INDEX NOVEL

一握の砂 〈12〉

 平日の夜だと言うのに、ホテルのレストランは混んでいた。
 さほど大きくはないが都心の老舗ホテルだけあって、和食、洋食、中華のレストランがそれぞれ入っているが、聡が入ったのは、夜はバーにもなる比較的軽食を揃えたレストランだ。値段もリーズナブルで肩肘張らずに入れるためか、海外からの軽装の宿泊客や若い客層が目立つ。それでも席は全て革張りのソファー、中央にはグランドピアノが設置されていて、落ち着いた優雅な雰囲気は流石と言えた。
 聡はピアノがよく見える窓際の席を選び、グラスワインと軽いコース料理を注文して待ち人が現れるのを待った。一時間ほどしてメインの肉料理が運ばれる頃、漸くピアノの方へ歩いてくる男がいた。彼だった。
 薄い浅黄色のスーツにマカオカラーの白いシャツを着ている。肩まで届く薄い茶色の絹糸のような髪を中央で分け、軽く後へ流している。丸い金の眼鏡がジョン・レノンに似た雰囲気を与えるが、若く女性的な柔らかい美貌の持ち主だった。
 ピアノの蓋を開けると、楽譜を整え椅子に座る。正面を向いて背を伸ばすと小さく深呼吸したようだった。顔を上げ楽譜を見ようとした目が、それを飛び越して聡の姿を捉えた途端、吃驚した顔をして瞬きを繰り返した。だがすぐにその顔に綺麗な微笑を浮かべると『イパネマの娘』を弾き始めた。
 聡はデザートを食べ終えると、コーヒーを飲みながら彼の奏でるピアノに聞き入った。
 聡が彼、光成俊樹と出会ったのは三年ほど前、彼が聡の勤務していた池袋支店に口座を作りに来店した時だった。普段、聡は窓口には出ないが、インフルエンザの流行で窓口の担当者が不足したため、行員総出で対応に追われていたのだ。
 髪の色が目立つ事もあったが、そこにいるだけで華やかな雰囲気を醸し出す俊樹は、居合わせた客や行員全ての視線を集めていた。対応に出た聡も印象深く覚えていたが、まさかその人と二十四時間も経たないうちに再会するとは夢にも思っていなかった。しかも、ゲイバーで。
 ちょうどその頃、聡は川上の強引なセックスにストレスを感じ、鬱憤晴らしに、止めていたゲイバー通いを始めていた。店に入るとすぐ、断ってもしつこく誘う男に困惑している俊樹の姿が目に入り、そのまま声を掛けていた「僕の連れに何か?」と。
 それ以来、川上同様、俊樹は聡のセフレとなった。聡がタチをする唯一の相手だったが、川上を受け入れる苦痛を俊樹が癒してくれる、そんな貴重な存在だった。聡とて、修二ばかりを追っていた訳ではないから、優しい包み込むような性格の俊樹に惹かれ、恋人になって欲しいと望んだ事もあったが、俊樹にはそれこそ身も心も捧げている唯一の人――と言っても、相手は妻子持ちなのだが、その人以外は考えられないと告げられていた。
 池袋支店から移動して川上から距離を置けるようになってから、俊樹との逢瀬も減ったが、特に約束をせずともその関係は続いていた。
 ジャズやボサノバを中心に、繊細にアレンジした曲を小一時間ほど奏でると、彼は静かにピアノの前を離れ、聡の席までやって来た。
「驚いたよ。初めてだね、聞きに来てくれたの。どういう風の吹きまわし?」
「うん…。ちょっと相談したい事があって。時間、大丈夫かな?」
「相談? そう。いいよ。ちょっと待ってて」
 そう言うと、俊樹は黒いタキシード姿で入り口に立つフロアマネージャーらしき男の所へ歩いて行った。程なくして俊樹は戻ってくると、そのまま聡の前の席に腰を下ろし、顔馴染みのボーイにコーヒーの追加を頼んだ。
「大丈夫だったよ。一時間位いいって。丁度お客さんの入れ替わる時間だからね。相談って、一体何かな?」
 何故かわくわくした顔をする俊樹に聡は苦笑した。セックスをした後、枕部で互いの近況を話す事はあっても、改めて相談などするのは初めてだから仕方がない。かなり重い内容に俊樹が退かなければいいがと思いながら、聡はどう説明しようか迷いながらも、修二との馴れ初めと別れを簡潔に、再会後の出来事を詳しく、特に吉田の話は出来るだけ正確に説明した。
 始めは興味津々に聞いていた俊樹だったが、途中から真摯に耳を傾けていた。余計な口出しはせず、黙って頷きながら相づちを打つ姿が修二に重なる。彼に惹かれたのはそんな修二に似た仕草かも知れないと聡は思った。三つ年上でそれなりに人生経験を積んでいる俊樹ならどう感じるだろうか。聡は全て語り終えると俊樹の言葉を待った。俊樹はコーヒーカップを揺らしながら暫く考えていたが、徐に口を開いた。
「う〜ん。聡くんは優しい人だから、苦しめた事に対する贖罪の気持ちが働いちゃうんだね。でも、それ、吉田くんだっけ? その人の思う壺だね。どう聞いても、吉田くんが言っているのは言い掛かりでしょう。まあ、彼は…えっと、修二くんか、を愛している訳だから、大事な人を傷つけられて憎さ百倍って感じなんだろうけど、同時に牽制してる訳だよね、聡くんに対して」
「牽制?」
「そうだよ。はっきり、会わせないって言ったんでしょう? 聡くんに罪の意識を、これでもか!ってくらい植え付けて近寄らせないためだよ。そうに決まってる」
「僕は…、修二に会っても良いんだろうか…」
「良いも何も、もう会っているじゃない? 再会した時、彼は聡くんを責めたりしたの?」
「否、別れた時の事は言われたけれど、責めると言う訳じゃなく、どちらかと言うとその逆だった。それ以外何も口にしなかったし…。まさか別れた後にそんな事があったなんて思いもしなかった…」
「修二くんにとっては、別れた後の事は聡くんと切り離して考えているんだと思うよ。また彼に会っても、その事で責められたりはしないと思うけど」
「でも、連絡先を教えてくれなかったのは、拒絶しているからだと思う…」
「そうだねぇ。で? 聡くんはどうしたいの? 修二くんを諦めるの?」
 それを訊きたいんじゃないかと、聡は小首を傾げて問い掛ける俊樹を恨めしく思った。黙ってふて腐れたような顔をしている聡を見て、俊樹は声を上げて笑い出した。
「そんな顔しても駄目だよ。自分で決めなくちゃ。そうじゃないと後悔するよ」
 俊樹はくすくすと笑い続けていたが、俯いてしまった聡を見て小さくため息をつくと慰めるように言った。
「そうだねぇ。僕だったら…。ええっと、田辺くんって言ったっけ? 彼に会ってみるかな…」
「田辺に?」
「うん。吉田くんに会って、それでもまだ会いたければ、連絡してこいって言ったんでしょう? その言い方、含みがあるよねぇ…。大体、彼は最初から修二くんたちの関係を知っている訳でしょう? なのに何故、先に吉田くんに会えなんて回りくどい事を言ったんだろう?」
「それは、吉田にしか修二の事を判断する権利が無いから…」
「だったら、すごく意地が悪いね。でも彼は、それでも聡くんがめげなければ、連絡してこいって言った訳だ…。彼の真意が何処にあるのか分からないけど、会ってみる価値はあるんじゃない? それに聡くんだって、直接彼に言いたい事も、訊きたい事もあるでしょう? 兎に角まず、その田辺くんに会ってみたら? 次の事を考えるのは、それからでもいいんじゃない?」
 聡は俊樹の眼鏡の奥の穏やかな瞳を見詰めた。
 そうだ。田辺には言いたい事も、訊きたい事も山ほどある。
「うん。そうだね。田辺に会ってみる…。有り難う。凄く、気が晴れた」
 聡が強く頷いて礼を言うと、俊樹は嬉しそうに目を細め、聡の手を上から包み込むように握りしめた。
「こっちこそ。いつも慰めてもらっていたから…、お役に立てて嬉しいよ。僕が言うのも何だけど、簡単に諦めたら駄目だよ。諦めずに色々足掻いていれば、何か良い方法も、良いチャンスも訪れるかも知れないけれど、諦めてしまったらそこで全てが終わってしまうんだからね。もう、僕たちの身体の繋がりは解消しようね。でも、困った事があったらいつでも会いに来て。話を聞く位しか出来ないけど…。何か、嬉しいな。聡くんとは、別な絆を結べるならその方が良いと、ずっと思っていたからね」
 聡は俊樹との肉体的繋がりが解消されるのをほん少し未練に感じたが、それを払拭する程に心が高揚していた。修二に繋がる切れかけた糸がまた結び直されたのだ。聡は俊樹の手を強く握り返し、晴れやかな笑みを零した。
 部屋に戻って田辺の携帯に連絡すると、すぐに時間と場所を指定してきた。土曜の昼、田辺の部屋へ来いとの事だった。俊樹の言うように、初めから連絡が来るのを待っていた感じを受けた。一体、田辺は何を伝えたいのか…。聡は逸る気持ちをぐっと堪えて、週末が訪れるのを待った。

 田辺の住むマンションは神田淡路町の駅を下りてすぐ路地に入った所にあった。
 土曜日のオフィス街は閑散としていて静かだった。住所を頼りに行き着いた先は古めかしい雑居ビルで、地下から三階までは飲食店が入っていたが、どこも全て休みだった。四階から上が住居になっていて、殆どが小規模な会社の事務所のようだ。こんな所に本当に住んでいるのかと訝しく思ったが、言われた階のポストを眺めていると、確かに五階に田辺の名前があった。
 呼び鈴を押すとすぐにドアが開いて、顔を出した田辺は挨拶をするでもなく、「どうぞ」と言って聡を招き入れた。部屋の中は思ったより広く、綺麗だった。と言うより、何も無いと言った方がいい。通されたリビングはソファとテーブルとテレビとオーディオのセットがあるだけだった。
 台所らしい奥の部屋から出て来た田辺は、ビールの缶を持っていた。飲みたい気分では無いと思ったが、早く話が聞きたい聡は黙ってビールを受け取った。田辺は聡の向かいの独り掛けのソファに腰を据えると、聡に断ってから煙草に火をつけた。
「悪いな、呼びつけて。すぐ分かっただろう? 古いが駅から近いのが便利でね」
「田辺、その…、直ぐに本題に入りたいんだけど…」
 聡は落ち着きなく思われようと、一分でも早く修二の、或いは田辺の話が聞きたかった。
「ああ、悪い。そうだな。うん…。この間、吉田に何を言われた?」
 田辺は一瞬口籠もって、幾らも吸わない煙草を灰皿に押しつけて火を消すと、咳払いをして逆に問い掛けてきた。聡は肩透かしを食った気がしたが、直ぐに気を取り直し、修二に対して行った自分の所業を責められた事を掻い摘んで聞かせた。
「そうか…。そうだろうと思った。半分はあいつの思い込みだから、そんなに気にする事は無いぞ。あの…、前川か。あれは俺が悪かったんだ。もっと気を使ってやるべきだったが、修二のあんな発作は初めてだったから、周りに目が行かなかった…。でも、ホモ発言は修が…、修二が自分で言った事だしな。あいつにして見れば、あんたが槍玉に挙がって傷ついたり、就職に不利になるような事を避けたかったんだろう。パニック障害の発作が落ち着いた頃から妙に開き直ったと言うか、一皮剥けた感じでね。京都に行く事になったのも自分で蒔いた種だからと納得していた。行く直前は寺巡りが出来るって本気で喜んでいたから、安心して送り出したんだ。まあ、まさかあんな事が起こるとは夢にも思わなかったけどな。だから、あんたが気に病む事は無いんだ」
 田辺は急に饒舌になった。聡は初めてまともに田辺と会話を交わす分かなり緊張していたが、吉田と正反対の言い分に大層面食らった。同じ事を言われるのかと覚悟して来たのに、逆にあんたは関係ないんだと言われて癪に障ったし、釈然としないものを感じた。一体、田辺と修二の関係は、唯の幼馴染みだけなのだろうか? 聡は昔年の疑問を口にした。
「一つ、訊きたいんだが。君は、修二とどういう関係なんだ? 幼馴染みとは聞いているけど…僕から見ると釈然としない。唯の友人と言うには親し過ぎるだろう? どうしてそんなに修二の事を知っているんだ?」
 質問した途端、田辺が呆然とした顔で聡を眺めた。
「あんた…、修二から聞いてないのか?」
 呆れたような声に聡はムッとしながら首を横に振ると、田辺は盛大なため息をついて片手で額を押さえた。
「否、そうだな…。修二は、話さないかも知れないな。あのな、俺と修二は従兄弟同士だ」
「従兄弟?!」
 聡は素っ頓狂な声を上げて田辺を凝視した。
「そうだ。戸籍上は “ はとこ ” になるんだが、本当は従兄弟だ。家が近かった事もあって、物心付いた頃から一緒にいるから、兄弟に近い感覚だな」
 今度は聡が呆然として言葉を失った。親しいどころか、血が繋がっているのだ。道理で似ている訳だ。遺伝としか言いようがない、滅多にない栗色の髪は二人の共通点だった。
「じゃあ、大学一年の時から内緒で会ってたってのは…」
「預かり物とか伝言とか、色々。家が近所の割に、こっちも向こうも商家だから忙しいんだ。お前たちはどうせ大学で会うんだから渡してこいってね…」
「どうして、内緒で会う事があるんだ! もっと早く知っていたら…」
「『もっと早く知っていたら』何か変わったのか?」
 聡は息を呑んで田辺を見詰めた。否や、きっと変わらない。従兄弟であろうと何であろうと、田辺に対する対抗意識は変わらなかっただろう。聡はがっくりと頭を垂れた。
「内緒で会っていたのは…、俺と修二が一緒にいると、あんたが嫌がるからだ。修二にとっての一番はあんたなんだよ。自分の事も差し置いてだ。自分がホモだと言ったのもあんたを守りたかったから。あんたがそうしたいと言ったから…別れる時も、ただ頷いたんだよ」
 聡は項垂れたまま顔を両手で覆った。自分で自分を殺したいほど馬鹿だと思った。そうだ。修二はいつも自分の我が儘につき合ってくれた。大切にしてくれた。それなのに…。
「好きに……なり過ぎたんだ……。修二は僕にとって、暗闇の人生に光明をもたらす絶対者だった。僕は同性愛者だから、告白するのにもハードルが高い。それなのに、好きだと告白した時、余りにもすんなり受け入れてくれたから、嘘みたいで怖いくらいだった。だから信じていなかったのかも知れない。言い訳にしかならないが、失う事が怖くて、本気でぶつかることが出来なくなった…」
 顔を伏せて告白する聡を田辺は痛ましそうな顔をして見ていたが、微温くなったビールを呷ると、息を深くついて頭を振った。
「そうだな。あんたたちは、もっと中身を曝け出してぶつかり合う必要があったな。でも、修二には無理だったかも知れない…。あいつは、あんたに限らず、誰にも本心を見せた事が無いからな。俺は、どこから話せば良いか、ずっと考え倦ねていたんだが、何故、修二が内面を曝せなかったか、そこから話す事にしようか。少し長いぞ。あいつの生い立ちから始まるからな…」
 そう言って、田辺はまたビールを呷った。

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