INDEX NOVEL

【 プロローグ 】 あの頃のまま

 久しぶりに繁華街へ出た。出版社で打ち合わせをして出てくると、空は茜色に染まっていた。腕時計を見ると五時を回ったところだ。随分日が延びたと思う。昼の温かさを残す風に誘われて、少し歩いてみる気になった。杖をついて歩くようになってからは、こうして外へ打ち合わせに出てもすぐにタクシーを拾っていたが、たまには歩くのも良いだろう。仕事の資料も集めなければならないし、ここからなら紀伊国屋もそう遠くはない。そんな気まぐれの先に、思いも寄らない再会が待っているとは夢にも思わなかったが。
 人生の憑きに見放されてもう何年になるか。誰だって、自分に不幸が起きるなんて思わないだろう? 怪我や病気の話を聞いても遠い誰かの事であって、自分の身に起こることだとは思わない。その傲慢さが祟ったのか、仕事も身内も足の自由も失った。もうこれ以上、何が起きても驚かないと思っていたけれど、やっぱり人生は予測不能な事ばかりだ。

「済みません!」
 ぶつかった弾みで平積みの本を道連れに地面にしたたか叩きつけられた。謝りはしたものの、ぶつかった主は走り去ってしまい、投げ出された本と無様に転んだ自分だけが残された。夕刻の割合と混む時間帯。狭い店内で他の客は迷惑そうに遠巻きに見ているだけだ。ため息をつきながら、まず本を拾う。立ち上がった後だとしゃがんで本を拾うことが出来ないからだ。一冊ずつ拾っていると視界の隅に本を拾う手が見えた。筋張った白い男の手。スッとこちらに差し出された本とその手を辿りながら視線を上げると端正な男の顔があった。
「修二…だよね…」
 男の口から自分の名前が呟かれたことに茫然とする。
「修二だろう? …覚えてない? 聡だよ。望月聡」
 尚も畳みかけるように問うてくる男の顔を声もなく見詰めた。サトシ、サトシ、サトシ…忘れるはずもない。大学時代、恋人だった男。でも、脳裏に残る面影と眼前の男が重ならない。今、不安そうに見詰めているのは、端正な思慮深い瞳をした知らない男の顔だった。
「お客様、お怪我はありませんか? こちらは当方で片付けますので…」
 店員の声で我に返る。聡にぎこちなく微笑みかけて杖を指さした。
「覚えているよ。済まないけど、杖、取ってくれる?」
 聡は弾かれたように指先で示した先の杖を拾うと俺の側へ歩み寄った。店員と聡に支えられて立ち上がる。礼と謝罪をして本の側を離れると壁に凭れて息をついた。その間、聡は少し後ろで心配そうに俺を見詰めていた。
 俺は頭が混乱していた。よりにもよってどうして聡に…。逃げ出したい衝動とそれが出来ない苛立ちに苛まれた。“偶然の悪戯”などと言うけれど、この偶然の采配を振るうのが神だとしたら、俺はよほど嫌われているのだろう。恨めしさに胸が焼けるようだった。だが不意に、今更取り繕ってどうなるのかと、急に開き直った気持ちになった。そうだ、今更俺に何がある。そう思ったら妙な強張りが解けて自然と笑うことができた。
「ありがとう、久しぶりだね…。何年振りだろう…」
「七年だよ。…本当に…会えるなんて…。その、もし、この後予定がなければ、その…、食事でもどうだろう?」
 七年だと、即答されたことに驚く。ずっと忘れずにいたけれど、歳月までは覚えていなかった。懐かしげに細めた目で遠慮がちに言い募る表情を、不思議な心持ちで眺めた。声も瞳も顔のつくりも、こうしてよく見れば確かに聡だと思う。なのに、初めて会った人のように感じる違和感はどこからくるのか。それが七年という歳月がもたらしたものなのか。何も答えずに唯じっと見詰める俺に戸惑ったのか、聡は窺うような視線を向けてもう一度俺の名を呼んだ。
「…時間ならあるよ。ただ、あまり動けないから、この辺で良ければ」
 自分の声をどこか遠くに感じながらやっとやっと返事をする。無意識に左足をさすると、聡は釣られたように左足に目を落とした。少し眉根を寄せて悲しげな顔をしたが、すぐに視線を戻すと「近くに馴染みの店があるから」と言って微笑んだ。

 聡が案内した店は歌舞伎町にあるとは思えないほど洗練されたバーだった。マホガニーをふんだんに使った内装は美しく、ほどよく落とされた照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ジャズが静かに流れる店内にはまだ時間が早いせいか、二組のカップルしかいなかった。ソムリエ姿の店員が荷物を預かってくれる。そのままゆったりと設えたテーブル席に案内しようとしたが、聡は断りを入れると勝手知ったる足どりでカウンターへと歩いて行った。
「テーブル席でもいいけど、僕はこっちの方が落ち着くんだ。差し障りがなければ、ここでも良いかな」
 そう言ってカウンターの隅の席を指さした。
 頷いて後に続く。バーテンダーがおしぼりと水を差し出しながら「いらっしゃいませ」と微笑む。馴染みの客に向ける笑顔に応えてバーボンのボトルと摘みを注文する聡の横顔を眺めながら、夢でも見ている気になった。学生時代は居酒屋に入るのが精々で、まさかこんな洒落た店で飲む日がこようとは…。
 ここには会社の同僚とでも来るのだろうか? そう言えば、スーツ姿も初めて見る。仕立ての良い濃紺のスーツ、趣味の良いネクタイ、ロンジンの腕時計。聞かなくても彼の収入や地位の高さを窺い知ることができる。俺は新聞記者時代でも吊しのスーツしか着なかった。たまに作家先生に連れられて文壇バーなどにも行ったが、ここと比べればどこか垢抜けない店だった。まして同僚と行くのは赤提灯。雲泥の差だとため息が出た。
「ここには、会社の人とくるのか?」
 店内を見回して呟くと
「そう、たまにね。でも、独りでくることの方が多いかな」
 そう言って微笑んだ。
 大学を出てから銀行に就職したことは知っていた。俺は念願の新聞社に入社できたものの、京都支社に配属になってからは東京とは無縁な生活を送っていた。たまに大学時代の親友が連絡をくれたけれど、聡との接点は何もなかった。
「二度、銀行同士の合併があったから、就職した銀行本体は無くなったんだけど、派閥争いを掻い潜ってなんとかやってこれたよ。今年の四月から、ここの四谷支店に支店長代理として配属になったんだ。今日はたまたま、得意先から直帰になってね。時間があったからあの本屋へ寄ったんだけど…。本当に、すごい偶然だね…また、会えるなんて…」
 感慨深げに頷く横顔。それは仕事に対する自信と誇りに満ちた、俺の知らない男の顔だった。
「そんなに、変わったかな?」
「えっ?」
「さっきから、驚いた顔で見ているから。まあ、自分でも縦横に大きくなったと気にしてはいるんだけど…」
 そう言って、綺麗に撫でつけた髪に手を入れて恥ずかしそうに笑った。
 ああ、そうか。ずっと感じていた違和感。目線が俺より高いのだ。
「もしかして、身長伸びた?」
「うん。大学出てから少しだけどね。就職してからは生活も不規則だし接待なんかもあって、つい食べるから体重も増えたし。これでも週末にはジムで泳いだりしているんだけど。やっぱり中年太りなのかな」
「いや、そんな事ないよ。ちょうど良いくらいだ。あんまり立派になって見違えたから、はじめは分からなかった…」
 本当に、分からなかった。俺が知っている望月聡は、俺よりも少し背の低い華奢な身体をした物静かな男だった。初めて会ったのは高校三年生の選択クラスでだった。受験科目別にとる授業だから、その時間にしか会う機会はなく、周りにいる友人も当人同士の雰囲気も相容れない感じで、卒業するまで口をきくこともないと思っていた。それが、夏休みに神田の古本屋でアルバイトをしていた俺と、予備校の夏期講習へきていた聡とばったり出会ったのも、今日みたいな偶然の巡り合わせだった。

 客から仕入れた本をジャンル別に棚に並べていると、後ろから声を掛けられた。驚いて振り向くと、更に驚いた顔をした聡が立っていた。
「何しているの?」
 それが、間近で初めて聞いた聡の声だった。
「バイト」
「この時期に? すごい、余裕だね…」
 心底驚いたような呆れた声音にムッとして「推薦を取るつもりだから」と言い返すと、聡はちょっと複雑な表情を見せてため息をついた。
「そうか…。長瀬って、意外と成績が良いんだよね…」
 ちょっと情けない羨望の篭もった瞳に見詰められ狼狽えた。俺の成績を聡が知っていることにも驚いたが、一度も話したことのない彼と親しげに口をきいていることに、気恥ずかしさを感じて鼓動が速まった。そんな自分の内心を誤魔化すように「“意外と”、は余計なんじゃねーの」と、わざと仏頂面で呟いた。
 何がおかしかったのか、そんな俺の反応に聡は笑いだし、俺も釣られて笑いだした。
 それから毎日、昼飯の時間を共に過ごすようになった。本のこと、勉強のこと、趣味のこと。共通点がないと思っていた俺たちは思いのほか馬が合って、夏休みが終わるころには聡の悩みを相談されるほど信頼される仲になった。
 聡の家は代々医者の家系で、父親も年の離れた兄も医者で優秀なこと。ずっと比べられて萎縮していたこと。今は逆に何の期待もされなくなったが、肩身が狭い思いをしていること。不出来なことはともかく、女が好きではないこと…。
 俺のどこに惹かれ、信頼して、そこまで打ち明けてくれたのか今も分からない。まともに返事が返せた覚えもない。ただ、真面目に相づちを打ちながら話を聴いてやっていただけだ。ただ一度、 『期待されてないなら、自分の生きたように生きればいい』と言ったことはあるが。
 学校が始まってからも二人で過ごすようになった。聡はいつも絶対の信頼を預けた、縋るような瞳で俺を見ていた。その中にどんな気持ちが含まれていたか薄々気づいていたし、その時は、好意を向けられることが単純に嬉しく、俺は聡が、庇護すべき慈しむ相手なのだと自然と受け入れていた。だから同じ大学へ進学して、好きだと告白された時も、自分自身に特別ゲイの自覚もないまま、当然の成行きでつき合いはじめた。

「僕は、すぐに分かったよ。修二は少しも変わらないね。あの頃のままだ…」
 変わらない? そんなはずはない! 同じなわけがない! 俺の中に急にどす黒い怒りが生じて息を呑んだ。震えすら感じて聡を見ると、真剣な眼差しとぶつかった。堪らず視線を外して俯く。バーボンのオンザロックが目に入った。琥珀色の液体が不思議と怒りを和らげて、俺は小さく息を吐いた。
「そうかな? みんなに驚かれるよ。髪、真っ白だからジジイみたいだろ。染めろ染めろって、外野がうるさいんだけど、面倒くさくてさ」
「外野って?」
「大学の時、ゼミで一緒だった田辺と、後輩の吉田。今、吉田の世話になってるから頭が上がらないんだ」
 世話になるという言葉に、怪訝そうな目を向けられる。黙っていようかと思ったが、“変わらない”と言われた事で自虐心に火がついた。頭の隅に男としての矜持が残っていたけれど、口からあふれ出す言葉を止めることができなかった。
「京都で新聞記者をしていたけど、事件を起こしてクビになった。 その時に、足も駄目になって自棄になっていたのを吉田に諭された。 リハビリ頑張って、ようやく歩けるようになって。 身内にも見放されて行く所のなかった俺を、こっちに呼んでくれたのも吉田と田辺なんだ。 もう書くことしか残っていない俺に、編集やっている吉田が仕事を回してくれてね。 今はコピーを書いたり、ライターやったりしながらなんとか食べてる。 本当に、あの二人には足を向けて寝られないよ」
 そうなんだと、驚いた顔をした聡にますます煽られる。瘡蓋をむいて見せるように俺は喋り続けた。
「変わらないと言ったら、確かに変わらないよ。本当は高校の頃から白髪、多かったんだ。 恥ずかしくてずいぶん早くから髪を染めて誤魔化してた。 生まれた時から色素が薄くて目の色も薄いから、染めてもせいぜい栗色が限界で。 勘違いした崩れた奴らに連まれていたけど、本当の理由なんて言えなかったからそのまんまにしていた。 もともと身体も丈夫な方じゃなくて、小学校に上がるまで祖母さんに女の格好させられて育てられて。 反動で男らしさに憧れて、身体、鍛えまくったよ。なのにちっとも筋肉付かなくて。 やっと見られる身体になれたと思ったのが、大学くらいか…。 知らなかっただろう。当然だ、ずっと隠していたから。ずっと格好つけていた。 お前の信頼に応えられる、余裕のある大人の男でいたかった。そう見せたかった。 本当はいつだって一杯いっぱいだったのに…。 だから、望月が見ていたのは、俺が必死で築き上げた虚構の“長瀬修二”なんだよ。 この貧弱で、うらぶれた、人の世話になってやっと生きてる、白髪の男が本当の俺なんだ。 俺が昔と“変わらない”なら、お前は俺の化けの皮にとっくに気が付いていたんだな」
「違う! そうじゃなくて、僕が言いたいのは―」
「だから、仕方ないと思った。お前が去って行っても。俺には止められなかった」
 俺の自虐的な告白を止めさせようと、聡は俺の手を掴んで叫んだが俺は喋るのを止めなかった。店中の視線を感じたが気にもならなかった。俺の言葉に息を呑んで固まった聡は握った手に力を込めたが、じっと俺を見詰めたまま動かなかった。

 大学三年の秋、どうしても繋がり合いたいと迫られた。
 勿論つき合いはじめてから、抱き合って互いの雄蘂に触れ合い、隅からすみまで愛撫し合う関係ではあったけれど、もともとはノーマルで性的に淡泊だった俺は、それ以上の行為を知りうる筈も求めるつもりもなかった。聡から求めてくることも滅多になかったから、彼の中で、肉体的不満が溜まっていたことなど思いもしなかった。
 今、こうして恰幅の良い姿を見てみれば、あの頃はまだ成長途上であり、性欲も強い方だったのかもしれない。この年になれば、あの頃セックスだと思ってしていた行為は、自慰の延長線上に過ぎない稚拙な睦み合いだったと分かる。満足などしようという方が無理だったろう。
 遠慮があったのか、向こうから求めてこないのを良いことに、逃げていたのは否定しない。聡を好きだったし、愛していたと今も自信を持って言えるけれど、ほんの数年前まで女とつき合っていた自分には、未だにゲイの自覚がない。最後の一線を越えてしまう躊躇いが無かったと言えば嘘になるだろう。それを感じていたから、聡はいつも不安そうな瞳を向けて俺を見ていたかのかもしれない。
 切羽詰まった顔で押し倒されて、挿れて欲しいと哀願された。抗えず行為に及んだものの、経験値の低い俺には到底越えられない壁で、挿入はおろか終いには勃たなくなった。気まずいまま迎えた朝のことは、未だに忘れられない。
 その一ヵ月後、「別れたい」と言われた時には、頷くことしかできなかった。
 裏切られた、という思いはなくはない。精神の繋がりよりも肉体が勝るのかという情けなさも感じたが、自分から求めることができない聡が、どれほどの決意で『繋がりたい』と言ったのかと思いやれば、済まない気持ちが先に立った。まして、“精神の繋がり”と言えるほど、彼に自分の内面を曝していたかと言えば、それも否としか答えられない。引き留めることなどできる筈がなかった。

 沈黙した二人に、他の客も店員も興味を無くしてまた何事もなく空気が動きだした。聡は俺の手を離すとゆっくり息を吐き出しながら呟いた。
「ずっと謝りたいと思っていた。いつか会えたら、酷いことをして済まなかったと、伝えたいと思っていた」
 辛そうに顔を歪めながら聡は呟いた。
 永年溜まっていた毒を吐き散らしたせいか、俺の中には怒りも加虐心も無くなっていた。替わりに胸が軋んだ。そんな顔をさせたい訳じゃなかった。でも言ってしまえばこうなることも分かっていた。そうだよ。俺はこんなに醜い、小さい男なんだ。お前が謝る価値もない。
「謝る必要なんかない。俺はずっと望月を欺いてきたし、お前の気持ちに応えることが最後までできなかったから。謝るのは俺の方なんだ。お前の選択は間違っていなかったと思うよ…」
 伏し目がちに俯いた聡の顔をみてつくづくと思う。そうだ。別れて正解だったのだ。
「望月は、立派になったよ。昔の面影なんか少しもない。それは悪い事じゃなくて、本当にこの七年間、いい人生を歩んできたんだと思う。俺とあのまま過ごしていたら、きっと今の望月はいないと思う。だから良かったんだよ。俺も、ずっと気になっていたんだ、お前のこと。でも、これで忘れられる…」
「えっ?」
 弾かれたように俺の顔を見た聡の瞳が揺れている。そんな目をすると少しだけあの頃の面影が蘇る。いつも何かに苛まれて縋るようなに見詰めていた不安気な瞳。そんな脆い部分も、全て含めて愛していたつもりだけれど、結局、相手の望むものを与えてやれなかったのだから、そんな愛には意味がないのかもしれない。
 不安に揺れる、俺が庇護すべき儚い存在は、もうどこにもいない。今、目の前にいるのは、自分の力で人並み以上の生活をしっかり営む大人の男だ。
 俺が必死につくりだした“長瀬修二”という男が、幻のように消えてしまったのと同じように、俺が好きだった“望月聡”という男も一緒に消えてしまったのだと思った。でも、もうこれで、その幻に胸を締め付けられることもない。
「今日、望月に…、聡に会えて本当に良かった…」
 俺は心底そう思った。自然と笑みが零れる。薄くなってしまったバーボンを飲みながら、穏やかに酔いが回っていくのを感じた。気持ちが良かった。
 聡はもの問いたげな顔をして何度か見詰めてきたけれど、そのうちに顔を伏せてしまった。暫く押し黙ったまま手の中のグラスを弄んでいたが、小さくため息をつくと意を決したような顔をしてこちらを見た。その不思議な顔つきに思わず目を奪われる。そのまま互いに見詰め合った。
 「僕も、修二に会えて本当に良かったよ。再会を祝して…」
 聡はそう言って自分のグラスを持ち上げると、俺のグラスに合わせた。チンと、透き徹ったグラスの音がいつまでも俺の心に響いていた。

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