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Sentimental Day 〈 後 編 〉

※『恋心』の頃より前の聡と修二の年末年始の出来事。出来るだけ本編を読んでからお読みください。

 西の上空に茜色の陽の名残を残したまま、夜の帳が寒さを連れて広がりはじめていた。この時間が一番寒さを感じるようで、聡はコートの衿を立てて足早に待ち合わせの場所へ向かった。
 約束の時間より遙かに早く着いてしまい、先ほどまで駅前のカフェテリアで暖を取っていたが、分煙とは名ばかりの紫雲渦巻く淀んだ空気に我慢ができず席を立った。
 元日の日中は風もなく穏やかに晴れて暖かく、絶好の初詣日和だった。不景気とはいうものの人出は例年と変わらぬようで、夕刻の今になっても参拝の人波は減ったように見えなかった。どこもかしこも人だらけで、夫婦坂の階段を上る行列をうんざりと横目に見ながら、神社の塀伝いに入り口へと伸びる緩やかな坂道へ向かった。
 あまり道幅の広くない坂道を下から眺めると、すぐに見知ったオリーブ色のバーバリーのコートが目に入った。道の端を人の波を除けるように杖をつきながらゆっくりと登る足どりは重く、かなり疲れた様子だった。聡は我知らず駆け出していた。
「修二、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 少し前屈みになった修二の背中にそっと手を添えて顔を覗き込み、弾んだ息のままできるだけ明るく声をかけた。心がけずとも修二の姿を見ただけで自然と気持ちが高揚するのだが。
 修二は驚いたように顔を上げて聡の顔を見つめた後、見る間に瞳を潤ませて震える唇でおめでとうと答えた。思いもかけない反応に聡は慌ててどうしたのかと問いかけた。
「ん…何でもない。ちょっと疲れただけ」
 修二は照れくさそうに鼻を押さえて微笑むと「手を貸して…」と聡の腕に自分の腕を絡めた。聡は驚いて目を見張ったが、修二が何事もなかったように前を向いて歩き出したので、黙ってそれに従った。休日の夕暮れ時に人の少なくなった公園を、こうして腕を組みながら散歩する事はあっても、これ程人の多い場所で密着して歩くのは初めてだった。
 普段は修二の方が人の目を気にしているのに、聡の方が思わず辺りを見回していた。奇異な目で見られはしないかと危惧した他人の反応はそれ程でもなく、一瞬怪訝そうな顔をしてすれ違う人も、修二の杖を見ると合点がいった顔で通り過ぎて行った。何より初詣の人並みは他人を気にしている余裕もないほどの混み具合で、連れ立った人々は牛歩しながらお喋りに夢中だった。
 二人は一旦神社の入り口まで来て、お茶の水方面に伸びた長い参拝者の行列に加わった。その間もずっと修二は聡に寄り添っていた。何時になく甘えた態度の修二に最初は戸惑ったものの、慣れてくるとそっと細い腰に腕を回し更に身体を密着させた。修二は一瞬固くなったが、されるがままに任せた。
 田辺の家で一体何があったのかと訝しく思ったが、前を向いて口を閉ざした修二の態度は、それ以上踏み込ませない雰囲気を持っていた。二人で暮らし始めて半年が過ぎたが、ふとした折りにこうした隔たりを感じる。聡は高校生の頃から感じる修二の “ 殻 ” を未だ壊せずにいた。
 修二の殻を無理矢理こじ開けて対峙できるのは田辺くらいのもので、中野のマンションに越してからというもの、年末のような遣り取りを幾度となく目にするようになった。遠慮会釈のない、恐らく親しく年を重ねたからこそできる言い争いを目にする度、ハラハラしながら見守るだけの自分が歯痒く、田辺に対する嫉妬は増すばかりだった。
 自分はあそこまで修二の中に踏み込めない。他人だからと言えばそれまでだか、どうしても遠慮があった。修二を奪って来た日に心得違いを諫めはしたが、それ以来一度もぶつかり合った事はない。別に喧嘩をしたい訳ではない。ただ、田辺に対して剥き出しにする感情を自分にも見せて欲しい、本気でぶつかって来て欲しいと思うのだ。
 復縁してからの修二は、隠していた内面を少しずつ見せてくれるようになった。でも、まだまだ足りない。自分に見せている修二の顔は綺麗すぎる。再会した日のようにもっと身の内の “ 毒 ” を、 “ 恥(ち)” の部分を出して欲しかった。
『全てを欲しがるな』と田辺は言ったが、それは忠告と言うよりも警告に近かった。全てを知っているからこその発言は、聡を煽ったに過ぎなかった。
 聡の中には修二が隠せば隠すほど、柔肌のように傷つきやいその感情を余さず眺め触れ揉みたいという、一種野蛮な情動が育っていて、ややもすると閨房での行為にそれが現れているのを自覚していた。それは今までに感じたことのない衝動で、時々自分でも怖くなる。
 重傷だな…と胸のうちで自嘲して、頭の中の妄想を払拭すると修二に笑いかけた。
「母親と大学の合格祈願に来た時は、夫婦坂の階段を登って入ったんだ。でもこっちが正面なんだね。知らなかった」
「お茶の水からは遠いから、こっちから来るのは神田明神を経由して来る人が殆どじゃないかな。電車で来る人は大抵夫婦坂から入るよね。あとは女坂か男坂から。子どもの合格祈願で来る人には、こちら側にはあまり見せたくないものがあるし」
 そう言って修二が目を向けた先はラブホテルだった。
「不思議な所だよね。普通の会社もあるし、民家もあるし、ラブホも…。あっ、サウナもある…」
「昔は花街だった所だから。芸者置屋なんかがあって、その名残かもね」
「へぇ、修二はこの辺りも詳しいの?」
「詳しい訳じゃないけど、神田、秋葉原、神保町、お茶の水は生活圏内だったから。お正月は神田明神に詣でて、そのまま湯島へ足を伸ばし、馴染みの天麩羅屋で食事をするのが新年の恒例行事だった」
「ああっ、天麩羅! 美味しそうだな。帰りそこへ寄って行こうか」
「残念ながら、もう随分前に店主が亡くなって閉めてしまったんだよ。お腹空いてるの?」
 やっぱりゆっくりできなかったのかと心配げに尋ねる修二に、聡は望月の家で起きている騒動について話すべきかどうか迷った。家族と距離を置いている修二に、身内の話をするのは躊躇われたが、黙っているのもどうかと思い、「実は逃げて来たんだ」と戯けた調子で口を開いた。
「うちの場合は、元旦は義兄さんとこで会食するのが恒例なんだけどね、今年はちょっと揉め事があってさ…。僕には姪が二人いるのは知っているよね。上の娘が大学生で今年二十一歳になるんだけど、つき合っている男がいるとかで、『入り婿は取らない』宣言をしたんだよ。跡取り娘だから既に見合いの話が来ていたらしいんだ。それが時代錯誤だって言ってね。でも、相手は同じ大学の大学院生で医学生じゃないし、義兄さん激怒しちゃってさ。じゃあ下の娘はどうかって言うと、これがまた今どきの子でさ、姉と一緒に『家は継がない』宣言してくれて、もう大騒動だよ。頭が良くて今年医学部を受験する予定だから、下が継いでくれれば全て丸く収まるんだけど、嫌だって言って聞く耳持たないし。おまけに母が『聡さんが女医さんを貰って継げばいい』とか、また馬鹿な事を言い出してさ。それは父が即時却下してくれたから良かったけど、巻き込まれるのは御免だから途中でさっさと逃げて来た」
 お陰でお節料理は摘んだだけだと笑う聡に、修二は複雑な表情(かお)で「大変だね」と相槌を返しただけだった。
 修二にしても自分にしても独立しているとは言え、親や兄弟を無視して生きて行ける筈はない。対岸の火事とはいかないだろう厄介事に胸のざわつきを覚えたが、敢えて気づかない振りをした。
「まあ、義兄さんたちの問題だから傍観するしかないよ」と笑いながら、さり気なく話題を変えて田辺の家の様子を聞いたりしているうちに参拝の順番が回って来た。聡は柏手を打つと、『どうぞお互い健やかに、この幸せがいつまでも続きますように』と胸の中で願を掛けた。
 境内を出るとまだ六時を過ぎた頃だったが、辺りはすっかり薄暗闇に包まれていた。お茶の水方面から帰えろうと長い坂道を下っている途中で聡は急に空腹を感じた。どこかで食事をして帰ろうと口を開きかけた時、足元をスルッと黒い物体が横切った。驚いて目を凝らすと黒猫だった。ちりちりと軽やかに鈴の音を響かせながら、走るとも歩くともつかぬ速さで左手の細い横道へ入って行く。
「あの猫…」
 修二が訝しげな声を出した。声に反応した猫はピタリと立ち止まり、振り向いてじっと聡たちを見つめた。金色の目だけが闇に消え入りそうな身体の中で精彩を放っていた。何故か引きつけられて猫の様子を眺めていると、猫はまた前を向いて尻尾を高く揺らしながら歩き始めたが、数歩歩くと振り返り、数歩歩くと振り返るという誘うような足どりで、紅い椿の木がある一軒の割烹旅館の塀の中へ姿を消した。
「これはまた…、随分情緒のある旅館だね。割烹旅館って出てるけど、食事だけでもできるのかな?」
 聡は感嘆した声を上げた。柿渋が塗られた黒い木の塀に囲まれた旅館は、昭和の面影を色濃く残した二階建ての日本家屋だった。塀に取り付けられた行燈が煌々と輝き、屋号らしい『割烹旅館 柏屋』の文字が浮かび上がっている。両脇に松飾りを置いた格子戸は開け放たれていて、営業している事を伝えていた。
「入ってみようか」
 聡の提案に修二はじっとその建物を眺めているだけで返事をしなかったが、興味をそそられた聡は修二の腰に添えた手に力を込めて促すと旅館の方へ歩き出した。修二は促されるまま黙って聡につき従った。
 格子戸を潜ると玄関まではすぐだった。塀に沿うように外からも見えた椿の木が三本等間隔に植えられていて、紅い可憐な花をぽつぽつと暗闇に浮かび上がらせていた。どこへ行ってしまったのか、猫の姿はもう何処にも見えなかった。
 磨りガラスの引き戸を開けて中に入ると、金箔に赤椿と黒猫が佇む大きな衝立が目に飛び込んで来た。奥座敷から賑やかな酒宴の声が聞こえていて、かなり混んでいる事が窺われるが、黒光りする土間の玄関には不思議と一足の靴も並んでいなかった。
「ごめんください」
 聡が声を張り上げると、暫くして奥から若草色の色小紋を来た艶やかな年増女が現れた。女は玄関先で膝をつくと三つ指ついて、いらっしゃいませと微笑んだ。
「済みません、食事だけしたいのですが、頼めますか」
「勿論でございます。ただ、生憎と本日は一階が満室でして、お二階で宜しければご用意できますが…」
 そう言うと女は申し訳なさげに目を細めて修二を見たが、すぐにあっと声を上げて目を見開いた。
「まあ、お客様! お顔の色がお悪うございますよ。大丈夫ですか?」
 女の言葉に聡が慌てて修二を見ると確かに青ざめた顔をしていた。
「二階でも何でも結構ですから、案内してください」
 聡は女に向かって声をかけると修二を横抱きに抱え上げた。修二は我に返って下ろしてくれと抵抗したが、聡はきっと睨みつけると諭すように言った。
「修二、本当に顔色が悪いよ。それに、悪いけど僕もお腹空いて気持ち悪いんだよね。二階しか空いてないみたいだから、このまま上がるよ。暴れないでね」
 修二は仕方がないといった様子でため息をつき、聡の肩に腕を回して大人しくなった。聡は女に導かれて玄関を上がると、衝立のすぐ裏にある急な階段を慎重に上った。階段を登りきっても聡は修二を下ろさずにそのまま案内された座敷へ入った。女が修二の靴を脱がせ下がって行くと、漸く修二の身体を座布団の上に下ろした。
 座敷は古びた砂壁の八畳間で、真ん中に黒く大きな座卓があった。床の間には書の掛け軸がかかり、千両と松など正月の花が生けられている。反対側に襖で仕切られた部屋が続いていたが、閉まっているので向こうの様子は分からない。雲海と松を施した欄間の向こう側から零れる紅い光に、こちらと違う艶めかしい雰囲気があった。
 修二は借りてきた猫のように、その場でじっとしたまま部屋の中を見回していたが、一通り観察し終わると「そんな筈ないよね…」と独りごちて漸く緊張を解いたように小さく笑った。
「どうかしたの? 疲れた?」
 常とは違う修二の様子が気になった。
「うん…、ちょっと酔ったのかも。勘違いしたんだ…。ここに昔――」
「失礼いたします」と女の声がして、話を切られた修二はそのまま口を噤んだ。女はお茶とお絞りを出すと、元旦の献立は天麩羅のみなのだと詫びを入れた。ご飯か蕎麦が選べると言うので二人とも蕎麦を選び、聡は熱燗を一合注文した。
「まだ、お顔の色がすぐれませんねぇ。お布団を敷きましょうか?」
 女は修二の顔を見て気遣わしげに言った。修二は固辞したが、聡が制して用意してくれるよう頼んだ。大丈夫だととむくれる修二に、正月休みなのだからゆっくりして行こうよと微笑んだ。
 いくらも待たずに出された天麩羅は殊の外美味しかった。それほど胡麻臭くなく、さっくりと軽く揚がっていた。車海老の他に鱚や穴子、野菜や参舞茸など数も多く、食べきれないと修二は文句をこぼした。蕎麦は『田屋』と同じ二八蕎麦で、負けず劣らず腰があってのど越しがよかった。
 二人が食べ終えた頃、女がそば湯とお茶のおかわりを持って現れた。お隣にお布団の用意ができていますからと、女が締め切っていた襖を開けると二人は驚いて息を呑んだ。
 壁一面が緋色の砂壁で、筒型の行燈に照らされた薄暗い室内は、まるでテレビの時代劇に出てくる遊郭の洞房(どうぼう)を呈していた。
「あの…こちらは割烹旅館ですよね…」
 連れ込み宿の類とは思われなかったが、聡は思わず尋ねていた。女は意図を察すると笑いながら顔の前で手を振った。
「勿論、普通の旅館でございますよ。ただ、休憩のご利用もできますから、そう言った目的で来られる方もいらっしゃいますねぇ。先代の女将がここを買い取る前は確かにそう言った宿でしたし。他の部屋は普通の砂壁に塗り替えたのですが、ここの弁殻色は味があると旦那様がおっしゃいましてね。この一間だけ、昔のままなんでございますよ。昼の光で見るともっと薄い綺麗な色なんですが、行燈の灯りですと不思議と緋色に見えますの」
 その気にさせる色なんでございましょうかねぇと、女は口元を押さえて笑った。何とも妖艶な笑いだった。若い女には到底持ち合わせない色香で、聡は怖いものをから目が逸らせなくなるのと同じ理由でまじまじと女を眺めた。
 真ん中で分けた不自然なほど黒い髪を襟足近くで丸く結って後れ毛ひとつ出ていない。任侠映画に出てくる女優を彷彿とさせる女は、笑いを納めるとじっと修二を見つめていた。
 聡はその不自然な視線を追って二人の顔を交互に眺めた。青い顔をして女と見つめ合っていた修二は、ゴクッと生唾を呑み込むと徐に口を開いた。
「あ、貴方は、祖父の…」
「いいえ、修二さん。私は女将の姪でございますよ。挨拶が遅れまして申し訳ございません。お初にお目にかかります。女将の環(たまき)と申します」
 修二は驚いて、どうして自分を知っているのか尋ねた。
「先代の女将と旦那様から、いつも修二さんのお話を窺っていましたし、旦那様に連れられてここへいらした時、私もお見かけいたしましたのよ」
 尤も十七年も前のお話ですがと、女将は懐かしそうに目を細めた。修二が少しほっとしたように表情を緩めると、先代の女将さんはお元気ですかと聞いた。
「女将は十年前に亡くなりました。ずっと貴方に会いたがっておりましたから、今日は天神様の思し召してございましょう」
 女将はにっこり微笑むと、恐らく社がある方角へと身体を向け手を合わせた。言葉もなく見つめる二人に向かい、
「二階には他のお客様はいらっしゃいませんから、どうぞ、ごゆっくりなさって行ってくださいませ。ご用の際はそちらの電話機をお使いくださいませ」
 そう言って頭を下げると静かに座敷を下がって行った。
 襖が閉まるのを待ちかねたように、聡はどういうことかと躙り寄った。修二はふーっと長く息を吐いた後、苦笑を浮かべながら説明した。
「まさかと思ったけど、やっぱりここは祖父の家だったんだ。さっき言いかけたのはその事だよ。祖父には三度だけ会った事があるけど、お妾さんだった先代の女将には一度しか会った事がない。でも、よく覚えてる。ソックリだよ、あの人。確かに十七年も前の事だから他の記憶は曖昧で、この家が何処に在ったかも覚えていなかった。だけど、あの人の顔を見たら一気に蘇って震えが来た。寒気がしたよ…」
 ああ、それであんなに顔色が悪かったのかと聡は納得したが、今も修二の顔色はすぐれない。座卓の上のガラスの灰皿に目を落としたまま、修二は憑かれたように昔の記憶を語り始めた。

 俺が七つになって祖母の側を離れ、最初に迎えた正月だった。祖父の憲一郎が俺と兄に会いたいと言ってきた。自分ももう年だから、孫に当たる俺たちに会いたいと言われれば、祖母も嫌とは言えなかったようだ。父も母も血の繋がりがあるのは祖父の方だから、会うのは構わないと了承を得て、俺と兄は正月毎に祖父と会うようになった。但し、祖父の家ではなく必ず外で会う事。兄と二人一緒でなければ会わせない事。これが祖母の出した条件だった。
 初めて会った祖父は、痩せた穏和そうな老人だった。祖母は余計な事は言わない人だったけど、何か感情が抑えられない時があったんだろうね。たまに祖父の悪口を零していたから、余り良い印象は持っていなかった。会っても二人にお年玉をくれて、学校で何を習っているとか、何の遊びをしているとか、たわいない事を訊かれるくらいで、後は黙って食事をするだけだ。親しみも湧かず、肩の凝る我慢の時間としか思えなかった。
 三度目の正月に兄がインフルエンザで寝込んでしまい、その年は祖父と会わない筈だった。賢造の家は伯母の身内に不幸があって留守だったし、遊び相手のいない暇な時間を本屋で過ごそうと神田に向かって歩いていた。どこで、という確かな記憶がないが、黒い猫が足元をすり抜けて俺は慌ててその姿を目で追った。その先に、着流し姿の祖父が立っていた。新年の挨拶をして通り過ぎようとしたら、どこへ行くんだと聞かれ、本屋だと答えると、本屋より面白い所へ連れてってやると手を取られ、連れて来られたのがここだった。
 環と言ったあの女将と瓜二つの、艶やかな山吹色の着物を着た女性に迎えられて一階の奥座敷に通された。それが、先代の女将だった。祖父の長年の連添いで、実質、妻だった人だ。
 女将は酷く嬉しそうにして、お節料理だけじゃなく山のように料理を出してくれたよ。でも、何を食べたか覚えていない。料理を突きながら、興奮して話す女将の話を聞いていた。
「奥様が羨ましい。こんな可愛いお孫さんがいて。しかも手元で育てられたなんて…」
 羨ましいと繰り返しながら、ずっと俺に会いたいと思っていたと、何度もお願いしてやっと奥様のお許しが出て会えたのが嬉しいと言っていた。
 俺は首を傾げたよ。今日は偶然ここへ来たのであって、本当なら会わない筈だったのに。祖父は終始笑顔で、黙って酒を飲んでいた。ジュースを飲んでいた俺のコップが空になると、何か飲み物を持って来てやれと祖父が言い、慌てて女将が座敷を出た時だった。
「あれは、元気か?」
 “ あれ ” が祖母の事だとすぐに分かった。はい、と頷くと、今日のことは黙っていなさいと言われた。それから、もしよければ、たまにこちらに遊びに来るようにと。俺は即答できなかった。下を向いているとすぐに女将が帰って来て、俺の側に座るとまるで酌をするようにジュースをコップに注いでくれた。
「修二さん、とお呼びしてもいいかしら…」
 窺うように聞く女将に、祖父が「お前の孫でもあるんだから、修二でよい」と言った。いいの、と俺に聞く女将に黙って頷いて返した。何故か女将は涙ぐんでいた。
 それが、この家での最初で最後の思い出だ。次の年に、祖母からもう会わないように言い渡された。以来、一度も会わなかった。俺が中学三年の時に祖父は他界した。祖母が脳卒中で倒れた一年後だった。

 聡は祖母の下した突然の面会禁止の理由を訊いた。
「バレたんだな。祖父に一人で会ったのが。勿論、俺は喋らなかったよ。でも、誰か見ていた人がいたんだろう。祖父母の不仲は近所じゃ有名な話だから、誰かが告げ口したんだろう。祖父は何度か手紙をくれたよ。でも、俺は一度も返事を返さなかったし、会いにも行かなかった」
 修二の性格では考えられない冷たい仕打ちに、聡は納得がいかないものを感じた。
「お祖父さんの事、嫌いだったの?」と問いかけると、修二は首を横に振った。

 この家で会ってすぐ、田辺の家にいるみつ子お祖母ちゃんに祖父と女将の事を訊いた。困った顔をしていたけどちゃんと教えてくれたよ。祖父は若い頃、芸妓をしていた女に惚れて、何が何でも一緒になりたいと周囲を困らせたんだそうだ。一念を貫いて、ずっとその女と一緒にいるのだと言った。
「あの人に子どもができなかったから、家のためにと他にも妾を持ったけど、結局誰にも授からなかった。美弥子さんには悪い事をしたよ。だからうちの義治を望まれた時、反対する事ができなかった。長瀬の家を継いで良かったのか悪かったのか、今でも私には分からない…」
 俺の頭を撫でながらお祖母ちゃんはため息をついた。俺は十歳だったけど、すべて理解できた。老舗の跡取り息子が芸妓に惚れたのがそもそもの間違いだったんだけど、俺は祖父を責めたいとは思わなかった。子ども心に祖父にも哀れみを感じたよ。でも、祖母の寂しそうな後ろ姿を思う度、祖父には会えないと思った。何故って、祖父は自分の意志を貫いて好きな人と今も幸せに暮らしている。でも祖母は昔も今もたった独りだ。祖母が会うなと言うのならそうしようと心に決めた。
 その頃から、俺は賢造に勧められ小説擬きを書くようになっていた。もし、自分が今と違う境遇だったならどんな生活をしていただろうと。そんな独り遊びの延長のような妄想の産物だった。
 もし、父が養子にならず普通のサラリーマンで、俺が普通の男の子として育っていたら…とか、もし、父が田辺の家を継いで蕎麦屋をしていたら…とか、たくさんの “ if ” を想像したよ。この世に有り得ない、もしもの世界。くだらないと思ったよ。でも想像するのを止める事ができなかった。
 男として普通に育っていたら、母は無条件に愛してくれただろうか。祖母が田辺の伯父を養子に迎えていたら、幸せだったのではないだろうか。
 だって、祖母は女の子が欲しかったんだ。あそこには千賀子という綺麗な女の子と、あんなに愛した祖父によく似た賢造がいる。伯母は祖母と仲が良かった。優しい伯父と伯母なら祖母を大切にしただろう。あんな孤独な生活をしなくても済んだだろう。
 否、祖父に子どもがあったなら済んだ話だった。そうじゃなくても、伯母ときちんと別れてしまえば良かったんだ!
 どうして? どうして俺たちが……。

「修二! 修二、修二…」
 聡は修二の身体を引き寄せると肩と頭を抱えるように抱きしめた。声を震わせて澱のように溜まっていた鬱積を吐き出しながら、どうして、どうしてと繰り返す修二の額に唇を寄せて、落ち着かせるように愛しい名前を呼び続けた。暫くすると落ち着いたのか静かになった修二は、身体の力を抜いて聡の胸に凭れかかった。
「馬鹿だな俺は…。俺、おかしいんだ昨日から。普段は考えないようにしているけど、未だにこんな事を考える。考える事を止められない。今まで恥ずかしくて人に話すなど考えられなかった。話せば俺の恥部を曝す事になる。もしも…などと考えるのは、俺の細やかな現実逃避だった。でも、最終的に祖父母を恨めしく思って終わる袋小路で、女々しくて…とても…」
 恥ずかしいと聡の胸に顔を埋めた修二の頭を、聡は優しく撫でながら「僕は聞きたいよ」と囁いた。
「僕は修二の事、もっと知りたい。ねぇ、心の内を人に話すのは決して恥ずかしい事じゃないよ。話す事で楽になる事も、良い考えが浮かぶ事もあるだろう? 僕は修二の力になりたい。もっと、どんどん、心に溜まった思いを僕に聞かせて欲しい。僕に話すのが修二にとって苦痛になるなら無理にとは言わないけど。話してしまって嫌だった?」
 そう問いかけると、修二はゆっくりと顔を上げ首を横に振った。
「再会してから、少しずつ隠していた自分の姿を話しているけど、聡に話した後は不思議と心が軽くなる。ほっとするよ…」
 有り難うと囁いて目を閉じると修二はもう一度聡の胸に顔を埋めた。
「修二は疲れているんだよ。折角布団も用意して貰ったんだから暫く横になって、それから家へ帰ろう」
 聡はそう囁くと修二を立たせ肩を貸しながら布団の敷かれた緋色の部屋へ向かった。二人は布団の上に寝転がり、修二は天上を、聡は片肘ついて頭を支え修二の顔を眺めていた。殆ど瞬きしないまま天上を眺める修二の顔を見ていると不意にある事が気になった。
「さっきの話、ここでお祖父さんに会った事とか、田辺も知っているの?」
 修二は視線だけ動かして聡を見た。
「知らない。誰も知らないよ。祖母は別として、話したのは聡だけだ」
「何か、すごく嬉しいな。田辺に勝った気がする」
 自分でも馬鹿だなぁと思いながら、酷く嬉しくて仕方がなかった。修二は目を細めてクスリと笑った。
「ずっと、俺は “ もしも ” と “ どうして ” の繰り返しだったけど、人生も捨てたもんじゃないなって思える事があったよ。聡に会えた事…。再会できるなんて夢にも思わなかった。もしも…と想像する事もなかった。それが、こうして一緒に暮らしているなんて…」
 修二はゆっくり手を伸ばし聡の頬に触れ、夢じゃないよね、と囁いた。聡はその手を取って口づけると、夢じゃないよと微笑み返した。修二の指が聡の唇をなぞり、それが合図のように唇を求め合った。ここが何処であるか、頭の隅にしっかりと残っていたから啄むだけの口づけを交わす。
 行燈の光が緋色の壁に反射して修二の顔を紅く染めていた。その気にさせる色――女将の台詞が蘇る。ああ、確かに理性を奪う色だと思いながら必死で自制しようとした。聡の苦労を知ってか知らずか、唇が離れてしまうのを惜しむように修二が舌を伸ばして聡の唇を舐めた。
「我慢してるんだから、そんなに煽らないで」
 堪らず掠れた声で懇願すると、「帰ったら…して。たくさんして…」と濡れた声で修二が強請った。
「そんな事を言って…。もう、どうなっても知らないよ」
 苦笑しながら修二の額に口づけた。そうして暫く抱き合ったまま目を閉じていると、程なくして修二の寝息が聞こえてきた。
 聡は起き上がると床の間の隅に置かれた電話機でタクシーを呼んでくれるよう頼んだ。十五分ほどで女将が呼びに現れた。修二の寝顔を見ると、まあ、まあ、よくお眠りでと、慈愛に満ちた顔で微笑んだ。
 会計を済ませると修二を抱き上げ階下へ降りた。酒宴は終わったのか一階は静まりかえって物音ひとつしなかった。修二は余程疲れていたのか、タクシーに乗せても目を覚まさなかった。聡は格子戸の外まで見送りに出た女将に暇を告げた。
「今日はお会いできて、ようございました。冥土へ良い土産話ができましたわ。修二さんは幸せにお暮らしだとお伝え致しましょう。お元気で。また何時か、お会い致しましょう」
 女将は名残惜しそうに聡に頭を下げた。またのお越しを――そんな挨拶がくるものと思っていた聡は、その一風変わった挨拶に内心首を傾げたが、修二の身内なのだから変ではないのかと思い直し、はい、と頷いて頭を下げた。
 タクシーが走り出す直前、にゃ〜んと猫の鳴く声が聞こえたが、振り向いても女将が手を振る姿があるだけだった。

 それから二日間、聡は文字通りベッドの中で寝正月を決め込んだ。四日にはさすがに少々ご機嫌斜めになった修二を宥めるために外出し、二人で過ごす初めての正月休みは終わった。
 五日の仕事始めの日、機嫌良く出社したはずの聡は、夜には憮然とした表情で帰宅した。出迎えた修二は聡の眉間の皺を見ると驚いて、どうしたのかと尋ねた。
「今日、神田明神へ参拝した帰り、田中くんと湯島まで足を伸ばしたんだけど…」
 腑に落ちないという風情で話し始めた聡だが、すぐに困ったように黙り込んだ。修二は頷き、「それで?」と励ますように促した。
「あの店、柏屋さん? 何処にもなかったんだよ…」
「なかったって、どういう事?」
「あの店、中坂の途中の横道に入った所だったよね。暗かったし、この道ってはっきりとは言えないけど、多分この辺だろうなって場所まで行ってみたんだ。確かにね、見覚えのある黒い木の塀と三本の椿の木はあったんだよ。でも…」
 修二はこくっと喉を鳴らして、「でも、何?」と先を促した。
「建物がなかった…」
「取り壊されたって事?」
「否、あれはここ二、三日で取り壊された跡じゃなかったよ。雑草がたくさん生えてた…」
 二人は顔を見合わせて互いに震え上がった。修二が自分の身体を抱えるようにして「夢だったのかな…」と呟くと、聡は修二を抱きしめた。
「田中くんにも、夢でも見たんですよって言われたけど、僕は違うと思うよ」
「じゃあ、何?」と訊く修二の顔を覗き込むと、聡は真剣な表情で「お化け」と呟いた。その答えに修二は一瞬きょとんとした顔をすると、ぷっと吹き出して弾けるように笑い出した。
 聡は真っ赤になって「そんなに笑う事ないだろう!」と口を尖らせた。修二は慌てて笑いを引っ込め、ごめん、ごめんと謝りながら愛おし気に聡を眺めた。
「笑ってごめん。でもね、 “ もしも ” あれがあの世の入り口だったとしても、俺は聡と一緒なら怖くないよ…」
 聡の耳元に唇を近づけて囁いた修二に、聡は嬉しそうに微笑むと抱きしめる腕に力を込めた。


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