INDEX NOVEL

一握の砂 〈11〉

※ 性描写があります。18歳未満の方はお読みにならないでください。

 完全な二日酔いの頭を抱えて聡はノートパソコンに向かっていた。こんな時は外回りがある方が気が紛れるが、息が酒臭い。誤魔化すために風邪を引いたとマスクをして出社すると、田中が気を利かせて代わりに行くと言って譲らず、仕方なく好意に甘える振りをした。
 確かに具合も悪かった。殆ど寝ていないのだから無理もない。記憶が飛んでいる間に少しは休めたのかも知れないが、夜明けに目が覚めてから結局そのまま起きてしまった。水とお湯のシャワーを交互に浴びて頭を冷やし、見苦しくない程度には回復したつもりだった。それでも見れば分かるのだろうか。朝、会った途端にぎょっとした田中の顔を思い出して聡は苦笑いした。
 聡がリークした恋人の話は、全く噂になっていなかった。田中なりに気を使ったのか、自分の胸に納めてしまったようだ。それはそれで厄介な話だと聡は頭を抱えた。結果を聞かせろと言われたら何と答えるべきか。もう恋人がいて、自分の手の届かない所へ行ってしまったのだと、言わねばならないのだろうか?
 聡は頭を振ると、ノートパソコンの画面に集中した。今は仕事に集中して余計な事は頭から追い出したかった。
 淡々と書類を作成していると、支店長と一緒に背の高い男が入ってきた。その顔を見た途端、聡は心の中で舌打ちした。どうしてこういう時に限って、一番会いたくない人間に会ってしまうのか。
 男は、銀縁眼鏡がよく似合う涼しげな美丈夫だった。聡とともにいち早くその姿を認めた女子社員が声を張り上げた。
「あっ、川上さーん、おめでとうございます」
 一斉に行内中から同様の祝辞が上がる。支店長が満面の笑みを浮かべながら、隣の川上の肩を叩いた。川上は照れくさそうに、「いやあ、ありがとうございます」と言って、祝辞を送る行員たちに向かって深々と頭を下げた。
 川上啓介は新宿支店の支店長だ。最近、頭取の娘と婚約したとは聞いていたが、こうはっきりと皆の知る所となったのだから、挙式の日取りでも決まったのだろう。四谷支店を訪れたのは、支店長に招待状を渡しに来たのだろうと、聡は川上の笑顔を見ながら遣り切れない気分になった。
 拍手が巻き起こる中、隣の同僚が古株の女子社員と小声で話し合っている。
「いや〜、凄いよね…。出世街道まっしぐらの人だったけど、まさか頭取のお嬢さんと一緒になるとは思わなかったよ…」
「何で?」
「世襲制じゃないからさ、頭取のお嬢さんもらった所で銀行のトップになれる訳じゃないじゃない。綺麗なお嬢さんだとは聞いているけど、野心家だからさ、もっと違う女性と一緒になると思ったんだよね」
「え〜、坂田さん、知らないの? あそこ、すごい家柄が良いんだよ」
「そうそう。だからさ、ピンときたのよ。あそこ親戚に政治家がいるじゃない。どうも将来的に政界に打って出るつもりなんじゃないかね〜」
「ええ〜? それは分かんないけど…。う〜ん、有り得るよねぇ。川上さんだもんねぇ」
 二人の会話を聞きながら、ああ、この男なら有り得るよ。そう心の中で呟きながら聡は部屋を抜け出した。給湯室で別段飲みたくもないインスタントコーヒーを入れる。喫煙室にはカップ式の自販機があるが、煙草を吸わない聡にはコーヒーを入れる時間がそのまま短い休憩時間になる。今はあの賑やかな空気の中に居たくなかった。カップを手に出入り口へ向かうと、いきなり川上が現れて危うくコーヒーを零しそうになった。
「驚ろかさないでくださいよ…」
「悪い。探してたんだよ。今晩つき合ってくれないか? 支店長と二人だけだと肩が凝る。一緒に行ってくれると助かるし、勿論、その後も…」
 聡は目を見開いて穴があくほど相手の顔を凝視した。川上はその顔を面白そうに眺めると微笑しながら呟いた。
「本当に目が大きいな。そんな顔をされると堪らないよ」
 聡は途端に目を眇めて、思いっきり厭な顔をした。
「貴方、結婚するんでしょう? 何ですか “ その後 ” って。何考えてるんですか!」
「何って、いつもの事だよ? 僕が結婚する事と望月くんの事は関係ないからね。何か誤解があるようだから、その事も話し合おう。支店長にはもう言ってあるから、六時に裏口でね。遅れないように」
 聡の都合などお構いなしに既に決まった話だと、川上は言うだけ言って出て行った。聡は川上の消えた入り口をずっと睨んでいたが、肩の力を抜くと流しに寄りかかってため息をついた。相変わらず強引な男だと思う。出会った時からそうだったと聡は唇を歪めて笑った。
 川上は池袋支店で聡の上司だった。殆どの行員は一年で支店を移動するので、厳密に上下関係があったのはその期間だけだが、つき合い自体は長い。聡が入行した時の社員研修の担当者が川上で、出会いしなから口説かれた。
 まさか職場にお仲間がいるとは夢にも思わず呆然としている聡の耳元で「何度も見掛けて、興味があったんだ…。君は結構有名だったんだよ。知らなかったのかい?」と囁かれた時には蒼白になった。学生時代の乱交を知っている相手など冗談ではないと慌てたが、八つも年上の手練れた男に敵う筈も無く、以来、即かず離れず肉体関係を続けている。聡にとっては不本意ながら一番長く続いている相手だった。
 それも相手の結婚で終止符が打てると思っていた。嬉しいような寂しいような複雑な心境に、修二や吉田の事まで混ざり出して、聡の心は混沌としていた。まるで色んな色の絵の具を混ぜ過ぎて、黒く汚れていくようだと思った。何も考えたくないし、誰にも会いたくない。それでも、今日はつき合うしかないだろうと聡は諦めて頭を振った。どうせ大人しく家に帰った所で、自棄酒を呷らなければ眠る事も出来ないだろうし、丁度良いではないか。そう開き直ると少しは気が楽になった。
 重い腰を上げて約束の場所に来てみれば、支店長と川上だけでなく、同僚の坂田と他にも数人誘われていて、聡は肩の荷が下りた思いだった。近くの洋風居酒屋で前祝いと称した宴は、主役の川上を中心に盛り上がり、聡一人上の空で作り笑いを浮かべたまま、黙々と杯を重ねていた。最初はしっかりしていた頭も、一度、手洗いに立った所から妖しくなってきたが、惰性でそのまま飲み続けた。支店長の笑い声を遠くに聞きながら、坂田に顔色が悪いと言われたのは覚えている。そのすぐ後に川上の顔が見えたのを最後に記憶がなくなった。

 聡は、久し振りに感じる後孔の圧迫感に息を詰めて耐えていた。長い時間受け入れているとそこ自体は痺れて楽になる。川上の緩慢な動きにも身体は感じて昂揚しているのに、頭は妙に冷めていた。
 前日に碌に寝ていない身体にアルコールを入れたのは失敗だった。川上から『その後…』などと意味深な言葉を告げられていたにも拘わらず、馬鹿な飲み方をしたと後悔した時には、既に川上のものを受け入れている状態だった。何度か訪れた川上の部屋で、互いに一度ずつ劣情を吐き出した後、既に意識が飛びそうな聡の状態などお構いなしに、川上は再び背面位から聡を貫いている。
 不思議と聡を抱こうとする男は執拗で体力のある男が多く、もう夜半を過ぎているのに川上は疲れを知らないようだった。松田もそうだったが、普段は口調も優しげな穏和な印象の男ほど、その怒張を突き込む行為は荒々しかった。相手が男だからか、それが牡の本質なのか、聡にも覚えのある事とは言え、こうして組み敷かれてしまうとその豹変振りに毎度驚かされる。
 聡とて本来の牡としての欲求も矜持も持っているから、経験を積めば積むほど、ただ翻弄されて終わるのは屈辱だった。自ら腰を踊らせて相手のものを襞に絡ませ引き寄せると、川上が僅かに呻いた。相手を達かせたいのか、自分がオーガズムを得たいのかよく分からない。こうなるとどっちが先に達するか我慢比べみたいなものだった。
 快楽の波に乗れないせいか、不意に修二の顔が頭を掠めて聡の動きが止まった。
 修二も、今頃こうして吉田に組み敷かれて啼いているのだろうか。高校生の頃のようなあの華奢な身体では吉田を抱く事は出来ないだろう。こうして後孔で吉田の欲望を受け入れて、快感に震えているのかと思うと聡は頭の芯が焼き切れそうな嫉妬に駆られた。
「いっ、痛っ! …うっ、あ…」
 突然下半身に痛みが走り、聡は悲鳴を上げて仰け反った。川上に陰嚢を握られたのだ。
「上の空だね…。それとも、余裕があるのかな…。こんな愛撫じゃ物足りないか?」
 川上が耳に息を吹き込むように囁いてくる。聡は首を振って否定するが、陰嚢を揉み込んでいた手を移動して萎えてしまったものを握り込むと絶妙な力加減で擦り始めた。聡が呻き声を上げると、川上は満足そうに喉の奥で笑い、自身を入り口まで引き出しては激しく突き込んだ。
 川上は自分の欲望を満足させるためだけに何度も挿出を繰り返し、聡は手の動き一つで半ば強引に吐精させられ、川上はその反射で収縮した襞の動きを楽しむように放出した。
 聡は怒りの余り、射精したばかりの敏感な身体を叱咤して川上の下から抜け出すと、仰向けになって喘ぎながら無理矢理息を整えた。
「あんた…、結婚するんだろう。まだ、こんな事を続けるつもりかよ!」
 言いながら上半身を起こしてキングサイズのベッドの端までずり上がると川上を睨みつけた。川上は深呼吸をするように息を深く吐き出すと、横向きに寝そべったまま頬杖をついて聡を見詰めた。
 暫くそのまま視線を交わしていたが、川上は冷たく見える切れ長の目を細めると、微笑を浮かべてゆっくりと口を開いた。
「確かに僕は結婚するよ。でも君と切れるつもりは無い。いつも言って聞かせているだろう? 結婚に愛だの恋だのの感情は不要なんだ。あれは仕事の道筋をつけるためのものだよ。君が気兼ねする事はないんだ。それに、やる事はやるが、女じゃ僕の欲求は埋められないからね。君という相性の良いセックスパートナーは、僕にとって必要不可欠な存在なんだよ。君だってそうだろう。どうして別れなければならない?」
「もう、僕はあんたについて行けない。あんたには恋愛感情が不要でも、僕には一番必要なものだ。あんたとの関係は虚し過ぎる…」
「男同士に恋愛感情は成立しないよ。それは君も分かっているだろう? 今までそんな関係を築けた相手が何人いる? 君に限った事ではないよ。僕にしたってそんな相手は皆無だった。男にとって、一番大切なのは仕事さ。人生を懸けるに足る目標があれば生きていける。自分に相応しい地位、名誉、富。それを手に入れる事以外に何がある? その目標に必要だから結婚するまで。子どもが必要なら作るのも吝かではない。愛や恋なんて感情はね、人生が中弛みしないように色を添えてくれるものでしかないんだよ。人生は短いようで長い。死ぬまで続くんだからね。でも勘違いしちゃいけないよ。飽く迄も娯楽みたいなもんさ。まあ、例えるなら映画みたいなものかな…。映画の中では色んな人間の人生が語られているだろう。確かに観ているのは楽しいさ。でもどんな映画も見続けていればいつかは必ず飽きてしまう。だから一回観たらお終いさ。次から次へと新しい物語が腐る程あるんだからね。一人の人間と一生繋がって行けるなんて有り得ない。精神的な繋がりなんて幻なんだよ。それより本能に従って劣情を分け合う方が余程健康的な考え方さ。意地を張らないでよく考えるんだね」
 川上は言うだけ言ってベッドから出るとバスローブを羽織った。ずっと睨み続ける聡に肩を竦めて見せると、「兎に角、僕は君を手放すつもりはないよ」と一言残してシャワーを浴びに浴室へ消えた。
 聡は急いで服を着込むと、笑いそうになる足を引きずって逃げるように川上のマンションを出た。幸い、すぐにタクシーを拾えたので、明け方近くやっとの思いで自分の部屋へ辿り着いた。
 聡は服を脱ぐことも出来ず、そのままベッドへ倒れ込んで意識を手放した。それでも翌朝八時には目を覚まし、何とか銀行へ電話を入れると体調不良を伝えて休みを取った。就職してから初めての狡休みだっが、そんな事はどうでも良かった。聡はそのまま目を閉じると、泥のように眠り続けた。

 聡が目を覚ますと部屋の中は暗く、明け方なのか夕方なのかも分からない状態だった。慌ててベッドサイドの時計は見ると午後六時を指していた。空腹を感じて重い体を起こすと、聡は自分の神経の図太さに可笑しくなって笑い出した。
 昨夜は酒ばかり飲んで碌に食事を取らなかったのだし、今まで寝続けたのだから空腹なのは当たり前だが、どんなに精神的に疲弊していても、聡の自律神経は生きる事に前向きで、人一倍逞しかった。
 修二と別れた時もそうだった。失ったら生きていけないと思う程の恐怖を味わったのに、実際は死ぬ事もなければ狂う事もない。そうして七年間生きてこられた。今また彼を諦めた所で、図太い自分はそのまま生き続けるだろう。“ 一番大切なもの ” など無くても人は生きていける。多分、川上のように。
 聡は皺だらけになったワイシャツとズボンを脱ぎ捨てながら浴室へ向かった。
 熱いお湯を浴びて全身を強く擦る。そうしないと穢れが落ちない気がして仕方がなかった。川上の呪縛のような台詞に、身も心も侵されそうで怖かった。聡は雫を撒き散らしながら激しく頭を振った。
 人は一人でも生きていける ――でも、そんな生き方は寂し過ぎる。
『恋愛は映画を観るようなもの…どんな映画も見続けていればいつかは必ず飽きる』――そんな筈は無い。
 それは、あんたが、他人と真正面から向き合わないからだ。人は、昨日と同じような今日を生きながら、それでも少しずつ変化し、成長していく。生きた人間には、映画には描かれない過去と、そして見えない未来が必ず待っているのだから。
 そう思いながらも、川上を非難出来ないと、聡は唇を噛みしめた。
 修二を傷つけた原因が、それなのだ。彼と真正面から向き合わずに逃げたから。そして、今も向き合う勇気が持てない自分が、どうしてあの男を否定出来るだろう?
 こんな時、相談出来る人間が周りに一人もいない事も、自分が川上と同質の人間なのだと痛感する。仕事の話をしたり、無駄口をきく相手は沢山いる。同僚の坂田も、後輩の田中も親しい人間には違いない。けれど、ゲイである事を隠し続けている以上、全てを曝け出す関係など誰とも築くことは出来なかった。それは肉体関係があっても然りで、聡にとって内面を語れる相手こそが、そのまま恋愛の対象者であり、愛する人―― 修二以外にいなかった ――のだから。そこまで考えて、聡ははっと我に返った。
 いる…。一人だけ、恋愛感情抜きで、内面を吐露出来る相手が…。
 聡は浴室を飛び出すと、バスタオルを引っ掛けただけで寝室へ駆け込んだ。時計を見ると七地半を回った所だった。
 今日は水曜日だ。大丈夫、彼はちょうど今頃、仕事に出た所だ。
 聡はそう独り言ちると、慌てて身支度を整え、夜の街へ飛び出して行った。

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