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Sentimental Day 〈 前 編 〉

※『恋心』の頃より前の聡と修二の年末年始の出来事。出来るだけ本編を読んでからお読みください。

 師走の三十日に年末の掃除を簡単に済ませ、一息ついたところへ賢造が訪ねて来た。土産だと差し出された福砂屋(ふくさや)のカステラを台所で切り分けて、煎茶とともにワゴンに乗せて運んで行くと、何やらソファで言い争いをしている。何事かと声をかけた修二に向かって聡と賢造は同時に口を開いた。
「年末はうちへ来い」
「駄目だよ!」
 違う音声が重なると言葉の意味が失われる。半ば呆れながら修二は二人を眺めたが、興奮した面持ちの聡はともかく、賢造も全く退く気配がないのには少し驚いた。
「落ち着いて。何を言っているのか分からなかったから、 “ 一人ずつ ” もう一度言ってくれ。まず、賢造から」
 聡の隣に腰を下ろし、それぞれの前へカステラとお茶を出しながら、修二は顎をしゃくって賢造を促した。
「年末、独りなんだろ? だから誘いに来たんだよ。うちへ泊まりに来い」
「そんなの駄目に決まってるだろ!」
「アンタは実家に帰るんだろうが。その間くらい構わんだろう」
「止めた! 帰らない! 正月休み中ここで修二と過ごす!」
「駄目だよ。聡は帰らないと駄目だ」
 呆気に取られて二人の遣り取りを眺めていた修二だが、聡の帰らないとの言葉に素早く反応した。
「俺たちがここに移ってから一度も帰っていないだろう? 正月くらい顔を見せて、ちゃんと親孝行しないと駄目だ。特にお父さんはもうお年なんだから」
「それはお前もだろう? ここの住所、まだ教えてないんだろうが」
 正論で諭されてぐっと詰まった聡の前から助け船のように賢造が言った。今度は修二が言葉に詰まって目を伏せたが賢造の口は止まらなかった。
「東京に戻ってもう二年目だ。もう向こうのほとぼりも冷めている頃だろ。何時までもこのまま会わずにいる訳にはいかないだろう? なんなら――」
「じゃあ訊くが、父や母が何か俺について訊いてきたことがあるのか? どこにいるのか、どうしているのか、探しているような素振りを見せたことがあるのか?!」
 興奮して問い返すと、賢造はじっと修二を見つめたまま「否、ないよ」と静かに答えた。そのまま睨み合っていると、膝の上で握りしめた拳に温もりを感じ、視線を移すと聡の手が上から包み込んでいた。見上げると心配そうな黒い瞳と目が合って、修二は思わず苦笑した。
 確かに人の事は言えない。冷静さを取り戻した修二は気遣う視線に微笑みかけ賢造に顔を向けた。
「正直言って、俺は今ようやく落ち着いたところなんだ。向こうも平静に過ごしているのなら不要な波風を立てたくない。何時かはきちんと連絡を入れるつもりだから、今はほうっておいてくれないか。俺の事は心配ないよ。賢造の申し出は有り難いけど、慣れない所へ行く方が疲れるから、正月はここにいるよ」
「慣れない所じゃないだろう? 子どもの頃から泊まってるだろうが」
「えっ?」
 修二と同時に聡も声を上げた。二人で顔を見合わせると、賢造が呆れたような声を出した。
「俺のマンションに泊まれってんじゃないぞ。神田の実家の方だよ。何だ、勘違いしてたのか」
 どうりでと言う顔で賢造は聡だけを一瞥した。聡は薄っすら赤くなったが、
「最初から “ 何処へ ” 泊まるのかを言ってくれれば良かったんだ」と口を尖らせた。
「それは悪かった。修二、お前の家の事はともかく、うちのお袋と姉貴が会いたがっているんだよ。去年は京都からこっちに引き上げて来たばかりで落ち着かないからって理由で断っただろう? 今年こそはって、ふたりとも珍しく精出してお節料理をこさえているんだよ」
 来てやってくれないかと苦笑する賢造の顔を見ると、修二は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。蕎麦屋の年末は目が回るほど忙しい。いつもは祖母がお節の用意をしていたが、三年前に八十九歳で往生してからは手が回らずデパートから取り寄せるのだと言っていたのに、来るとも分からない自分のために余計な世話をかけているのが心苦しかった。
「行って来たら?」
 折角のお招きなんだからと、先ほどまで目の色変えて反対していた聡の後押しに、修二は断る理由がなくなった。
「分かった。お邪魔させていただくよ。でも、足の事があるから泊まるのはちょっと…ね。あまり迷惑は掛けたくない」
 修二の返事に聡が首を傾げた。その疑問を汲むように、母屋が二階で古い作りの階段は幅も狭く急なのだと説明すると、「俺が抱いて上ってやる」と賢造が口を挟んだ。
「それは駄目だねぇ…」と地を這う声音が即答して、泊まりの件は却下された。
 大晦日の日、修二はひとり中野のマンションで過ごした。
 結局、聡は当初の予定どおり大晦日の昼から実家に戻り新年を迎える事になった。予定と違うのは元旦を実家で過ごし、夜に中野のマンションへ戻るのを、夕方湯島で修二と待ち合わせて帰るようにした事だ。家で過ごす時間が減ってしまうのを修二は心配したが、一旦ひとり暮らしを始めてしまうと、そんなに長く実家に居たくはなくなるものだと聡は笑った。それは修二も身に覚えがあったから苦笑して送り出したが、家族にしてみれば――特に彼の母親には、それでは済まないだろうと胸の中でため息をついた。
 やる事のない暇な時間を修二はいつものように読書に当てて過ごしたが、何故だか幾ら読んでも活字は頭の中で意味を成さなかった。ふと目を上げると窓の向こうは薄紅に染まっていた。壁に掛けた時計は午後四時半を差して、一年の最後の一日があと僅かなのだと告げていた。目を閉じて耳を澄ませば、何本もの電車の音が遠くに響いている。今日だけは明け方まで止まずに聞こえることだろう。
 いつもと違う “ 特別 ” な日なのだと、修二は酷く感傷めいた気分に囚われた。人生の時間で言えば一つの節目を迎えるだけで何かが終わってしまう訳でもないのに、今日が特別に感じるのは、今年一年が忘れられない激動の年だったからだろう。
 聡に再会したのも、人生を共にしようと誓ったのも今年の出来事だ。東京に戻って保と暮らし始めた時には考えも及ばない展開だった。浚われるように聡の元へ来た当初、その誰より強い愛情が怖いとさえ思った修二だったが、惜しげもなく降り注ぐその愛執にどっぷりと浸ってしまった今は、たった一日離れている事さえ辛く感じるほど身に馴染んでしまっていた。
 寂しいのだ。無闇に胸を刺激するこの感傷は、寂しさに他ならない。修二はくつくつと笑い出した。独りでいる事に慣れきっていた自分が、こんなに孤独を恐れるようになるなんておかしな事だと笑い飛ばすと、読みかけの本に目を戻し部屋の中が暗くなるまでひたすら活字を追いかけた。
 陽が落ちて間もなく賢造が打ち立ての蕎麦を持って訪ねて来たが、車を路駐しているからと「明日の正午に迎えに来る」と言い置いてすぐに踵を返した。出前の途中を抜け出してわざわざ来てくれたのかと申し訳なく思いながら、足早に立ち去る後ろ姿を見送った。
 蕎麦屋にはなりたくないと、姉の千賀子に婿養子を取って家督を継いで貰ったとは言え、一番忙しい年末の手伝いを賢造はいつも買って出ていた。何しろ老舗の蕎麦屋としての評判は高く、「年越しは『田屋』の蕎麦でないと」と、三軒先まで行列ができるほどだから、本当なら止めたい出前を賢造が全て引き受けていた。
 足がまともならば自分も何か手伝いたいと思うけれど、実際には何一つ役に立たない自分が情けないと唇を噛んだ。暇を持て余して取るに足らない事を考えているのは、自分だけのような気がして後ろめたかった。
 午後七時、『ちゃんと親孝行しています』と聡からメールが入り、修二は微笑んで返事を打った。
 携帯は聡と暮らし始めてすぐに渡されたものだ。自分では使用料を払えないから持ちたくないと断ったが、「心配だから」と半ば懇願されてしぶしぶ受け取った。繋がる相手は聡と賢造しかいないから殆ど必要性を感じないし、自分から携帯を開く事は滅多になかった。受信画面を見る度に、今の自分にはこの二人しか寄る辺がないのだと思い知らされるのが辛かったからだ。
 保との縁が切れてからライターの仕事は殆どなくなった。取材を伴わない仕事は別として、足の悪い修二と組みたいと思う編集者はいない。それは修二も自身が編集者なら避けるだろうと納得していたが、外との接触が一切なくなったのには少なからずショックを受け、今更ながら自分の交友関係の狭さに愕然とした。
 ならば、賢造の言う通り家族に連絡の一つも取ればいいのだが、迷惑ばかりかけ続けている上に、これ以上情けない姿を曝したくなかった。特に母親には、一人前の男としてひとりで立てない今の自分を見られたくなかった。
 自分が孤独なのは、穴だらけの役に立たないプライドを、いつまでも捨てられない故の自業自得と結論づけたまま、最近はその部分に触れるのすら放棄していた。だから、昨日のように不用意に触れられると痛かった。
 まるで歯痛のようだと修二は思った。治療しなければ治らない。けれど、その痛さを知っているが故に後回しにしてしまう。このままではいけないと思いながら、まだ大丈夫と痛さを堪えて誤魔化して…。
 考えながら痛くもない頬へ手を当てて可笑しくなって吹き出した。今日の自分は本当におかしい。修二は一際大きなため息をつくと、風呂を使うためにバスルームへ向かった。
 風呂で幾分すっきした気分になった修二は蕎麦をざるで食べる事にした。大鍋に湧かしたお湯に蕎麦を踊らせて、ほど良い茹で加減で氷水に取る。よく水気を切ると海苔を刻み、ネギと七味も用意した。
 杖をついて行う作業は殆ど片手でしなければならず時間がかかる。一生このままなのだから仕方がないと諦めてはいるが、一人きりだと面倒で抜いてしまう事もしばしばだった。でも、今日は折角の『田屋』の蕎麦だからと、丁寧に皿に盛り付けて有り難くいただいた。
 食事というのは用意するのは大変だが、食べてしまうのはあっと言う間だ。独りだと余計にそう感じる。今の修二には食事を作るのも食べるもの、聡という対象がいるからこそ意味のある行為で、自分自身にとってはどうでも良かった。そんな事を言えば、聡は酷く心配するので決して口には出さないが。
 一人分の食器を洗ってしまうと、またする事がなくなった。独りの夜は長い。陽が沈むのを惜しんでいたのが嘘のように、早く時間が経たないのもかと恨めしく思ったが、ソファに寝転がって見る気もないテレビ番組をザッピングしているうちにあっけなく新しい年になった。
『ゆく年くる年』にチャンネルを合わせると清水寺が映し出されていた。ライトアップされた本堂は美しく厳かな新年の風景だが、本当はこんなに静かではないのにと修二は鼻で笑った。
 京都の新聞社に就職してから四年間、年末は東京に戻らず必ずどこかの神社仏閣で年を越したが、どんな小さな神社でも氏子の姿が必ずあって、新年の喜びを分かち合う誰かと共に参拝していた。どこへ行っても賑やかで、そして、自分はいつも独りだった。それは若菜と同棲していた時も例外ではなかった。
 頭を振ってテレビを消すと修二は寝室へ向かった。こんな時は寝てしまうのが一番だ。そう独りごちて、広すぎるベッドに潜り込み全ての思考を停止するように瞳を閉じた。

 元旦の昼少し前に、賢造は約束通り迎えに来た。見慣れたスーツ姿ではなく濃灰色のジップアップのセーターとジーンズ姿だった。髪もかるく梳いて流しているだけで、いつもより幾分若く見える。不意に昨日の作務衣に似た白い制服姿が思い出されてクスッと吐息を漏らすと、賢造は車のドアを開けながら「何?」と眉を上げて問い掛けた。
「昨日、店の制服姿を久し振りに見たなと思って。あんな薄着で寒くなかったのか?」
「ああ、下に結構着ているから大丈夫だよ。バイクの時は山用のウインドブレーカーも着ているし」
「下って股引と駱駝シャツ?」
「アンダーウェアと言ってくれよ。それに色は濃紺だ」
 赤だと温かいって聞くよと修二が笑いながら言うと、今度買っとくよと賢造は目を細めて見つめ返し、ああ、そう言えばと不思議そうに修二に訊いた。
「なあ、何で神田明神じゃなくて湯島天神にしたんだ」
「銀行で仕事始めの日に神田明神に詣でるんだって。だから湯島にしようって話になって。大学受験の時、俺は初詣で賢造と行ってしまっただろう? 一緒に行けなかったから行きたいんだって」
「アイツ、結構根に持つタイプだよな」
 そう言って笑う賢造に、またそんな事をと修二はため息をついたが、そんな遣り取りをしながらの道行きはあっと言う間だった。元旦でも都心の道は割合混むものだが、通い慣れた道とばかりに抜け道を通って、三十分もしないうちに懐かしい従兄弟の家へ到着した。
 車の音を聞き付けた伯母と千賀子に出迎えられて、修二は両脇を抱えられるように敷居を跨いだ。三年前の祖母の葬儀にも出られなかったから、丸六年振りの訪問だった。二階へ行くのだとばかり思っていたら一階の奥座敷に通された。元は祖母の為に増築した部屋だったが、今は客間に使っていると賢造が説明した。
「だから、ここに泊まればいい」
 そう言う賢造の言葉に重ねて伯母と千賀子も「そうしなさい」と声を揃えたが、何も用意がないからと困ったように固辞すると、奥から伯父の声がした。
「ほら、入り口で喋ってないで早く中に入りなさい。もうチビさんたちが暴れ出すぞ」
 あらあら、そうねと慌てて中へ促され、上座に座る着物姿の伯父の左隣に案内された。掘り炬燵に驚くと、使わない時は物入れになるから便利だと伯母が自慢げに笑った。
 座卓を挟んだ向かい側に、千賀子との結婚式以来二度目の顔合わせになる入り婿、大輔(だいすけ)の姿があり、その隣には興味津々の四つの幼い瞳がくるくると動いていた。千賀子と大輔の子どもで四歳になる大輝(たいき)と年子の弟、千尋(ちひろ)だった。ふたりの視線に修二がにっこり微笑みかけて「こんにちは」と挨拶すると、大輝は父の背中に、千尋は兄の背中に顔を隠して、笑い声とも奇声ともつかぬ叫び声を上げた。
「生意気に、照れてやがる」と、修二の隣に腰掛けた賢造が呆れたように呟くと千賀子に背中をこづかれた。お兄ちゃんに『こんにちは』の挨拶をしなさいと千賀子に促され、幼い兄弟は呂律の回らない口調で声を揃えて挨拶をした。微笑ましい二人の様子に、「僕も挨拶しないとね」と修二は笑い、勢揃いした従兄弟一家に向かって頭を下げた。
「新年、明けましておめでとうございます。本日はお疲れのところをお招きいただき、ありがとうございます。伯父さん、大輔さん、ご無沙汰しておりました。怪我をした折りはご心配をお掛けして申し訳有りませんでした。何とかひとりで動けるようになりましたが、今は友人の家で世話になっています――」
 挨拶の途中で肩に手を置かれ驚いて言葉を切った。顔を上げると伯父がすぐ側に来ていた。上体を起こした修二の両肩を抱くようにして伯父は修二の顔を覗き込むと口を開いた。
「固い挨拶はいいから…。修二、ちゃんと食べているか? お前は食が細いからね。私たちはずっとお前の事を気に掛けていた。これからは遠慮せずに、もっと顔を見せなさい。向こうの家の事は気にしなくていいから。私たちは余計なお節介は焼かないよ。いいね?」
 伯父の言葉に修二は胸が詰まるのを感じたが、ぐっと呑み込んで微笑むと震える声でありがとうございますとだけ小さく答えた。
 伯母に促され宴が始まると、皆待ちに待ったお節料理に舌鼓を打った。座卓の上は所狭しと料理の皿が乗っていて、修二は酌をしに来た千賀子に詫びを入れた。
 大晦日の蕎麦屋が灯を落とすのは午前を回ってからだから、田辺の家では元旦の始まりは遅い。無論朝から起きてはいるが、神棚に御神酒を供え、先祖の霊には経文を唱えるなど古い家の仕来りは多く、自然、家族揃っての最初の食事は昼になる。男衆はゆっくりしていられても伯母や小さな子どものいる千賀子はそうはいかない。疲れているのに朝から手間をかけさせたのを心から申し訳なく思い、
「ごめんね。疲れたでしょう?」と労ると、千賀子は首を振りながら
「修ちゃんの顔が見られたから、疲れなんかどっか行っちゃった」と笑った。
 昔のままだな、と修二は思った。賢造の家族はいつも自分に温かかった。伯父も伯母も、千賀子も賢造も、修二が女の恰好をしていようといまいと、全く態度が変わらなかった。それが何より嬉しくて、修二は長い休みの度にこの家で過ごした。三人揃って悪戯をすれば姉弟同様に叱られたし、数少ない店の休みの日には旅行にも連れて行ってくれた。幼い頃の思い出はこの一家を抜きに語れない。
 不義理を重ねた今も、修二の足や仕事の事には触れてこない。当たり障りのない話題を選んで居心地よく過ごせるよう気を配ってくれている。自分の家族よりも慕わしく懐かしいこの一家と、自分は何時から距離を置くようになったのか――。
 遠い眼差しで物思いに耽っていると、「修ちゃん、お祖母ちゃんに挨拶してくれる?」と伯母に声をかけられた。一番最初にするべきだったと非礼を詫びると、いいのいいのと、ふくよかな顔がほころんだ。
 賢造に支えられて立ち上がると、修二は伯母の後について隣の仏間に入った。一間もある大きな仏壇の前に小さな丸椅子が用意されていて、そこに座るよう促された。正座できない訳じゃないからと遠慮したが、伯母の心遣いに感謝して先祖に不作法の詫びを入れ手を合わせた。
 ほっと一息ついて目を上げると、鴨居にかけた実の祖父母の隣に、憲一郎と美弥子の小さな写真があるのが目に入った。 「あれ…」と思わず声を上げると、
「そう。写真だけでもと思って。みつ子お祖母ちゃまもずっと二人の事を気にしていたし」と伯母も小さな額縁を見上げた。
 修二は大叔父にあたる祖父の憲一郎と三度しか会った事がなかった。顎の尖った線の細い老人が、泥大島を粋に着こなして穏和な笑顔を浮かべていた。記憶の中の憲一郎はもう少し若かった気がするから、亡くなる間際に撮られたものかも知れない。
 美弥子の写真はそれよりも遙かに若い時に撮られたものだった。恐らく修二が中学生になる以前の頃だろう。きりっと隙なく着こなした小豆色の江戸小紋に、まだ黒髪の残る頭髪を綺麗に結い上げて、姿勢正しく真っ直ぐにこちらを見つめる姿は、その性格すら映し出したようだった。
 形だけの夫婦が亡くなってから仲良く並んでいるなんて修二には滑稽な気がしたが、墓すら別れてしまった祖母にとっては幸せな事かも知れないと伯母に礼を言った。
「私にはこれくらいしか出来ないから」そう目を伏せて静かに微笑む伯母の姿に、美弥子の孤独な後姿を思い出した。
 正月や特別な行事の時以外、祖母はいつも独りで食事をとっていた。修二が七つになるまで二人きりで小さな食卓を囲んだが、修二を手元に取り戻した母の智子は、その後一切祖母と二人で食事をとらせなかった。
 祖母の食事は、朝と夕は智子が用意したものを修二が離れに運んでいた。昼食に関しては、生業にしている茶道と華道の生徒たちと外食する事も多かったが、毎日、という訳にはいかない。大抵は田辺の家から蕎麦の出前を頼んでいた。出前は必ず伯母の寿子(ひさこ)が運んで来て、祖母が食べ終えるまで縁側に腰掛けて、たわいないお喋りをするのが日課だった。
 一度、修二は子どもながらに祖母の相手をしてくれる伯母に礼を言った事があった。
「止めてちょうだい。子どもの修ちゃんが気にすることじゃないわよ。それに、私は美弥子叔母様好きだから、お喋りしてると楽しいのよ」
 そう事も無げに答えた伯母の言葉を、修二は長いこと忘れられなかった。
 窓から差す午後の柔らかい日差しが伯母の背中を照らしながら畳に日だまりを作っている。出来る影すら黒ではなく柔らかな鈍色に見えて、修二は瞬きを繰り返した。
 目頭を押さえた修二に、伯母はどうしたのと心配そうに声をかけた。胸の痛みを堪えながら「ちょっと日差しが眩しい…」と慌てて下を向くと、伯母は向こうへ戻りましょうと修二の手を取った。
「貴方も賢造も、憲一郎叔父様に似て、目の色が薄いからね…」
 そう呟いた伯母の言葉にもう一度憲一郎の写真を眺めると、賢造に何処かしら似ているような気がした。
 修二は陽が落ちきらないうちに湯島に行きたいからと、三時には田辺の家を辞そうとしたが、思いの外懐いてしまった従甥(じゅうせい)たちが離してくれず、最後には夏休みに泊まりに来るからと約束させられてようやく解放された。遅くなったために湯島天神まで車を出してくれた賢造は、
「あれは血筋だな。田辺の家の者はみんなお前が好きなのさ。チビたち上手くやってくれたよ」と言って笑った。
 礼を言って車を降りる時、賢造はニヤニヤしながら、
「なあ、小正月にまた来いよ。チビたちと神田明神へ行こうぜ。それと、約束を反故にするなよ。あいつら泣き喚くから責任取れよ」と駄目押しして走り去った。
 修二は拗ねたような顔をする聡の顔が目に浮かんで、はぁっと小さなため息をついた。

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