INDEX NOVEL

一握の砂 〈13〉

 修二の父親である義治は、賢造の父親である義国の弟で、五つ年上の義国が結婚して田辺の家を継いだ年、二十二歳で長瀬の家に養子に入った。長瀬の家は二人の母みつ子の実家で、長瀬の家を継いだ憲一郎とは、一つ違いの姉弟だった。よって義国、義治兄弟にとっては叔父にあたる。
 当時、長瀬商会と言えば、神田の街でも屈指の商家であった。三代続く生え抜きで、代々当主が優秀な事で知られていたが、その財を一代で食い潰したのは憲一郎だ。八人姉弟の末っ子で唯一の男の子だった憲一郎は筋金入りのぼんぼんで、家の商売には見向きもせず人任せ、自身は趣味の書画骨董の収集と女遊びに明け暮れていた。さすがに家の存続を心配した父親が、取引相手で金沢の豪商からたってと望んで嫁入りさせたのが、後に修二を育てることになる祖母、美弥子だった。
 憲一郎はこの気位の高い嫁が大嫌いだった。一度も美弥子を顧みる事なく、当然二人の間に子どもはなかった。当初の思惑が外れた美弥子との婚姻を白紙に戻そうかと、両家で話し合いが持たれたが、美弥子にとって幸か不幸か、三人いた妾との間にも憲一郎の子どもは出来なかったので離縁は回避された。
 五十を過ぎても、財産は疎か借金を重ねて道楽を続ける憲一郎に、見切りをつけたのは美弥子の方だった。彼女の行く末を心配した父親が遺産として残した山を処分して、借金の肩代わりに憲一郎を長瀬の家から追い出し、唯一男子がいる田辺の家から義治を養子として貰い受けた。
 漸く美弥子の天下で事が運ぶ筈だったが、義治が養子に入る条件として出したのは結婚相手を自分で選ぶというものだった。美弥子は自分の実家から嫁を取るつもりでいたが、義治は今つき合っている女性と一緒でなければ養子に入らないと譲らなかった。結局、美弥子は条件を呑み、そうして生まれたのが、優一と修二の兄弟だった。
 新しい経営者になり銀行からの融資も得られたが、所詮は素人で、たちまち家業は傾いた。修二が生まれた時、まさに長瀬商会は最大の危機を迎えていた。それを救ったのも美弥子だったが、個人資産から事業資金を出す代わりに修二を手元で育てたいとの条件つきだった。勿論、美弥子と犬猿の仲だった母親の智子は猛反対したが、背に腹はかえられないと義治は了承し、修二は二歳の年から小学校に上がるまで、女の子の格好をして家からどこにも出されず、美弥子の手元で育てられた。
 修二は未熟児で生まれた事もあり、身体が弱かった。美弥子が女の子の格好をさせたのは、古い仕来りに沿って丈夫に育つようにとの配慮だったが、それを智子が厭がった。自分の生んだのは男の子だと言って、修二が女の子の格好をしている間は側へも寄らなかった。一番可愛い時期に子どもを奪われた智子は、当然美弥子を恨んでいたし、修二とも親子の縁が薄まった。

 賢造は二本目のビールに手を伸ばしながら、懐かしそうな遠い目をして語り続けた。
「俺が修二に会った一番古い記憶は、五つの時の七五三の宮参りだ。俺は着物を着せられて神社に詣でた後、修二の家に遊びに行った。あいつは午前中は母親の希望で男の子の節句の着物を着せられ、俺が会った午後には大叔母が見立てた黒地に紅い梅の花をあしらった振り袖に、桃割れに髪を結った姿だった。あんな子どもの頃から綺麗でな、夢にも男だとは思わなかったよ。
 どういう訳か、俺は大叔母のお眼鏡にかなったらしく “ お友だち ” として遊びに来るのを許された。それ以来のつき合いだよ。あいつにとっては兄貴の優一より、俺にとっては姉貴の千賀子より身近な存在だった。
 子ども心に修二を可哀相に思ったよ。一番母親が必要な時に側にいてもらえず、大叔母は怖い人ではないが、躾に厳しい人だったからな。そのせいか、修二は大人しくて無口な子だった。いつも寂しそうにしていたよ。笑うとそれこそ花のように可愛らしかったから、その顔が見たくて、俺はあいつを喜ばす事ばかり考えていた。
 まあ、それも俺たちが小学校へ入るまでの話で、その後は普通の男の子として過ごしていたようだよ。俺はもう私立のあの学校へ通っていたから、この時期はあまり頻繁には会っていないんだ。休みの日に、キャッチボールをやったりしたけどな。ただ、普段は学校から帰ると大叔母につき合って、お茶やお花の稽古をしていたらしい。」
「お茶と、お花?」聡は怪訝そうな顔をして問い返した。
「ああ。大叔母は家業の方は一切手伝わず、茶道と華道を教えて家計を支えてたんだ。確か、修二も中学に上がるまで習っていたはずだ。俺の母親も少し習っていてな、修二の事を誉めていたよ。よくやっているってね。外では母親の望む元気な男の子、家では大叔母の望む礼儀を弁えた男の子になるのさ、文句一つ言わずに。修二はそういう素直な良い子だとみんな当たり前に考えていたが、俺は無理しているんじゃないかと思っていた。
 中学三年生の時、確か修学旅行の前だったかな、修二が鬱ぎ込んで食事も碌に食べないが、幾ら訊いても答えない。だから一番仲の良い俺から理由を訊いてくれと頼まれた。
 俺は思春期だから風呂が恥ずかしいとか、そんな理由だろうと思ってた。修二は成長が遅くて、声変わりもしていなかったし、体毛も薄かったからよくからかわれたんだ。笑い事じゃなく、痴漢にもしょっちゅう合っていたから、護身のために合気道も習っていたくらいだよ。
 最初はなかなか白状しなくて、やっとやっと訊き出したのは、確かに身体の事だったんだが、もっと深刻だった。修二は泣きそうな顔で言ったんだ。
『精通が無い。夢精もしない。僕は男じゃないんじゃないか』ってね…。
 どう答えていいか分からなかった。成長が遅いから仕方がないと言えば簡単だけど、本人は悩んでる訳だしな。いくら親しくても、そんな話はこれまでした事は無かった。普通は兄弟とするもんだろうけど、兄貴の優一とは五つ違いで、この頃はもう大学生だったからな。仲が悪い訳じゃないんだが、あまり意志の疎通が無かったんだ。
 色々訊いてみると自慰すらした事が無いと言うから、その時は、それを教えたんだ。兎に角やってみろと。でも、出来なかったんだ。
 お手上げだよ。俺だってどうしていいか分からない。だから医者に行く事を勧めたんだが、母親に知られたくないから行きたくないと言って泣くんだ。困ったよ。保険証がいるからな。内緒で行く訳にもいかないし、結局、俺から優一に相談して協力してもらい、叔父と叔母を適当に誤魔化した。医者の方も、田辺の家の掛り付け医の紹介で診察を受けさせた。
 結果は正常。遅い人は十八歳くらいまで無い人もいるから心配要らないと。心理的なものかも知れないとも言われたが、どちらにしても、焦らずもう少し待つようにとの事だった。
 まあ、正常と診断されて楽になったんだろうな。自慰行為が出来るようになって問題は解決したんだが、ほっとしたのも束の間、あの馬鹿、好きでもない女と取っ替えひっ替えつき合い始めたんだよ。
 つき合うと言っても、要は寝るだけだ。殆どは大叔母の所に習いに来ていた顔見知りの女子大生とか年上の女だった。相手の女にしても、見目の良い男の子を摘み食いしているだけなんだが、見ているこっちがヒヤヒヤした。
 まだ、十五歳だぞ。まるで、やる事で自分が男なんだと確かめているみたいで、終いに見ていられなくて止めるように言ったんだ。そうしたら、あいつ、何て言ったと思う?
『少しも気持ち良くならない』って言ったんだ。快感が無い訳じゃないらしいが、どうも…、しっくりこないと…。俺は「好きでもない人間とやればそうだろう」と諭したんだが…」
 賢造は急に口を噤み、そのまま暫くテーブルの上を眺めていた。聡は焦れったくなって声を掛けると、賢造はゆっくり顔を上げて再び口を開いた。
「なあ、人間は取り返しのつかない過ちを犯してしまう生き物だよな。もっと気を使ってやれば良かったと、何度思ったか知れないよ。でも、後になって初めて気づく事も、分かる事もあるんだよ。
 修二は…、女も一応は抱けるが、端からゲイだったんだと思う。しかも、“ 受け入れる側 ” として…。抱くんじゃなくて、抱かれたかったんだな。それは今、本人も認めている。
 もっとも、“ 受け入れる側 ” だと自覚したのはごく最近の話だ。その頃は、ゲイかも知れないと薄々感じていた程度で、確固たる自覚は無かったし、喩え自覚したとしても、“ 受け入れる ” 事は出来なかったと思う…。
 どうしてか?
 死んだ人間を悪く言いたくは無いが、大叔母のせいだろうな…。
 中学二年生になったばかりの頃、大叔母が脳卒中で倒れたんだ。幸い命に別状は無かったが、手足の麻痺が残った。軽いものだったので自宅で療養する事になったが、本当はそれだけじゃなかった。
 希な事らしいんだが、大叔母は脳の側頭葉部分が駄目になっていて、記憶障害が出ていた。突然、時間軸がずれたみたいに昔の記憶と今の事が混ざり合って、有ること無いこと話し出すんだ。ずっとおかしい訳じゃなく、数分の時もあるし、小一時間ほどの時もある。
 最初、記憶障害の事は誰も気がつかなかった。昼間、彼女の側にいたのは修二だけだ。知っていて、一年もの間、ずっと黙っていた。症状が認知症に近いから、麻痺の後遺症がある上に呆けたと知られたら、仕事で忙しい両親は血の繋がらない大叔母の面倒を放棄すると思ったんだ。でもそれが、修二の精神に負担を掛ける結果になった。
 大叔母はおかしくなると、決まって修二を女の子と勘違いするんだ。貴方は綺麗だから三国一の花嫁になるとか、自分が良い相手を選んでやるとか、最初は四、五歳の頃よく言われていたような事に妄想が加わる。
 そのうちに、自分の旦那、憲一郎に対する恨み辛みを打ち明けるようになった。一度も抱いてもらえなかったとか、妾を家に連れて来て持て成せと言われたとか…。もっと酷くなると、修二を大叔父と間違えて責め立てた事もあったらしい。それでも、最後には『好きだ』と言うんだと、泣きながら…。
 大叔父の事を、恨みながらもずっと愛していたなんて、誰も思いもしなかった。家のために互いに犠牲になっただけだと思っていた。特に大叔母は、それこそ山よりも高いプライドの塊のような人だったから、ずっと隠していたんだろう。おかしくなって初めて、自分の気持ちが出せたなんてな…。
 なあ、修二は優しいやつだろう? だから人の感情に引きずられ易い。なかなか人慣れしないが、一旦受け入れた人間にはとことん尽くすし許してしまう。縋られたら最後、その手を離せない。
 大叔母は哀れだったし、その長年の鬱積を聞かされて気持ちが同調しちまったんだな。大叔母の感情を丸ごと呑み込んで、だんだん自分の性差が分からなくなってしまったんだ。精通が遅かったのも、余計に不安を煽ることになったんだろうな。
 一番感受性が育つ時期に、形だけとはいえ女として育てられて、思春期にも女の愛執を植え付けられて、あまつさえ同調したんだ。でも俺は、それがあいつの本質なんだと思う。勿論、内面が女性だというのとは違う。あいつは歴とした男なんだ。在りたい自分と、認めたくない本質との間で随分葛藤があったんだろう。あいつが執拗に男らしさに拘ったのは、そうでもしないと自分の性がぶれてしまうようで怖かったんだ。
 俺は修二が男とつき合うと知った時、正直驚いたが、あんたを見て納得したんだ。あんたは純粋に修二を男として慕っていたし、あの頃のあんたは、まだ身体が出来上がっていなくて可愛かったからな。だから、修二はあんたを “ 抱く ” 方としてしか見ていなかっただろうし、あんたもそれを望んでいたんだろう? 普通と比べれば淡泊だっただろうが、あんたとやる時は『感じられる』とも言ってたよ。
 修二は飽く迄も “ 男 ” でいたかったんだ。逆は考えられなかっただろうよ。あんたの前では頼もしい男で在りたかったし、そう成れるよう努力していた。そういう自分だからこそ、あんたが愛してくれていると信じていたんだ。でも所詮は無理をしていた訳だから、破綻したのも、今から思えば当然の結果だった。
 大叔母の騒動の時も、修二は躁鬱に近い状態になったが、あんたと別れた時はその比じゃなかった。パニック障害を起こす程ショックを受けたのは、勿論、あんたと“出来なかった”事が引き金になったんだろうが、一番の原因は、自分自身の内面が崩壊してしまったからだろう」

 賢造は言葉を切った。聡は言葉が出なかった。二人ともそれぞれ自分の物思いに沈み、部屋は静寂に包まれた。
 賢造の話は驚きの連続だったが、修二の性格を鑑みれば頷ける所が多かった。修二の男らしく振る舞うポーズの裏に優しく柔和な姿を隠している事を、聡はとうの昔に気づいていた。でも、彼の外見はどうあれ、それを “ 女性的 ” だと思った事は一度もない。
 再会した時、修二自身が言っていた『化けの皮』とは、彼の心の内にある “ 女性 ” 性を隠していた事だろうか? そうだとしても、修二のどんな部分も自分は受け入れる自信がある。今なら尚の事、彼の望むものを与えられるだろう。
「修二は、いつ自分が “ 受け入れる側 ” だと気づいたんだろう? 吉田とはいつから…」
 賢造は暫く黙って聡を眺めてから、徐に口を開いた。
「全部、あんたと再会した後だよ」
「嘘だろう? つい最近じゃないか!」
「そうだ。まだ一ヵ月しか経っていない。あの日、あんたと再会してから、まるで止まっていた歯車が回り出したみたいに、修二も、吉田も、あんたも、一斉に動き出したんだ。それまで、吉田とはそんな関係じゃなかった。修二は吉田とそうなった事で、初めて気がついたんだよ」
「そんな! じゃあ、もう…、全てが遅かったって事なのか!?」
 聡はテーブルを叩いて怒鳴った。空になったビールの缶が床に落ちて転がった。
 再会した後――自分に会った上で、吉田の求愛を受け入れたという事実に聡は打ちのめされた。しかも、吉田に抱かれて初めて自分の本質に気づいたと言う。修二の躯を目覚めさせ、その心を動かしたのは吉田なのだ。今更自分に勝ち目は無いではないかと、聡は心は絶望に染まった。
 テーブルを打った握りこぶしを振るわせて憤る聡の姿を、賢造はじっと見詰めていたが、ゆっくり首を振ると落ち着いた声で言った。
「そんな事はないさ…。修二は、自分を偽っている」
「えっ?」
「俺は、あんたが出て来なければ、二人の事をただ傍観しているしか無かっただろう。でも、あんたは俺の敷いた第一関門を通ってここへ来た…。だから、教えてやるよ。修二の気持ちが何処にあるのか。俺は、あんたに賭けてみる…」
 賢造の顔は無表情だったが、瞳だけが熱い光を放っていた。その瞳をじっと聡に向けたまま、賢造は静かに告げたのだった。

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