INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈5〉

 大叔母を訪ねたのは蒸し暑い日だった。雨こそ降っていなかったが、湿気が身体に纏わりついて鬱陶しかった。試験前一週間から試験終了までクラブ活動はないので、賢造は家に帰ってから母親が用意した土産を持って約束通り長瀬の家を訪ねた。
 家とは呼べなくなった『長瀬ビル』とプレートのついた入口を入り、エレベーターと階段が隣り合うホールに進むとスーツ姿の男とすれ違った。見知った顔ではないからテナントの会社の人らしい。制服姿の賢造をちらっと一瞥してそのまま外へ出て行った。
 一階から二階は吹き抜けの駐車場と倉庫になっており、三階から四階が長瀬物産の事務所になっている。その上の五階と六階を一つのテナント会社が借りていた。本当は十階建てにして五フロアを貸事務所にしたかったらしいが、今は神田界隈でもどこも空きが目立つから叔父は賢明な選択をしたようだ。
 七階は素通りして屋上までエレベーターで上った。この時間は智子叔母は会社に出ているし、修二もまだ帰ってないのを知っている。大学生の優一はいるかも知れないが、彼に用はないのだから挨拶する必要もない。優一とはあまり遊んだ記憶がないから会っても話題がない。まともに会話を交わしたのは確か正月だったなと、ぼんやり思いながらエレベーターの階表示を眺めていた。
 普通は屋上までエレベーターがついている所は少ないだろう。扉が開くと一階と同じ大理石を使用したホールになっていて、目の前にUV加工を施した自動ドアが見える。
 賢造はその前まで進み出るとドアの右側に付いている読み取り機にカードキーを通した。チャイムが鳴る音と同時に自動ドアが開き、視界が広がると同時に眩しさで目を細めた。ドアの向こうは二十畳ほどのサンルームになっていて、サンルームに続いていきなり部屋になるのだった。
 昔の大叔母の離れを知っている人から見たら、あまりの違いに驚くだろう。全てバリアフリーになっていて、病人の身体を気遣ったよく考えられた設計になっているが、本人の趣味とは恐らく掛け離れたものに違いない。
 大叔母は、サンルームと部屋の仕切りになっているガラス戸の前で、椅子に座って日向ぼっこをしていた。除湿が効いているのか部屋の中は快適で、今の季節を忘れそうだ。
 賢造は「久しぶり」と言いながら承諾も得ずに勝手に靴を脱いで部屋に上がった。ここには玄関がついていない。サンルームからこうしていきなりフローリングの部屋へ上がるのである。
 大叔母の見舞いに訪れる人は大抵ここで躊躇するものの、最後は部屋からトイレから風呂から眺め回して、「とても参考になります」と感心した様子で帰って行くのだが、この言葉を聞くと修二はいつも不機嫌になっていた。
「これ、母さんから。後で修二と食べて。ばーちゃんと父さんが、よろしくって。麦茶貰っていい?」
 手土産を渡して台所に向かいながら早口で言うと、「手を洗いなさい」とはっきりとした口調で注意された。少し前までは呂律が回らない感じが残っていたので、怒られているにも関わらず嬉しくなって口元が緩んだ。
 全て引き戸の仕切りで区切られているだけの部屋を突っ切り、洗面所で手と口を濯ぎ、台所へ入ると冷蔵庫から自分の分と大叔母の分の麦茶をグラスに注いだ。大叔母の側まで戻ると、壁のない部屋を支えるために唐突に尽きだしている柱に凭れて胡座をかいた。
 無言で賢造を眺めていた大叔母は、行儀が悪いと言いたげに少し顔を顰めたが、賢造がグラスを差し出すと動く方の右手でグラスを受け取り、苦笑しながら元気そうだねと言った。
「元気だよ。学校が忙しくして、あんまり来られなかった」
 ごめんと呟くと、忙しいのは良いことだと大叔母は前を向いたまま笑っていた。
 アルカイックスマイルという薄い唇の端をほんの少しだけ持ち上げた笑い方は、大叔母の特徴だった。とても美しい笑い方なのに、目尻が下がらないせいかどこか冷たい印象を与える。小さい頃は何となく怖くて、いつ見ても絵本で見た鬼子母神のようだと思ったが、病後の生気のない横顔は普通の老女にしか見えなかった。
 何もかも変わってしまったと賢造は思った。古いが贅をこらした壮麗で美しい日本家屋だった長瀬の母屋も離れも消えてなくなり、大叔母の美しい箱庭は、サンルームの真ん中の循環式の小さな池と、名前も分からない外国の花で寄せ植えた花壇に化けてしまった。
 一年中着物で通し長く営んできたお茶とお花の教室とも、もう教えられないからと廃業してしまった今は洋服を着ている。智子叔母が用意する服はどれも品があって大叔母によく似合うが、まるで違った人のように感じて馴染めなかった。
「石榴とか、山茶花とか、灯台躑躅とかさ、少し残せば良かったのに…」
 賢造はあの庭が好きだった。修二と初めて出会った場所だった。“ 修 ” は消えてしまったが、庭まで夢と消えるのは寂し過ぎる気がした。
 寄せ植えを眺めているようで本当はどこか遠くを見ている大叔母の目には、あの箱庭が映っているのじゃないかと、賢造は大叔母を見上げた。
「コンクリの上じゃ、樹木は永く生きられないよ。別にいいんだよ。植木はみんな良いところへお嫁に出したからね…」
「あの石榴、まだあるの?」
「ああ、あるよ。鬼子母神を祭ってるお寺さんへ預かって貰ったからね。都内だから、今度修と見てくるといいよ」
「何でお寺へ預けたの?」
「あれは、長瀬の家の富と繁栄を願って植えたものだから、他の家に遣る訳にいかないんだよ」
「なら、余計に戻さないといけないんじゃないの?」
 何の気なしに言った言葉だった。長瀬の家にとって大切なものなら戻すべきだし、自分にとっても修二との想い出に繋がる木だから、ここにあったら良いのにと思っただけの事だった。
 大叔母はしばらく黙り込んだ後、「もうこの家には必要のない木なのさ…」と低く呟いてから思い直したように努めて明るい声で言った。
「あんたんとこは、いいよねぇ。千賀ちゃんがいるし。あの子はいっぱい子どもを生んでくれそうだから、田辺の家は安泰だ」
「何で? そりゃ、確かに千賀の尻はでかいけど、家を継ぐのは俺だぜ? 俺には子どもが出来なさそうに見えるの?」
「おや、蕎麦屋を継ぐ気でいるのかい? あんたは家を継ぎたくないって聞いたよ? この間それで、大暴れしたんだろう? 寿子さんが嘆いてたよ」
 お袋のお喋りめと、賢造は心の中で舌打ちした。
 退院してから大叔母専任の家政婦が管理栄養士の指導の元に食事の用意をしているので、蕎麦を出前する事はなくなったが、母は大叔母を心配し店の中休みにしょっちゅう訪ねていた。お陰で会わなくても修二の日常を母から聞けるのは助かるが、自分の事も逐一伝わっているのかと思うと恥ずかしかった。
 初等部六年の頃から賢造は反抗期を迎え父親と遣り合う事がしばしばあった。賢造も本来は修二と同じ素直な性質の子どもだった。普段は店の手伝いなども真面目にやっているが、二百年続く老舗の暖簾を継ぐ事には漠然とした抵抗があった。蕎麦屋が嫌だと言うのではない。ただ、当たり前のように店を継ぐのは賢造だと決めつけられるのが、自分の将来への可能性を絶たれるような気がして腹立たしかった。
 それは年を追う毎に激しくなり、つい最近、確かにやったのだ。父親相手に大立ち回りを。
 元々の原因が何だったのかよく覚えていない。確か、千賀子が短大ではなく四年制大学に行けば良かったと愚痴ったのに対し、『女の子に高学歴は必要ない』と父が言ったひと言に過剰反応したのが始まりだった。
「だったら、蕎麦屋にも高学歴は必要ないよな」と、今思えば余計な事を言ったと賢造も思う。売り言葉に買い言葉でどんどん感情が昂ぶって、気がついたら父と掴み合っていた。頭の隅ではこのまま行ったらヤバイと警鐘が鳴っていたのに、もうすぐ五十になる父親の腕力の方が勝っているのが悔しくて、無性に腹が立って後へ引けなくなった。
「俺にはやりたい事があるんだよ! 蕎麦屋になんかなれるか!」
 そう叫んだ瞬間、投げ飛ばされていた。母と千賀子の悲鳴が聞こえたが、最初は自分がどうなったのか賢造にはよく分からなかった。魔女の横顔に見える天井板の木目を呆然と眺めながら、肩と背中に痛みを感じて初めて襖二枚をなぎ倒してぶっ倒れている事に気がついた。
「あんたの所は派手にやるよねぇ」と大叔母は声を立てて笑ったが、賢造には笑い事ではなかった。その後がまた大変だったのだ。
 凄まじい物音に驚いた祖母が寝床から出て来て涙ぐむし、そんな祖母を「大丈夫、大丈夫」と慰めながら騒動の発端である千賀子はゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。父は賢造を投げ飛ばして清々したのか、賢造が起き上がった時には近所の飲み屋へでも出かけたのか姿がなく、母は賢造より折れてしまった襖の心配ばかりして、背中の痛みに呻く賢造の頭に拳骨を食らわすとその後二時間に渡って説教とお小言を繰り返した。
 今でも思い出すと悔しくて不機嫌に押し黙った賢造に、大叔母は笑いを収めながら言った。
「家でも似たような事があったよ。修は何でもあんたに影響されるのかねぇ…。作家になりたんだとさ」
 賢造が驚いて大叔母を見上げると、「もちろん、智子さんに反対されたそうだよ」と如何にも小馬鹿にしたように鼻で嗤った。
「そんなお金になるか分からない、将来安定しない職業に就くのは堅実ではないと言われたそうだよ。可哀相に、落ち込んでたねぇ。諦めないとは言ってたけど、あの子はあんたと違って自分の我を通すなんて…出来ないだろうねぇ。まあ、でも進歩だよ。あの子が親に反抗するなんて」
 しみじみした口調で話す大叔母に、修二が既に両親に対して反旗を翻し始めたのを知らないのだと知って呆然とした。
 思春期になり賢造は早々と反抗期を迎えたが、修二はずっと良い子のままだった。大叔母と両親の間でいつでも中立であろうとすれば自分の気持ちなどないも同然で、健全な反抗期など迎えられるはずがなかった。初めての反抗も大叔母のためのもので、自分のためではない。修二の成長を阻む本人が呑気に感想を述べるているのが遣り切れないと賢造は思ったが、あの両親に『作家になりたい』と自分の夢を告げられたのなら確かに進歩かも知れないと心を落ち着かせた。
「いくら金があったって、幸せになれる訳じゃないのにねぇ」と呟いた大叔母に、「無いより、あった方がいいだろ!」と賢造は咄嗟に食ってかかった。自分はその有り余る金で修二を好きにしたくせにと、心底腹が立った。
 きっと睨みつけた賢造に、大叔母は何の感情も映していない瞳を向けて「あんたは、私が幸せそうに見えるかい?」と訊いた。
 賢造の脳裏に『美弥子叔母様は可哀相な人なのよ』という母の口癖が蘇り、冷水を浴びせられたように頭に上っていた血が引いた。黙って俯くと「あんたは正直でいいね」と穏やかに笑う声が聞こえた。
 幼い頃に、従兄弟である筈の修二がどうして長瀬姓になったのか尋ねた事があった。両親は言葉を濁してしまったが、祖母は子どもにも解りやすく説明してくれた。大叔母はお金で家族を買った人だった。そうしなければ身寄りがない孤独な人なのだと。長じてからは自分の目で彼女の境遇をずっと見て来た。今も昔も賢造の目には不幸な人としか映らないが、幸せかどうかは本人が決める事だ。
「幸せでないのなら…修が可哀相だ」
 俯いたままやっとそれだけ絞り出すと、「そうだね…」と静かな声が降りてきた。
「私はあの子が可愛いよ。あの子は私の弟によく似てる。頭が良くて、人の気持ちのよく分かる優しい子だった。そういう良い子はみんな早く神様の所へ行ってしまう。だから私はあの子を土蔵に閉じ込めた。それを妹が…幸子が私の留守中に近所の子どもを入れてしまったんだよ。あんなに駄目だと言ったのに。いつもいつも私に反抗して楯突いて…その結果が…憎らしいったらありゃしないよ。キャンキャン、キャンキャン吠え立てて、まるであの…スピッツみたいな煩い女だった。誰かによく似てるねぇ…そうだよ、智子にそっくりだ…」
「…祖母ちゃん?」
 賢造は何を言い出すんだと大叔母を見上げた。大叔母は真っ直ぐ前を向いたまま憑かれたように意味の分からない呟きを発し続けた。怖くなった賢造はもう一度声を大きくして「祖母ちゃん!」と叫んだ。
 大叔母の目が大きく見開かれたかと思うと、右手をこめかみに当てて項垂れた。顔色も紙のように白くなり賢造は慌てて立ち上がると「具合悪い? 大丈夫? 誰か呼ぼうか?」と畳み掛けて大叔母の顔を覗き込んだが、大叔母は大丈夫だと首を振って誰も呼ぶなと言った。
 暫くして顔を上げた大叔母は椅子に深く凭れると大きく息を吐いた。賢造は足下に跪いて傍らのテーブルに置いたグラスを大叔母に持たせた。大叔母は温くなった麦茶を一口ゆっくりと飲んだ。
「賢造…石榴はね、あの実を裂くと無数の種が出てくるだろう? だから子宝に恵まれるって言われているのさ。私の家の庭にもあった。私は五人兄弟の三番目で長女だった。家業も順調で子どもも多かったから、あの辺じゃとても恵まれた家だった。子どもの頃はとても幸せだったよ」
 唐突に昔の話を始めた大叔母に、賢造はやはり誰かを呼んだ方がいいかも知れないと逡巡したが、少し様子を見る事にした。先ほどよりも穏やかにしっかりとした口調で話しているし、大叔母が自分の話をするのは初めてだったから興味を引かれた。黙って頷くと大叔母は話を続けた。
「私は両親にも二人の兄にもとても可愛がられたよ。下の妹とだけは馬が合わなかったし、一番可愛がっていた弟を亡くしたけど、それ以外は何不自由なく育てられて、ずっとこの幸せが続くもんだと思っていた。けどね、子どもというものは、いつかは家を出なくちゃいけないんだよ。石榴の実のようにその家の血を持ったたくさんの種をばら蒔くためにね。私は家族に恵まれたから、当たり前のように幸せな自分の家庭を築けるものだと思っていた。私はどこで、何を間違ったんだろうねぇ…。
 賢造、私は、自分の口からは不幸だなんて言葉は決して言わないよ。ただね、あの子には悪い事をしたかも知れないと思うよ。間違った事をしたかも知れない。だから…お願いだよ、あんたはあの子の側にいて、あの子をずっと守っておくれ。幸せになれるようにしてやっておくれ…」
 いつの間にか賢造の方へ乗り出すようにして大叔母はカタカタと小刻みに震えていた。不自由な左手を賢造の方へ出そうとしているようだった。賢造はその震えるだけで動かない左手を握って、
「分かった。約束するから、落ち着いて」と興奮し始めた大叔母を宥めて立ち上がった。
 絶対様子がおかしい。誰かを呼んだ方がいいと電話機の方へ歩き出した時、エレベーターホールから大叔母専任の家政婦が入って来るのが見えた。急いで彼女に歩み寄り大叔母の様子を伝えると、ちょっと首を傾げ疲れたのじゃないかと言った。
「喋り過ぎるとお疲れになるみたいですよ」と言って家政婦は意に介した様子もなく夕食の支度を始めたので、それを潮に賢造は「また来るね」と言い置いて後ろ髪引かれる思いで長瀬の家を後にした。
 この時、賢造は大叔母の気持ちを理解するまでには至らなかった。彼女の隠された胸の内を知らなかったからだ。ただ、昔交わした約束と共に、彼女の語った一言一句は胸の中に深く刻まれて残り消える事はなかった。
 その夜、携帯で修二に連絡を入れ昼間の大叔母の様子を伝えると、ちょっと息を呑んだように沈黙してから探るように「それ、誰かに喋った?」と訊かれた。家政婦以外に言っていないと答えると、
「お願い。誰にも言わないで」と懇願された。
「いいけど…病気が進行してるって事じゃないよな」
 心配になって訊くとまた沈黙が続いたが、「違う」と修二がきっぱりと否定したので了承して携帯を切った。
 修二の様子もおかしいとは思った。問い質した方がいいのだろうかと迷ったが、入院中も大叔母本人に拒否されて見舞った事がなかったし、脳卒中の人の病後の様子など知らない自分が口だし出来るものでもないと諦めた。
 そのまま期末試験に突入し、賢造は余計な事は全て頭から追い出して何時になく真剣に臨んだ。進級がかかっているだけあって皆必死だったらしく、試験が終わると反動のように羽目を外そうと悪友たちに誘われた。夏休みは目前だったし、賢造もどこか浮かれていた。付き合いの悪くなった賢造が快く誘いに乗ると、みんな喜んで賢造を遊びに連れ回した。
 異変が起きたのは試験休み中だった。
 店の手伝いもせず遊び呆けていた賢造に母親の雷が落ちて、仏間で正座させられて仰々しい霊前の前でお小言を聞かされている最中に賢造の携帯が鳴った。
 けたたましい電子音に慌てて尻ポケットから携帯を取り出すと母は益々目を吊り上げたが、電話の相手が『長瀬優一』だと確認すると仕様がないと言った顔で賢造を解放した。
 助かったと思いつつ滅多にない優一からの電話に戸惑いながら携帯に出ると、久しぶりに聞いた優一の声もひどく困惑して響いた。
「あ…賢造? あの…悪いんだけど、ちょっと家に来てくれないかな…」
「いいけど…何? どうかした?」
 てっきり、大叔母に何かあったのだと思った。見舞うと約束していたのに、またすっぽかしてしまったなと心苦しくなったが、修二ではなく優一から連絡が来たのが解せなかった。
「う、ん…。修二がね、部屋に籠もってて出てこないんだ。食欲ないって言って食事も取らないし…。何を訊いても答えないし、こんな事初めてだろう? 母さんが心配しちゃって大変なんだよ――」
 優一が全部話し終わる前に、分かったと言って通話を切った。賢造はサンダルを突っかけると
「修んとこ行ってくる!」と叫んで陽炎が立ち上る表へと駆け出した。

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