共にしようという人と会っていたのだ。聡は眩暈がしそうだった。
「婚約者と会った後に、僕と何の話をする必要があるんです? もう、止めましょう。貴方は結婚するんだ。婚約者の方に何とも思わないんですか? 僕が今日ここへ来たのは、貴方との関係を解消するためだ。もう貴方とは会いません」
 川上は聡を横目で眺めると、ため息をついて大げさに肩を竦めて見せた。
「まあ、そう先を急がず、兎に角、座り給えよ」
「結構です。長居をするつもりありません」
 聡は扉を背にして立ち、部屋の入り口から動こうとしなかった。その警戒心を露わにした姿に、川上は苦笑いしながら聡に向き合う位置にある独り掛けに腰を下ろして足を組んだ。
「好きにし給え。だが、この間から言っているがね、僕は君と別れる気は無いよ。婚約者に何とも思わないのかと君は言うが、なかなかどうして、僕の妻になる女性は強かなんだよ。逆に言えば相応しいのかな。見た目は大人しい箱入り娘だが、彼女にも男がいてね。僕と結婚する条件は、その男に会う自由を与える事だとさ。笑えるだろう?」
「何ですか…それは…」
 聡は頭を殴られたようなショックを覚えた。この男はさっきから何を言っているのか…。川上が繰り出す言葉は全て、聡の理解の範疇を越えていた。
 川上は肩眉をつり上げて、いつものように如何にも面白そうに笑って見せた。端正だが、こういう顔をすると酷く厭らしく見える。川上は何でも無い事のように続きを語って聞かせた。
「僕とベッドを共にした後、言い出した。さすがに吃驚したよ。彼女とその男は将来を誓い合った仲だそうだが、家柄が伴わないと家族に猛反対されているのさ。僕と結婚しなければ、その男の――小さな会社を経営しているそうだよ、圧力を掛けると脅されたそうだ。自分の父親にだよ、気の毒だねぇ。だから、逆に僕を懐柔した訳だ。貴方の野望に協力するとさ。家柄と、お飾りの妻が欲しいのなら自分が協力しようとね。貴方が誰を愛そうと何をしようと干渉しない。その代わり自分に自由をくれと。僕はその条件を呑んでやった。但し、僕の子どもを生む事、そして情人の子どもを生むのは絶対に許さない、それが出来るなら…とね」
「そんな馬鹿な条件…、相手は了承したんですか?!」
「彼女は頷いたよ。まあ、子どもは体外授精でならと言う事になったがね。僕としてもその方が都合が良い。無理に彼女を抱く必要が無いからね。だから、君が気兼ねする必要は無いと言ったのさ」
「信じられない…、貴方たちは変だ! 間違ってる! どうしてそこまでして結婚するんです?」
「それも説明した。男に必要なのは仕事に対する野心だと。僕の目的に必要だから結婚をするまで。子どもが必要だから作る。彼女ほど僕の条件に合う人はそういないが、それが自ら了承したんだ。何の問題がある? 彼女は僕がバイでも何でも構わんそうだ。男の情人がいても驚かないよ。僕らはこれまで通りの関係を続けて行けばいいさ」
 聡の頭は真っ白になった。人は信頼し合える相手と愛し合うべきだと主張するつもりだった。川上の考える恋愛観は間違っているし、男同士でも男女でもそれは関係ないのだと、身体だけの繋がりなど虚しいだけだと言おうと思っていた。でも、川上の中には端からそんな考えは無いのだ。自分の野心を満たすためなら、どんな不道徳な事も、虚しさも厭わないと言っているのだ。説得するも何も、理解すべき記号を持たない人間を諭す事など不可能に近い。どうしたらいい? どうしたら自分はこの男から逃れられる?
 呆然としたまま動かない聡を、川上は皮肉気な笑みを浮かべて一瞥すると、立ち上がってゆっくりと近づいて来た。
「まさか、君はまだ精神の繋がりとかに拘っているのかい? 男と女の間だってこんなものだよ。男同士なんて、更に先が無いんだから、そんな事を求めるだけ無駄だろう? そうだねぇ、君の納得が行くように別の言い方をすれば、僕は君が好きだよ。それは認めよう。君の姿形も聡い所も、僕には好ましく相応しいと思っている。特に君の淫奔な躯は大好きだよ。君の躯は欲望に正直だからね。君は前も後も欲しがる淫乱な子だ。僕ほど君を喜ばせてあげられる相手はそうはいないと自負しているが、違うかい?」
 そう言って川上が襟元に伸ばした手を、聡は咄嗟に払い除けた。その時、聡の頭に、怒りと共に一つの考えが浮かんだ。この男から逃れる方法が――。
「気安く触らないでくださいよ。あんた、随分自惚れたものですね。“ 俺 ” を喜ばせていただって? 冗談じゃない!」
 聡はどくどく騒ぐ胸の鼓動を悟られないよう呼吸を整えると、意地の悪い笑みを浮かべて川上を見上げた。十センチ近い川上との体格差はそれだけで怯んでしまいそうだったが、自分を鼓舞しながら聡は言葉を続けた。
「あんた、俺の学生時代からの乱交ぶりを知っていて、それを言うのか? 数なんか覚えられないくらいの男と寝て来た俺だよ? 喜ばせていた? あの程度で俺が満足していたと思うのか? あんたのテクなんざ、並だよ、並! 今までは、あんたに合わせてやってたんだよ! 何せあんたは俺の上司だ。支店を移動してもそれは変わらないからな。弱味を握られて仕方なくつき合っていただけだ。だが、馬鹿みたいにべらべら喋ってくれてたお陰で、あんたの弱味を握れたよ。この事をあんたの婚約者の親父さん――頭取にバラしたらどうなるだろうな?」
 川上は急に態度が豹変した聡に呆然としていたが、耳を疑う暴言に、聞き捨てらないと血相変えて言い返した。
「何だって? 僕を脅すのか? そう言うが、君だって世間にゲイだと知られたくはないだろう? 君は出世頭だ。その若さで支店長代理だろう? 今までの努力が無駄になるんだぞ!」
「ねえ、川上さん。あんたと違って俺は真性のゲイなんだよ。どう足掻いても女は抱けないし、偽装結婚なんて死んだって出来ない。だから、未だに男は所帯を持ってなんぼ、なんて下らない評価がついて回る職場での出世なんぞ、あんたほど拘っちゃいないんだよ。だが、確かにゲイだとバラされるのは困るな。そうだ…、あんたが俺との関係を続けて行きたいって言うなら、俺に、あんたを抱かせろよ」
「なっ! 何を馬鹿な! 君はネコだろう? 男に抱かれないと満足出来ないんだろうが!」
「はっ! 誰が『男に抱かれないと満足出来ない』だと? ふざけんなっ!! 俺はリバだよ。知らなかったのか? そうさ、俺だって男だ。突っ込んで満足したい時だってあるんだよ。あんた言ったよな、『本能に従って劣情を分け合おう』って。今、俺とあんたの立場は対等だぜ? お互いに弱味があるんだからな。さあ…、尻を出せよ。俺があんたを抱いてやる!」
 聡は怒鳴りながら川上のネクタイを掴んで引き寄せた。怒りにギラギラした瞳を向ける聡の勢いに呑まれた川上は、仰け反るように一歩後へ退いた。その瞬間、聡は掴んでいたネクタイを離し、川上の胸を手で軽く押した。川上はそのまま後へよろけると、空を虚しくかき抱くように両腕をバタバダさせて無様に尻餅をついた。転んだ勢いで眼鏡を鼻の上までずり落としたまま、川上は青ざめて呆然と聡を見上げる事しか出来なかった。
 聡は喉の奥で低く笑うと、そんな川上の姿を見下しながら冷たく言い放った。
「出来る訳ないよな…。あんたは根っからのタチだものな。あんたは出世がしたいんだろう? どんな未来予想図だか知らないが、もう俺を巻き込むな。金輪際、俺に近づくのは止めてくれ。そうすればバラしやしないよ。言っておくが本気だぞ! あんたが寄こしたメールやら、留守電やら、みんな残してある。近づいたら最後、あんたを地獄に突き落としてやるから覚悟しろ!」
 そう言うと、もう一度川上を睨みつけた。川上は無言のまま、首振り人形のようにかくかくと頷いた。なまじ聡の実直な性格を知っている分、やると言ったら本気で洗い浚いぶちまけるだろう勢いに、川上は為す術が無いといった風情だった。
 聡はその姿を見届けると、落ち着いた足どりで部屋から出た。が、扉が閉まるや否や走り出した。雲を踏む心地だったが、急いでエレベーターに乗り込むと漸く息をついた。座り込みたいのを無理矢理我慢してロビーへ降り、そのまま早足で正面玄関の回転扉を抜けた。ドアマンに手を上げると、車寄せに止まっていたタクシーの扉を開けてくれる間ももどかしく、飛び乗ると直ぐに行き先を告げた。緩やかにタクシーが発車した途端、聡は緊張の糸が切れてシートにぐったりと沈み込んだ。
 怖かった…。はっきり言って、自分が喋った事の半分しか覚えていない。心臓が耳元にあるかと思うほど鼓動が煩く鳴って、両手が小刻みに震えている。だが不意に、かくかくと頷いた川上の間抜けな顔が思い出されて爆笑した。久し振りに胸がすく思いだった。
 突然腹を抱えて笑い出した聡に、運転手は狼狽して「お客さん…、何か楽しい事でもあったんですか?」と恐る恐る声を掛けた。
「あははは…、はぁ〜…。ああ、あったよ。凄く楽しい事が。ねぇ、携帯を使っても構わないかな?」
 運転手のどうぞという返事の後、聡はネクタイを緩めると背広のポケットから携帯を取り出した。登録した田辺の番号を呼び出すと、その十一桁の番号を感慨深く眺めた。
 今度こそ、修二を手に入れる。この手に取り戻す――そう胸の中で呟くと通話ボタンを押した。

 川上と決別した次の週の土曜日、聡はまた別のホテルのラウンジの隅のソファに、身を隠すように座っていた。近日に都内の有名ホテルを巡る事になるとは思ってもいなかったが、場所を指定したのは田辺だった。
 あの日、田辺に連絡し、聡が自分の決意を伝えると、「分かった」と短く答えた後、折り返し連絡するとだけ言って切られてしまった。明くる日、田辺から掛かってきた電話口で、土曜の昼、赤坂のPホテルのラウンジに修二を呼び出した旨を告げられた。何故ホテルなのかと訝る聡に、田辺は一言、「あいつを寝取れ」と言い放った。
 驚いて言葉の出ない聡に、田辺は、「そこまで話をもって行くのはあんた次第だろうし、無理強いはしないで欲しいが――」と前置きして、言葉で説明しても伝わらない事があると言った。
「修二は今でも、あんたは “ 抱かれる ” 方だと思っているんだよ。あいつは強情だし、あんたらはお互い思い込みが激しいから、行動で示すしか無いんじゃないかと思ってな。俺はセックスなんか二の次だと言ったが、躯でしか伝わらない事ってのも確かにあるよ」と。
 田辺は更に、自分の名前で部屋を予約してあるが、吉田には夜の九時までに修二を送り届けると言ってあるから、「八時までに片を付けろ」と時間の指定までする始末で、その強引さには閉口するしかなかった。
 果たして、修二は再び自分の気持ちを受け入れてくれるだろうか。縦しんば、修二が自分を許してくれたとしても、いきなり躯まで許してくれるとは思えなかった。“ 寝取れ ” と言われても、幾ら何でも無理矢理犯れる訳がない。
 そんな事をつらつら考えていると、ロビーに修二が現れた。慌てて新聞を広げ、顔を隠して様子を窺う。修二は白いシャツに薄いベージュのカジュアルなスーツを着ていた。田辺に聞いた通り、髪を綺麗な栗色に染めて、まるで昔に戻ったようだった。眼鏡を掛けていたのには驚いたが、細い銀のフレームがノーブルな修二の雰囲気によく似合っていて、聡は思わずため息をついた。
 修二はラウンジを見回して約束の相手が来ていない事を確認すると、近くのテーブル席に落ち着いて持参した雑誌を読み始めた。聡は意を決して立ち上がると、修二の後からゆっくりと近づいて行った。すぐ後に立つと、気配を感じたのか、修二は振り返りながら「賢造、こんな所に呼び出して、会わせたい人って、いったい誰――」と、台詞を全部言い終わらぬうちに、そのまま息を呑み込んだ。
 聡はその顔から目を逸らさずに、するりと修二の左隣のソファに腰を下ろした。そして出来るだけ優しく、「修二」と愛しい人の名を呼んだ。修二は驚愕に目を見開いてずっと聡を見詰めていたが、名前を呼ばれると我に返って掠れた声で呟いた。
「どうして、ここに…」
「僕が田辺に頼んだんだ。修二と話したいから会わせて欲しいと」
「賢造に、頼んだ…?」
 そう言った途端、修二は顔色を変えた。左側の肘掛けに立てかけた杖を掴むと、慌てて立ち上がろうとしたが、一瞬早く、聡がその左腕を掴んで引き寄せた。修二は杖を落としてよろけるようにソファに頽れると、聡をきっと睨みつけた。
「俺は、話なんか無い!」
「修二に無くても、僕にはある。お願いだから、落ち着いて話を聞いて欲しい!」
「今更、何の話がある? 手を離してくれ!」
 修二はそう叫ぶと、聡の腕を払い除けた。その時、ジャケットの袖から懐かしいオメガの腕時計が覗いて、聡は思わず声を立てた。
「その時計…」
 修二はその言葉に反応するように慌てて右手で左手首を握り、腕時計を隠してしまった。聡は息を呑み、修二は荒い息を吐きながら顔を背け、近くにいた客は二人の激しい遣り取りを呆気にとられて見詰めていた。
 聡は暫くの間、顔を背けて肩を震わせている修二を眺めた。
 時計など、気に入って着けていると言えばそれまでだ。だが、大学入学の祝いに『ラベル』のマスターから贈られたお揃いの時計は、聡が修二に対する胸の内を告白した時に贈られた、言わば二人にとっては記念の品で――それを身に着けている事を、何故、修二は隠そうとするのか…。
 聡は修二の落とした杖を拾って立ち上がった。ふと周囲の客の視線を感じ、そちらへ目を向けると、皆一斉に目を側めて知らぬ振りをした。再び修二に視線を戻し、穏やかだが決然とした調子で告げた。
「修二、上に部屋を取ってある。ゆっくり、二人だけで話がしたい。一緒に来て欲しい」
 修二はゆっくりと聡を見上げ、その手に杖が握られているのを見ると、信じられないと言った顔をして聡を凝視した。
 聡はその射るような視線を受け止めながら、負けまいと同じだけ強い視線を投げ返した。自分でも酷い事をしていると思う。杖を取り上げられたら、修二は這ってでしか動けない。逃げられないも同然だ。でも、もう遠慮なんかしない。修二を取り戻すためだから――。
 聡が促すように名前を呼ぶと、修二は目を閉じてため息をついたが、ゆっくり瞼を開いた。
「分かった…。行くから、杖を返して…」
 修二は聡から視線を外したまま、諦めたように左手を差し出した。

NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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