INDEX NOVEL

一握の砂 〈14〉

「気持ちを偽っているって…どういう事だ。好きでも無いのに吉田を受け入れているって言うのか!」
 賢造が冷静であればあるほど、逆に聡は激高した。テーブルに乗り出さんばかりの聡に、賢造は「落ち着けよ」とひとこと言うと席を立って部屋を出て行った。残された聡は、千々に乱れる思いを押さえるように両手で顔を覆った。
 賢造は台所から新しく冷えたビールを持って来ると「あんたも、飲んだ方がいいぞ」と言って聡に手渡した。早く続きが訊きたいと気持ちが逸るが、確かに喉も渇いている。プルトップを勢いよく開けて一口呷ると、刺すような苦みが頭を覚ましてくれるようだった。
 賢造は煙草に火をつけると深く紫煙を吐き出した。
「さっきから言ってるが、修二はずっとあんたを想っていたよ。それを俺たちが知ったのも、修二があんたと再会した後だ。あんたとの事は学生時代の話だし、京都の女との一件は訊いているだろう? それもあったから、修二の中で、もう疾っくに片が付いていると思っていた。あんたと再会した時、あいつの髪の毛、白かっただろう?」
「ああ、白かったな…」
「今は染めてる。それまでは厭世観丸出しで、幾ら言っても聞かなかったのにな。おまけに、足を気にして仕事以外では滅多に外に出なかったのに、散歩へ出たり、買い物をしたり、随分と前向きになった。俺も吉田もおかしいと思ったのさ。問い詰めれば、あんたに会ったと言う。あんたの立派な姿を見て、自分も一からやり直そうと思ったと…。修二の気持ちを簡単に動かせるのは、今でもあんただけなんだよ」
「じゃあ、何で吉田と…。どうして吉田の気持ちを受け入れたんだ!」
「あいつは、立派になって見違えたあんたに気後れしたのさ。あんたに比べて自分の惨めな姿が恥ずかしかったと言っていた。天と地ほども違ってしまった自分と、あんたとの距離を思い知ったんだ。そうして、落ちる所まで落ちた自分を再認識したんだな。自分の本質の事も、動かない足の事も、まともに仕事が出来ない事も、口にこそ出さなかったが、やっぱり卑下していたんだよ。それを素直に受け入れて、新しく生き直そうと思ったんだそうだ。自分のずっと大切にしていた“望月聡”は、自分が作り上げた “ 長瀬修二 ” と一緒に消えてしまったから、もう幻影を追うのは止める事にしたと言っていた。だから吉田の求愛を受け入れたんだ。あんたを諦めて忘れる事にしたんだから、断る理由が無かったのさ。吉田にはリハビリの事や養って貰っている恩義があるし、もともと嫌いではないからな。大叔母の時も、京都の女の時もそうだったが、修二は一旦受け入れた人間に縋られたら最後、自分からはその手を離せないんだ」
「そんな…馬鹿な! 諦めるなんて、どうして…。何故、自分で勝手に決めてしまうんだ」
「そこが、あんたも、修二も、駄目な所だな。相手にぶつからずに自分の中で独り決めして結論を出してしまう」
「僕は…、どうしたらいい? 修二の心に僕を想う気持ちが残っていたとしても、彼の中で完結してしまっているなら、僕を受け入れるとは思えない」
 修二の性格からして、今現在選んだ相手が吉田なら、自分の本当の気持ちが何処にあったとしても、意地でも吉田に操を立てるだろう。修二はそういう人なのだ。聡には修二の心を動かす方法など何も思いつかなかった。田辺は煙草を揉み消すと、困ったような顔をしながら口を開いた。
「なあ、変なことを訊くようだが…。あんたは、今も “ 抱かれる ” 方なのか?」
「ええっ?」
 突拍子もない質問に、聡は驚き赤面した。
「なっ、何を言い出すんだよ!」
「悪い。でも、重要な事なんだよ。修二の足の事は吉田から訊いているか?」
「多少は。でも刺された時の話を訊いただけで、怪我の程度など詳しいことはあまり…」
「そうか。左足の太股を出刃で横向きに刺されて貫通したんだ。感覚はあるが膝に力が入らない。幸いリハビリで足首を動かせるようになったから杖を使えば歩ける。ただ、右足に掛かる負担が大きいし、身体が歪むんだ。腰が痛むらしくて、月に一度整体医院に通っている。将来的には腰痛になるかも分からん。つまり…、セックスする時、修二は “ 抱くこと ” が出来ないんだよ。俺は、そっちの事はよく分からんが、あんたが “ 抱かれる ” 方なら、いくら好き合っていてもセックスは成立しないだろ。まして最初に別れた理由の一つがそれなんだから…」
「ああ、それなら別に問題は無い。今の僕はどっちも出来るから…」
「そうか。なら、問題は一つ解決したな。吉田の事だが…、あいつは基本的にゲイでは無いように思う。否、出来るんだからバイなのか…。あれこそ驚いたよ。女と普通につき合っていたから、俺は修二の事を恋愛対象として見ていたとは思ってもいなかった。今だって相手が修二でなければ、男とどうこうするようには思えん。吉田は、あんたに対する修二の気持ちを訊いて慌てたんだろうな。だが逆にチャンスだと思ったんだろう。修二が自分の気持ちを受け入れてくれたと俺に言った時の、あいつのしてやったりという顔が忘れられないよ。まあ、それでも俺は、修二が決めた事なら仕方が無いと思っていたんだがな…」
 賢造は口籠もると、眉間に皺を寄せ躊躇いながら話を続けた。
「その…、夜の方がだな…。誤解しないでくれよ、別に訊いた訳じゃない。だが、どうも吉田のやつ、修二を女を抱くように扱っているみたいなんだな…。一度、酷い時があって、修二は熱を出して起きられなくなったんだ。どういう抱かれ方をしたのか知らないが、かなり痛みがあるらしい。それじゃ “ セックス ” じゃないだろう。だから拒否するように言ったんだ。そうしたら、別に構わないと言うんだ…。さっき話した通り、『初めて受け入れた時、自分自身で納得がいった。聡との経験を受けて、自分の本質を躯で理解した』から、痛かろうが、感じなかろうが、あんたに応えられなかった分、出来る限り受け入れたいと…。
そんなの間違ってるだろう? あんたに言うのも何だが、俺はセックスなんて、さほど重要だと思っていない。勿論、無いよりあった方が良いが、心底愛し信頼し合える相手と、支え合いながら一緒に生きて行く課程で、気持ちが重なって高まった先にセックスがあるんだろう? セックスなんて、そうして好きな相手とするからこそ、躯だって初めて感じるんだ。違うか? そりゃ、吉田を嫌いじゃないだろうさ。でも、あいつが今やっている事は本末転倒だ。これじゃあ、いつまで経っても幸せになれないだろう…」
 聡は答えられなかった。田辺の言う事は一々ご尤もで耳が痛いが、男女のカップルと男同士の場合は条件が違う。男同士の場合はどうしたって躯が先にきてしまう。確かに、今、自分が一番求めているのは、田辺の言う精神の繋がりなのだが、手に入らないと最初から諦めて、愛のないセックスを散々してきた自分には、修二を責める資格は無いと思った。
「『一握の砂』だと言ったんだ。あいつは…」
「えっ? 何だって」
 賢造がぽつりと呟いた聞き覚えのない言葉を、聡は怪訝そうに訊き返した。
「『一握の砂』、石川啄木の詩集だよ。

 頬につたふ
    なみだのごはず
       一握の砂を示しし人を忘れず

    いのちなき砂のかなしさよ
       さらさらと
          握れば指のあひだより落つ

 修二の好きな詩だ。あいつはこの詩に準えて言ったんだ。きらきらと輝く美しい砂――修二にとっての幸せだな、あんたとか、京都の女とかを――握ったと思った途端、指の間からさらさら零れて落ちてしまうんだと。そういう星の下に自分はいるんだと笑っていた。
 京都の女の事もきちんと愛していたんだよ。向こうの女が修二に入れ上げて始まった関係だったが、修二だって嫌いな人間は受け入れないからな、そのうちに愛し始めていたらしい。身体の関係もあったらしいから、もし子どもでも授かっていたら、修二は責任持って一緒になっていただろう。そうして普通の男として幸せになれたかも知れないが、そうはならなかった。
 呉服商の申し出を了承したのは、自分の将来性を鑑みて女の幸せを思っての事だったが、女に殺されかけた時に気がついたんだと。死ぬかも知れないと思った瞬間に、望月、あんたに会いたいと思ったんだそうだ。最後に一目だけでもあんたの顔が見たいと…。
 今も愛してるんだよ、あんたを誰よりも。でも、あんたの重荷になりたくないんだ。あんたが連絡を取りたいと言った時、嘘の連絡先を教えたのは、足も駄目、仕事も無い、将来的に車椅子で過ごすかもしれない自分が、あんたの邪魔になるのが怖かったんだ。この事は吉田は知らないよ。俺が最近、無理矢理訊き出したからな」
「そんなの、おかしいだろう…。僕を好きなのに、条件は同じ筈なのに、修二はどうして僕ではなくて、吉田の好意を受け取るんだ。彼なら修二を最後まで捨てないと言う保証は何処にもないだろう」
「修二なりに前向きに、あんたとは別の人生を生きる事を選んだが、それでも人間は、一人では生きて行けないだろう。特に、修二のような人間は。だから持ちつ持たれつの関係になったんだよ。それに、最終的に吉田に捨てられても、修二はそれほど傷つかない。でも、もし今度あんたに捨てられたら、多分あいつは生きて行けないだろう…」
 聡は手で口元を覆うと、固く目を閉じて項垂れた。そうしないと涙が溢れて叫び出しそうになったからだ。震えながら心の中で何度も修二の名前を呼んだ。ずっと好きでいてくれた。ずっと自分を愛していてくれた。会いたかった。会って、今度こそ抱きしめて、自分の気持ちを洗い浚い打ち明けたいと切に願った。
 聡の頭上に、賢造の厳かな声が降りてきた。
「なあ。あいつは、俺の大事な…大事な従兄弟なんだ。子どもの頃からずっと見てきた。誰より幸せになって欲しいと思ってる。心も躯も両方でだ。『一握の砂』だなんて、そんな哀しい考えを捨てさせたい。馬鹿な事を言うと思わないでくれ、本気で言うんだ。あいつを一生手放さないと、一生側にいると誓えるなら、俺はあんたに協力する。あんたを修二に会わせてやる」
 聡は弾かれたように顔を上げて賢造を凝視した。勿論! と勢いよく言おうと口を開けた途端、賢造が手を上げて制止した。
「今すぐ答えなくていい。安請け合いはしないで欲しいんだ。あんたも分かっているだろうが、修二は強情だからな。あいつを納得させるには、あんたもそうとう腹括って掛からないと無理だ。それに、俺が言うのは、一生あいつの面倒を見られると確約するのが条件だ。車椅子になるかも知れない、まともな稼ぎも無い、セックスだって、あんたが満足出来るかどうかも分からんぞ。そんなあいつの面倒を一生見ろと言ってるんだ。おかしいと思われても構わん。脅しじゃなく、それであんたがまた修二を捨てる事になったら…、俺は、あんたを殺すかも知れない…。よく考えて、それから返事が欲しい」
 聡は口を半開きにしたまま、厳しく引き締まった賢造の顔を、ただ見詰めることしか出来なかった。

 マンションのある三鷹へ向かう夕刻の総武線の中は、行楽帰りの家族連れやカップルで混んでいた。賑やかな話し声を何処か遠くに聞きながら、聡は出入り口の手摺りに凭れて流れる車窓の風景をぼんやり目で追っていた。
 聡はずっと田辺に言われた事を考え続けていた。田辺にどう脅されようと、修二を思う気持ちに偽りは無いし揺るがない。それでも、離れていた時間が長い分、多少の溝もあるだろう。あれ程分かり合えていると思っていた時期に、結局一度は別れているのだから、“ 一生 ” という言葉は、聡の中でずっしりと重く感じられた。
『あんたを殺すかも知れない』と言った田辺の真剣な顔を見ながら、その内心を慮った。昔から修二に対する度が過ぎる行動は何を意味するのか、深く考えずとも思い当たる。田辺は修二を愛しているのだ。なのに何故、自分に協力するのか。何故、みすみす吉田に修二を渡したのか。聡は訊かずにはいられなかった。
「はっきりさせておきたいんだ。田辺は…修二を愛しているんだろう?」
 田辺は無表情のまま聡の顔を見ていたが、視線を下げると手の中のビール缶をくるくると回した。
「俺はあいつの従兄弟だ。そういう意味では愛しているが、あんたのとは違う」
「高校生の頃、髪を染めて従兄弟だと伏せていたのは、修二の用心棒のつもりだったんだろう? 唯の従兄弟が普通そこまでするか? 恋愛感情があるなら納得が行くけどね」
「あの頃はさっき話した通り、修二が精神不安定だったからだ。うちの学校へ入ると決まった時、俺は心配だった。あんたも知っているだろう? うちの学校特有の馬鹿な噂を。修二はあの通りの見て呉れだし、やたらな人間を近づけさせたくなかったんだ。だからその噂を逆手に取っただけだ。そんな事は何でもないさ。俺たちの関係は上手く説明出来ないが、あんたが心配するような事は何も無い。逆立ちしたって俺に男は抱けないよ。別に偏見がある訳じゃない。でも、修二は抱けない。それにあいつは、俺に恋愛感情は持たないさ」
「何故、そう言い切れるんだ」
「俺はあいつの事を知り過ぎているからさ。そんな相手に恋愛感情を抱くと思うか? 相手が背負って欲しいと自ら秘密を打ち明けるのはいいさ。でも俺は、もともと隠しようが無いくらい近くにいて、時には無理矢理訊き出しているんだからな。そうしないとあいつは色んなものを背負い込んで壊れるからだが、全てを知っている人間なんて、俺だったらごめんだね。なあ、言っておくが、恋人同士だからと言って、相手の全てを知りたいなんて思うなよ。人には隠しておきたい事も、知らなくていい事もあるんだよ。だから、今日の事は、あんたの胸の中に納めておく方が良い。まあ、あんたらはお互いを知らなさ過ぎるが、度が過ぎると厭がられるぜ、俺みたいに」
「修二が君とじゃなく、吉田と一緒に住み始めたのは、君を鬱陶しく感じているから…なのか?」
「まあ、それもあるが、修二は実家に戻りたくなかったんだ。大叔母の症状が酷くなった後、叔母が金沢の大叔母の実家に引き取らせ、一度も会う事なく亡くなったんだ。修二を混乱させた張本人だが、それでも大切に思っていたんだよ。あいつは叔母の仕打ちが許せなかった。もともと叔母との仲は上手く行ってなかったしな。その上、京都の一件が決定打になった。相手の女がかなり曰わく付きだったから、事件当時は結構煩く取材されてな、長瀬の家にも押し掛けて対応に追われていた。だから修二の入院中、会いに来たのは優一だけで、叔母は世間体を気にして一度も会いには来なかった。互いにほぼ絶縁したと言っていいだろう。東京に戻って俺の所へ来れば、自分の事がうちの家族から叔母に知られるのが嫌だったんだろう。だからと言って、吉田と住まわせたのは軽率だったと反省している…。まあ兎に角、俺たちは従兄弟同士で、それ以外の何者でもない。唯、それだけだ…」
 そう言って、目を合わせずに苦笑いを浮かべた田辺の顔が頭から離れなかった。
『全てを知っている人間』という言葉に、聡はどうしても引っ掛かった。あそこまで全てを打ち明けてしまう修二の田辺に対する依存度にも懸念を抱いた。勿論、修二が自分の事を隠しておきたかった理由や、家族との確執を知った今では、それも致し方ないと思う。田辺がいなければ、繊細な修二は今頃壊れてしまっていたかも知れないのだ。そうだと分かっていても、自分には何一つ打ち明けてくれなかった事が遣る瀬無かった。
 聡には田辺がまだ何かを隠している気がして仕方がなかった。協力すると言われても不信感が拭えない。それでも今は、彼を信じるしかないのだろう。
 電車の窓から暗くなってきた空を眺めてため息をついた時、スラックスのポケットに入れていた携帯が震え出した。取り出して見るとメールが届いていたが、その差出人を確認して聡は凍り付いた。
 川上からだった。内容を読まずに削除しようと思ったが、思い直して開いて見ると、

『黙って帰ったので心配していた。もう一度話し合おう。明晩九時、Oホテルで待っている。K.K』

 読んだ瞬間に怒りが込み上げた。携帯を床に投げつけたい衝動に駆られたが、はっと我に返って携帯を握りしめた。
 そうだ。今こそ、こいつと決別しよう。逃げてばかりいた自分が招いた悪の柵を全て清算する事で、自分の中で、修二に対する想いの強さを証明するのだ。川上に真っ向から対峙して宣言してやる。自分に必要なのは、心底愛し愛される事なのだと。身体だけの繋がりなど必要ないのだと。堂々切って捨ててやる。
 聡はそう決意すると、了承したとのメールを返した。

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