INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈7〉

 試験休み中のかんかん照りが嘘のように、夏休みに入ると梅雨に逆戻りしたような鬱陶しい天気が続いた。気温だけは茹だるように熱く、予定通り修学旅行で京都に行っていれば、更なる暑気に中てられていただろうが、修二はずっと快適な自分の部屋に隠っていた。
 結局、賢造の努力は徒労に終わり、修二の最大の悩みは解消されないままだった。
 賢造が優一から借りた雑誌を手渡した時、修二は汚いものでも見るような目つきで一瞥した。こんな反応で大丈夫なのかと危惧したが、後は本人に任せるしかない。デリケートな問題だからと、一週間ほど待って結果を問うと、案の定、修二は力なく首を横に振るだけだった。解決したのは修学旅行への不参加だけで、こちらは優一が上手く両親を丸め込み、すんなりと承諾を得られた。学校へは季節外れのインフルエンザで寝込んでいると伝えた。
 賢造は中等部最後の夏休みを、家の手伝いと長瀬の家の往復で過ごすハメになった。七月中は高等部へ進級希望者対象の補習クラスがあったので、厨房での皿洗いは免除され、学校帰りに長瀬の家に寄って帰るのが日課だった。
 修学旅行を狡休みした修二は家から一歩も出られなかったが、どちらかと言えば進んで引き籠もり状態を続けていた。七月が終わりに近づいてもインフルエンザの病後を養う振りをして、プール講習も堂々と欠席を決め込み、祖母の元で宿題をしながら賢造の訪れを待つのだった。
 賢造の目からは休み前よりは元気に見えたが、優一はそんな状態の弟をひどく心配した。
「医者に診せた方がいいと思うんだけど…」と相談された時、賢造は大げさではないかと思ったが、確かに悩みなど早く解消するに越した事はない。他に良い方法も思いつかなかったから、優一の提案に乗って診察を受ける事を勧めたが、修二は即座に拒絶した。「嫌だ! 絶対にイヤだ!」と真っ赤になって激昂する修二に面食らいながらも、「どうして?」と食い下がると、「お母さんに、知られたら…」と修二は激しく泣きじゃくった。
 医者にかかるには保険証がいる。保険証を黙って持ち出すのは簡単だが、後から世帯主に宛てて診療を受けた人の名前とかかった医療機関名、そしてその請求金額の明細が送られてくるのだ。長瀬の家ではかかりつけ医が決まっている。馴染みのない医療機関の名前を見たら、心配性の母親は絶対に訊いてくるに決まってる。修二にとって母親に身体の悩みを知られる事は、耐え難い屈辱であり恐怖だった。
 保険証がなくても診察して貰えるだろうが、ないとどれくらい請求されるのか賢造には見当がつかない。恐らく高額になるのは間違いない。身も世もなく泣き崩れる修二の肩を抱いてあやしながら、ここはまた優一に一肌脱いで貰うしかないだろうと思い巡らせた。もとは優一が言い出した事なのだし、兄としての面目躍如に繋がれば一石二鳥だ。賢造は修二を宥め賺して、保険証なしで受診するよう説き伏せた。
 優一にはお金を借りるだけのつもりでいたが、そんな心配はいらないと修二の杞憂を一蹴した。内科や泌尿器科がある個人経営の医院に行けばどの科を受けたか誤魔化せるだろうし、万一何か訊かれたらその時は自分が上手く説明すると請け負った。病院は田辺の家のかかりつけ医に紹介して貰い、修二は優一に付き添われやっとの事で診察を受けに行った。
 賢造は補習が終わると長瀬の家へ飛んで行ったが、迎えたのは弱り切った顔をした優一だけだった。その様子に最悪の事態を想像したが、優一から「正常だった」と教えられ首を傾げた。修二はまたしても部屋に鍵をかけて隠ってしまい、賢造は優一の部屋で詳しい話を聞いた。
「検査では身体に異常は見られないし、健康だと太鼓判を押して貰えたよ。遅い人では十八歳くらいまでない人もいるから、気にしないで普通に生活しなさいってね。ただ…その後がちょっと…」
 言い淀む優一に頷いて先を急かすと、躊躇いながら口を開いた。
「『性同一性障害なら話は違ってくるけど』って、言われたんだ。自分は専門じゃないから診断はできないけど、自分の性別に違和感を感じるようなら専門機関を訪れた方がいいって…」
「その『性同一性障害』って、何?」
「身体の性別と心の性別が一致しない人の事を言うらしい。例えば、修二の場合なら、身体は男性だけど自分が認識する性別は女性って事になるのかな」
「えっ? 修は自分を女だと思ってるの?!」
 賢造はぎょっとして大声を上げた。透かさず優一は人差し指を唇に立ててから修二の部屋の方を窺った。賢造は片手で口を押さえ、もう片手で激しく動悸のする心臓を押さえた。
「思ってない。あの子は『僕は男です』って、言い切ったよ」
「じゃ、何でそんな話に…」
「自慰が出来ないって話になって、当然理由を訊かれたんだけど、『触りたくない』って言ったもんだから、そんな話になったんだよ。でも、本人がきっぱり否定したから、先生も『じゃあ、大丈夫だ。したくなければ無理にする必要はない』って言ってくれたんだけど、相当ショックを受けたみたい。ぼうっとして、ずっと心ここにあらずって感じで…。会計を済ませる間、『触れないって、嫌悪感があるの』って訊いたら、そうではないみたいなんだけど、自分でもよく分からないって。たぶん修二は “ 触れない ” イコール “ 性同一性障害 ” みたいに思い込んだんだと思う。『それは違うから、気にするな』って言ったんだけど…」
「その医者、ヤブだな…。余計な事言いやがって」
「そうだね。身体に問題ないってお墨付きを貰えるだけで良かったのにね。余計に心労が増えちゃったかも知れない。修二はただの潔癖症なんだと思うけど、もう、それを言うのも憚られちゃって…」
 優一は後悔を滲ませた重いため息をついた後、何かを諦めたような寂しげな笑顔で賢造を見た。それは見慣れた優一の表情であり、賢造の嫌いな顔だった。昔からそんな中途半端な笑顔で賢造たちを眺めたまま、近づくでも離れるでもない優一を辛気臭く感じていた。あの懺悔にも似た苦悩の告白を聞くまでは。
「そんな顔しないでよ。優兄のせいじゃないし。俺は身体に問題ないのが分かっただけでも良かったと思うよ。仕方ないよ。待つしかないなら、あと俺らに出来るのは、修二に焦らなくてもいいんだって、余計な事は考えなくていいんだって、言い続けるしかないと思うよ。言ったからって不安は消えやしないだろうけど、それでもさ、あいつの傍にいて『大丈夫だ』って言ってやらなきゃいけないんだと思う。一番傍にいるのは優兄なんだから、これからも力になってやってよ」
 賢造の慰めを聞いても、優一は見るからに自信なさげな顔で「でも…」と口籠もった。病院からの道すがら優一なりに修二を慰めたのだろうが、殆ど効果がなかったのだろう。恐らく賢造が一緒に行っても同じ結果になったに違いないが、もともと脆弱な “ 兄 ” という自覚は、修二の言動一つで簡単に揺らいでしまう。
「俺さぁ、千賀と姉弟って意識がすごく薄いんだよね。昔からよく一緒に遊んだけど、あいつ気が強いからしょっちゅう喧嘩になるし、女相手だと思って手加減してやってんのに、親に怒られるのはいっつも俺。勉強だって教えてくれた事ないし、姉らしい事何一つしてくれないくせに偉そうで、すげぇ頭に来るぜ」
 突然何の脈絡もなく千賀子の悪口を言い出した賢造に優一は目を丸くしたが、それでも神妙な顔で頷いた。
「でもさ、もしも千賀に何かあったら心配するし、悩んでたらほっとけないよ。好き嫌いとか、仲が良い悪いじゃなくさ、助け合うのが兄弟ってもんでしょう?」
「それは、血の繋がりがあるから?」
 優一の口元に皮肉な笑みが浮かんだ。賢造自身陳腐な慰めだと思ったが、おくびにも出さず言い募った。
「そうだよ。血の繋がりは、切っても切れない絆だよ。俺も従兄弟だから修とは血は繋がってるよ。けど、優兄は血を分けた兄貴だろ? もっとずっと濃いんだぜ。それは、俺がどんなに修を大事に思ってても繋げない絆なんだよ。優兄と修は…上手く説明出来ないけど、どっか深い根底で結びついてるんだよ」
 血の繋がりが、修二と美弥子と他人同士で育んだ情の厚みに敵うかどうか分からない。それでも、優一が修二の兄である事実は変わらないし、美弥子に対する最大の強みだ。修二が可愛いと言った言葉に嘘がないなら、そう簡単に兄の立場を放棄して欲しくなかった。
 五つも年下の従兄弟に諭されて、憮然とした表情で耳を傾けていた優一だったが、賢造が言葉を切ると目を伏せて小さなため息をついた。
「修二は…僕と兄弟なんだって、感じてくれるんだろうか…。今じゃなくても、いつか、賢造が千賀ちゃんを思うように…」
「勿論。優兄の気持ちは今だって充分通じてるよ。修学旅行の件、味方してくれて嬉しかったって言ってたし、頼りにしてなきゃ、病院に付き添って貰ったりしないよ」
 自信たっぷりに言い切ると、優一は静かに顔を上げて頷いた。その顔には依然寂しげな微笑が浮かんでいたが、潤んだ黒い瞳には希望の色が差していた。
 賢造は優一に別れを告げて修二の部屋を訪ねたが返事はなく、鍵も開けては貰えなかった。そのまま帰るのは忍びなかったが、天の岩戸を開く良策は捻り出せず、また来るからとだけ言い置いて、その足で『ラベル』のマスターに助言を求めに向かった。
 賢造は中等部に上がってから、誰にも明かせない胸の内をマスターにだけ打ち明けるようになっていた。ある程度こちらの事情を知っていて、親や身近な人間とそれ程関わりを持たないマスターは格好の相談相手だった。口の堅いマスターなら修二に知られる心配もない。
 午後の四時という中途半端な時間帯のせいか、音楽喫茶『ラベル』にお客は一人もいなかった。賢造にとっては都合が良かったが、普段は流れているレコードの音も途絶えていて、防音の施された店内に自分の声だけが響き渡り、気になって徐々に声が小さくなった。
 マスターは賢造の好きなマンデリンを立てながら注意深く話を聴き、何度か小さく頷くと珈琲カップを差し出して穏やかに告げた。
「修二くんにとっては、君がお手本なんだよ。男として、否、全てに於いて…」
「全てって…?」
「文字通り、人生全てさ。勉強に於いても、遊びに於いても、それこそ恋愛に於いてもね。優一くんの事は、ちゃんとお兄さんとして認識してるだろうけど、修二くんのお手本ではないんだろうねぇ。きっと修二くんの目には、賢造くんしか映ってないんだよ」
 香ばしい珈琲の芳香に誘われてカップを手にしたものの、漆黒の液体を見ると先が見えない不安を感じて途方に暮れた。遣るべき事は遣り尽くしていた。“ お手本 ” と言われてもこれ以上何をすればいいのか。
「俺、どうしたらいいのかな。どうしたら修の悩みを消してやれるんだろう」
「今まで、手取足取り何でも教えて来ただろう? 同じ事だよ」
「手取足取りって?!」
 まさか自慰を手伝えって事かと驚いて上擦った声を上げると、マスターも驚いた顔で賢造を見たが、すぐに納得したように頷いて白い口髭が覆う口元にからかうような笑みを浮かべた。
「まさか! ちょっと言葉が足りなかったね。男同士の付き合いをしてあげればいいって事だよ。修二くんが望んでいるのは、男として生きる事だろう。『性同一性障害』などあり得ない…問題外だね。だったら、周りが取るべき行動は一つだよ。彼の望み通り、一人前の男として扱ってあげればいいのさ」
「そうして来たつもりだけど…」
「本当に? 君は彼に、君の友人と同等の接し方をして来たかい? 私に教えてくれた “ 彼女 ” の話をした事があるかい?」
 返事が出来なかった。ならば自分は今まで修二を男扱いしていなかった事になる。優一と同じ穴の狢だと思いたくなくて、そんな筈はないと口を開きかけたが、反論できないまま口を噤んで目を伏せた。
「私はさっき人生の全てと言ったけど、それほど大げさに考える事はないよ。君の恋愛体験を聞かせてやるといい。本当の事でなくても構わないよ。君の恋愛感とか、性について思う事でも、他の男の子たちの話でもいいんだよ。それだけでも、修二くんには良い刺激になるだろう」
 マスターは問題解決の糸口が恋愛にあるように断言したが、賢造にはぴんと来なかった。大体、なぜ自分の体験談が必要なのか。怪訝な顔でマスターを窺うと、マスターは洗い物をしながら先を続けた。
「分からないかな? 君はお手本だと言っただろう。君の目が女の子に向いているんだと教えれば、修二くんの目も自然に女の子に向くようになるさ。私は、修二くんの心の問題だと思うんだよ。あの子は成長が遅い訳だから夢精なんて望めないだろうし、自慰だって難しいだろう。でも、異性に興味が出て、それこそ好きな娘でも出来れば、自然と身体もついて行くと思うよ…」
 心ありきだよというマスターの説明は、理解できても頷けるものではなかった。想像できないと言い放った非難に満ちた修二の瞳を思い出す。とても誉められたものじゃない恋愛遍歴を語って聞かせるなど冗談じゃない。伸び始めた前髪を掻き毟って項垂れる賢造に、マスターは慰めるように言葉をかけた。
「修二くんは…成長の遅い雛鳥だ。まだまだ親鳥が必要で、君はその親鳥に選ばれたんだ。手がかかるけど、雛だっていつかは巣立って行くものさ。そのうち君以外の人を目標にするかも知れない。あるいは恋をして、その人に夢中になるかも知れない。いずれにせよ、それまでの辛抱だから…」
「修が、俺以外の…」
 心臓を掴まれたような痛みを感じて顔を上げると、慈愛に満ちた色素の薄い瞳が見詰めていた。
「親だって、いつか子離れしなくちゃいけない時が来るんだよ…」そう小さく呟いたマスターの顔は、賢造には心なしか哀しげに見えた。

 翌日、補習をサボって午前中から長瀬の家を訪ねると、優一が驚きながら賢造を迎え入れた。叔父と叔母は既に会社へ出ており、優一も外出する直前で、修二を残して行くのが心配だったと賢造の来訪を喜んだ。
 修二は部屋へ入れてはくれたが、床に座って俯いたまま賢造を見ようとはしなかった。昨日の今日だから無理もないと、賢造も入るぞと声をかけたきり、勝手にベッドへ座って修二を見下ろした。
 昨日一晩、賢造はマスターの言葉と、修二にしてやれる事を考え続けた。マスターの言った通り、賢造が修二を一人の男友だちとして、学友たちと同等の接し方をしていたならば、肉体的なことはさておき精神的にこれほど悩む事はなかっただろう。その孤独と不安の中に置き去りにしてきた事を悔いたが、同時にそれが出来なかった理由も自覚せざるを得なかった。
 賢造は熱帯夜のじっとりと纏わり付く蒸し暑さと、マスターの使った “ お手本 ” の言葉に苦しめられた。修二の悩みの解決が、心と身体の自然な成長がもたらすものならば、どんなに時間がかかっても見守って行くつもりでいる。けれど、その成長を促すために、修二が誰かに恋するように仕向ける役割を、自分がしなければならないのだろうか。いつか、自分以外の誰かの後を追って行く修二を、黙って見送るなど出来るのだろうか…。
 何度となく寝返りを打ちながら、賢造は自分がどうするべきなのか考え続け、明確な答えが出ないまま朝を迎えたのだった。それでも、修二を訪ねずにはいられなかった。目覚ましが鳴ると呪縛から解き放たれたように飛び起きて、いつもの通り補習へ行く振りをして自転車を飛ばして来たのだった。
 冷房の効いた部屋の中で二人は黙ったままだった。暑気よりも急いた気持ちに流れた汗はすっかり乾いて体温を奪って行く。修二はずっと下を向いて、床に敷き詰められた絨毯の模様を指先でなぞっていた。瞼は腫れていないから泣きはしなかったのだろうが、代わりに疲労の色を浮かべている目元から寝ていないのが見て取れた。こちらを見向きもせず絨毯を引っ掻きながら、修二は賢造の言葉を待っている。そう感じながらかける言葉を持たない賢造は、唯ただ修二を見詰め続けた。
 長い沈黙を破ったのは修二だった。
「僕、男だよね…」
 泡が弾けるような小さな呟きだったが、賢造の耳には鮮明に届いた。『性同一性障害』の話を気に病んでいるのだとすぐに分かったが、一瞬だけ返答に窮した。戸惑いが伝わったのか修二の長い睫毛が震え、促されるように賢造は言葉を絞り出した。
「ああ、そうだよ。当たり前のこと言うなよ」
 わざと呆れた声を出すと修二は賢造を見上げ、すぐにくしゃりと顔を歪ませた。賢造は反射的に動いていた。修二の隣に腰を下ろしてその頭を抱き寄せると、胸に押しつけた唇から嗚咽が零れた。Tシャツが涙を吸い込んで暖かく湿る。修二の腕が賢造の背中をギュッと抱きしめ返した時、賢造の胸の中を一筋の稲妻が駆け抜けた。
 もう、誤魔化しようがなかった。幼い頃から修二に対する感情は、従兄弟としての友愛ではない。これまで付き合ったどの娘にも湧かなかった恋情だ。他の人など好きになれる筈がない。昔も今も、愛しいと想う気持ちは修二にしか感じない。
 そう認めた途端、駆け抜けた稲妻の痕が引き締められるように痛んで目を閉じた。昨日のマスターの哀しげな顔が瞼に浮かんだ。祖母の心配そうな顔も、修二を頼むと縋った大叔母の顔も、寂しそうな優一の顔も、後から後から浮かんでは消えて行く。賢造は胸の中で震える修二の身体をかき抱き、渾々とわき出る切なさに耐えた。
 素直に認めたからと言ってどうなるものでもないのだ。どんなに好きでも許されないと、修二を想う以上に罪悪感が募り溢れ出る。周りが賢造に求めている役割は、修二を『導く』事であって『恋する』事ではないからだ。それに『恋』の果てに『性愛』があるとは未だに断言できない。こうして抱擁し互いの熱を交換しても、性的衝動など起こらない。子どもの頃から植え付けられた使命感による抑止からかも知れないが、賢造自身それが最後の砦のような気がした。
 修二が身動いで何ごとか呟いた。心の深淵に沈んでいた賢造は、はっとして我に返った。腕を解いて「何?」と修二の耳元で聞き返すと、修二は賢造の胸に頬をすり寄せて「もう…分かんない…」と囁いた。分からないのは賢造も同じだ。答えてやれない代わりに修二の髪を優しく梳いた。
 マスターは修二に『性同一性障害』の疑いがあると知っても淡々としたものだったが、賢造は激しく反応した。修二が “ 女 ” であったならと願った時期があったからだ。マスターも優一もその疑いを一蹴したが、その通りだろう。賢造は修二が男の子になった日の衝撃も、嬉しそうな修二の顔もよく覚えている。決して口には出さなかったが、修二は女の子の格好など嫌悪していた。なのに、賢造だけがあり得ない願いを捨てきれなかった。自分の恋心は修二を傷つける。修二を救って遣りたいと思いながら、正反対の方向へ向かう自分を認めてしまった今、どんな慰めの言葉も偽りになってしまいそうで言えなかった。それでも賢造は敢えて口を開いた。
「分からないなんて事あるか?! 修は男だろ。優兄から聞いたよ。自分で医者にそう言ったんだろう?」
 修二の顔を覗き込んで訪ねると、修二は小さく頷いた。
「身体の成長は個人差があるし、誰にも分からないさ。兄弟でもうちの親父は義治叔父さんより背が低いし、千賀も祖母ちゃんに似て母さんより低いだろう? 修は叔父さんに似てるから、そのうち俺の身長を抜くかも知れないじゃないか。身体に異常がないってお墨付きをもらえたんなら、大丈夫だよ」
 修二は弾かれたように顔を上げ赤くなった瞳で賢造を凝視する。言葉を紡ぐために唇からスッと息を吸う音がした。賢造は遮るように言葉を続けた。
「どう成長するかなんて、分からないのはみんな同じだ。俺だってそうだ。この先、病気になるかならないか、いつまで生きられるのか。自分の身体だからって、自分の意志ではどうする事もできない。焦る気持ちは分かるけど、こればかりは待つしかないんだ。だけど、この身体の中でたった一つ、はっきり分かるものがある。自分の意志でどうにでもなるもの。それは、自分の心だ」
 言いながら賢造は修二の左胸に指を立てた。
「修は男だ。そうお前が思っているなら、誰が何と言ったって “ 男 ” なんだ。『性同一性障害』なんて気にしなくていい。自分を信じろ」
「自分の気持ちが…、心の中が分からない時は?」
 修二は眉を顰めて賢造を仰ぎ見た。不安を湛えた飴色の瞳に賢造の顔が歪んで映った。
「それは、分からないんじゃない。怖いから…知りたくないから目を閉じて、分からない振りをしているだけだ」
 昨日までの自分のように。そしてこれは紛れもない真実だった。人は誰も、自分の心に嘘はつけない。
 賢造は後ろめたさを感じて思わず目を伏せた。だから自分に言い聞かせるように告げた賢造の顔を、修二が何かを読み取るように見詰めていたのに気づかなかった。修二はゆっくりと賢造から腕を離して向き直ると、ありがとうと囁いた。失われた熱を惜しみながら顔を上げると、微笑む修二と目が合った。
「自分の気持ちを、信じる…」
 修二の顔には生気が戻っていたが、綺麗に澄んだ瞳に映る賢造の顔はずっと歪んだままだった。

NEXTは15禁ページです。15歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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