INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈4〉

「賢造は好きな子がいるの?」
 修二の質問に、賢造は飲んでいたコーラの缶を危うく落とすところだった。
 日曜日の昼下がり、久しぶりに修二が賢造の部屋へ遊びに来ていた。梅雨時には珍しく外はからりと晴れていたが、その分暑くて出かける気にはならなかった。
 修二が来るとクーラーを入れても怒られないから、これ幸いとガンガンに涼しくして、賢造はだらしなくベッドの上に寝っ転がっていた。修二はベッドに凭れて床に座り、賢造が学校の図書館で借りた海外の推理小説を読んでいた。
 家にいた千賀子が祖母の代わりにお菓子とジュースを運んでくれて、ついでに有無を言わさずクーラーの温度を上げると賢造を睨みつけ、修二には「ゆっくりして行ってね」とにっこり微笑んで出て行った。
 賢造は舌打ちしながらコーラを開け、行儀悪く片肘ついた格好で一口飲んだ直後だった。修二はまるで「明日も晴れるかな?」と言った口調で、ぽいっと爆弾を投げて寄越した。
 ごくっとコーラを飲み下した後、えっ、何で、どうしてと賢造の頭の中で疑問符が駆け巡った。千賀子が入って来るまでは期末試験の話をしていた。自分には進学を左右する試験だから気が抜けないと。そんな話からどうして “ 好きな子 ” に展開するのだろう。バレたのだろうか?
 賢造は何故かひどく後ろめたい気持ちに襲われて、心臓がどきどきと早鐘を打った。冷静さを装って「何で?」と逆に問い返すと、修二は読んでいた本から顔を上げて振り向いた。
「お祖母ちゃんが、最近賢造がうちに来ないのは、好きな子でもできたんだろうって言ってたから…」
 上目遣いで賢造を見上げる非難の籠もった眼差しに、心拍数は更に上がったが、大叔母の言った事だと分かり少しだけほっとした。
「行けなかったのは…部活最後の試合があったし、もうすぐ大事な期末試験があるし…」
 賢造は飲む気の失せたコーラの缶を差し出して修二の足下のテーブルに置いてくれるよう頼んだ。修二は缶を受け取ってテーブルに置くと、わざわざ身体の向きを変えてベッドに躙り寄り、濡れた飴色の瞳でじっと賢造を見上げた。
 修二は時々こうしてじっと賢造を見詰めるが、その度に心がざわめいてどこか落ち着かない気分になった。自分の質問に答えていないと不満げな表情に、賢造は余計な事を言った大叔母を思い浮かべ、勘弁してくれと小さなため息をついた。
「好きな子なんていない。そんなの、婆さんの冗談に決まってる」
 嘘は言ってない。好きな子なんかいないし、忙しかったのも本当だ。最近付き合っていた娘とも碌な付き合いも出来ないまま、忙しさを理由に別れてしまった。
 中間試験が終わってすぐ韓国への修学旅行があり、水球部の地区大会予選が始まり、試合そのものはすぐに大敗して終わったのだが、気がついたら高等部進学のための大事な期末試験が間近に迫っていた。賢造が長瀬の家に行ったのは、韓国旅行の土産を届けに行ったのが最後だった。
「ふ〜ん…」
 修二は納得したのかしないのか、曖昧に鼻を鳴らしてベッドに顎を乗せ目を閉じた。頬の上に長い睫毛の影が落ちる。修二の長く形の良い鼻筋を見る度に、美術の教科書に載っていたロダンの “ パンセ ” のようだと思った。
 賢造はそっと指を伸ばして白く輝く大理石のような頬に触れようとしたが、途中で思い止まると代わりに額に指を合わせてパシッと軽く弾いた。
「痛っ!」
 修二はすぐに起き上がり額に手を当てて賢造を睨んだ。
「何か言いたい事があるんだろ?」
 賢造は胸に込み上げる不安を押し殺して、笑いながら「どうしたんだ?」と、もう一度問いかけた。
 まさか修二の口から “ 好きな子 ” の話が出るなど思いも寄らず心底驚いたのだ。大叔母の入れ知恵からの科白なのだと分かっても、自分の取った態度から勘の良い修二は何かを察したかも知れないし、会わずにいた間、逆に修二が色気づいたとしても(そんな暇はなかったろうと思うけれど)おかしな話じゃない。何を言われるか予想が出来ない分、本当は訊きたくないのだが訊かずにはいられなかった。
 修二は額を擦りながら眉尻を下げ「お祖母ちゃん、寂しそうだから会いに行ってあげて…」と呟いた。
 そんな事だろうと思った! 否、そんな事で良かったと、賢造は今度こそ深い安堵の息を吐いた。
「婆さん、具合悪いのか?」
「ううん、最近はだいぶ良いみたいだよ。でも、やっぱりね…。だから賢造が会いに行ってあげたら喜ぶと思うんだ」
「何で俺?」
「だって、賢造はお祖母ちゃんのお気に入りだから」
「俺がぁ?」
「そうだよ。僕より好きだと思うよ、賢造の事」
「そんな事はないだろ…。婆さんにとっちゃ、お前が一番可愛いだろうが」
 修二は賢造に返事を返さず、目を伏せるとそのままベッドへ突っ伏した。今度は叩かれないようにか、賢造から反対の方へ顔を向けている。
 いつにない拗ねた態度に戸惑うが、疲れたようにぐったりと脱力した修二の姿に、大叔母の看護で疲れているのだと気がついて哀れになった。
 賢造はもう一度手を伸ばし、今度は躊躇わずに栗色の髪を指で梳きながら労るように頭を撫でた。
「近いうちに、時間を見つけて必ず行くから。試験が済んだら修はすぐ修学旅行だろ。その間は出来るだけ俺が行くようにするから…」
 そんなに根を詰めるなよと、続く言葉は言わなかった。言えば、そんな事ないと言い返すだろうから、黙って優しく頭を撫で続けた。
 賢造は細いが意外に腰のある修二の髪を触るのが好きだった。小さい頃から修二が元気のない時は、必ずこうして頭を撫でてやった。それだけじゃない。勉強や遊びを教えていて修二が上手く出来た時、胸躍る楽しい事があった時、試合やゲームに負けて悔し涙を流している時、抱き合ったり肩を抱いたりして気持ちを分かち合う事は、二人の間ではごく普通の仕草だった。
 女の子と付き合うようになってから初めて、このスキンシップの取り方はさすがに考えものかと思ったが、小学生の時と同様、自然と身体を触れ合わせてくる修二を急に拒むのも躊躇われた。
「うん…」
 撫でられて気持ちが良いのか、眠そうな声で生返事をする修二に「寝るならベッドで寝ろよ」と声をかけると、う〜んと声を上げるものの頭はベッドにつけたままで、無精にも腕だけ賢造に伸ばして来た。
 賢造はため息をついて起き上がると、修二の脇の下から腕を入れ抱えようにして引っ張り上げた。修二は自分の足で起きるつもりだったのか、賢造が『軽い』と思った時には遅く、勢い余ってそのまま二人してベッドの上に倒れ込んだ。
 古いベッドは勢いも加わった少年二人分の重みに、冷や汗が出るような恐ろしい音を響かせたが、崩壊するような事はなかった。それでも階下の店の方へ音も振動も伝わったに違いない。
「やべぇ。親父に怒られる…」
 仰向けに倒れた賢造は情けない声で唸ったが、その腕の中にすっぽり収まった修二は可笑しそうにクスクスと笑いながら「ごめん…」とちっとも誠意のない謝罪をして笑い続けた。
 賢造が人事だと思ってと、恨めしげな目をして修二を見ると、悪戯な笑みを浮かべたままコロリと転がって賢造の上から降り、そのまま背中を向けて行儀悪く足でタオルケットを引き上げている。
 ベッドが心配な賢造は修二と昼寝をする気はなかったが、ちゃっかり賢造の腕を枕にしたまま寝る体勢に入った修二は、賢造を解放してくれる気はないらしい。暫く逡巡したものの、諦めて目の前にある修二の髪を反対の手で梳いてやると、幾らもしないうちに静かな寝息が聞こえてきた。
 修二が誰にでも過度のスキンシップを取るのならすぐにでも止めさせるが、こんな甘ったれた所やだらしない姿を見せるのは、田辺の家に遊びに来た時だけ、特に自分と実の祖母の前くらいだと知っている賢造は、そんな修二が不憫でとても駄目だと言えなかった。
 こうして修二を腕の中に抱いても、賢造は何の違和感も感じない。それは幼い頃からの二人の育ち方のせいで、これがよく知らない同級生の男だったりしたら、きっとぞっとするだろうと思う。賢造はホモセクシャルの人々に偏見を持つつもりはないが、事が自分に関わってくるとなると自ずと違ってくる。
 何の実りもない恋愛ごっこを繰り返している賢造が、女の子と付き合って良かったと思ったのは、自分の性嗜好が標準だったと確認出来た事だ。
 まさかと思いながらも、修二の中に未だ初恋の面影を探しているとしたら、自分はそちらの嗜好性を持った人間なのかも知れないと一抹の不安があった。それが、女性の身体や器官に対してごく普通に反応し、あまつさえそれを楽しめたのは、後ろめたさを感じつつも男として正直嬉しかった。
 但し、修二をそういった対象として自慰を試みた事は一度もない。そう思う前に、そんな想像をする事自体が修二に対する冒涜だという精神的ブレーキが働いて出来なかったからだ。悪友からはドンファンと揶揄されても仕方がない行動を取って来た賢造だが、性のモラルは人一倍潔癖だった。
 賢造は眠ってしまった修二の頭に自分の額を押し当てて目を閉じていた。眠り始めた修二の体温は高いが、クーラーが効いた部屋では丁度いいくらいだった。その熱を一番感じている腕が、ジワジワと痺れ始めている。そのうち痺れすぎて何も感じなくなるだろう。腕と同じくらい何も感じなくなるように、賢造も眠りの中へゆっくりと落ちていった。


 中学生になって賢造から会いに行く回数が減ると、今度は修二の方から田辺の家へ頻繁に会いに来るようになった。それは大叔母が倒れてからは尚のこと、ほんの少しの時間でも賢造が家に居れば必ず会いにやって来た。
 そんなに苦労してやって来ても特に何する訳でもない。大抵は本を読んだりお菓子を食べながら、ぽつぽつと長瀬の家の話をする。その殆どは自分の母親と大叔母の美弥子に関した事だった。
 修二を取り戻した母親の智子に不満はない筈だったが、もともと犬猿の仲だった二人の関係は年々拗れていった。修二はいつも智子と美弥子の板挟みになって苦労していた。どっちの肩を持っても、後で気まずい思いをするのは修二自身だったからだ。
 そんな二人がいない田辺の家は、修二にとってつかの間息をつける避難場所であり、どこにも持って行けない想いを吐き出せる唯一の相手が賢造だった。
 積年の恨みなのか、智子は特別な行事、お正月であるとか誰かの誕生日であるとか以外、美弥子と食卓を囲むのを拒否していた。勿論、美弥子の食事も初めは毎食きちんと用意していたが、茶道と華道の教室を開いていた美弥子は生徒と食事を取る機会が多く、いつの間にか美弥子の食事は朝と夜の分しか出さなくなった。
 離れには小さな台所が付いていたが、資産家の箱入り娘だった美弥子は自炊などした事がなく、一人の時は外食せざるを得なかった。それでも、美弥子は敢えて文句を言わなかった。もともと食い道楽な質で、外食はさほど苦にならなかったからだ。それ以外は必ず賢造の家、『田屋』から出前を取って蕎麦ばかり食べていた。
 そんな生活が長年続き、偏った食生活が原因かは不明だが、美弥子が高血圧の果てに脳卒中を起こした直後から、田辺の家と長瀬の家にも目に見えない亀裂が生じた。
 前々から賢造の母親、寿子は美弥子の境遇を気の毒に思っていたし、その夫である義国は、果たすべき役割を修二に負わせている弟の義治を苦々しい思いで見ていた所へ、その義治夫婦が美弥子を無視した形で長瀬の家の建て替えを強行したからだった。
 昔の賑わいを失ったとは言っても神田・万世橋界隈の地価は充分高かったし、長瀬家の敷地は周りの土地を買い取らなくても住居兼用のビルを建てるのに充分な坪数を持っていた。随分前から銀行から建て替えを勧められていたのだが、美弥子は頑として首を縦に振らなかった。
 その事で長瀬の家はいつもピリピリとした空気が流れていたが、内輪の揉め事を恥ずかしく思っていた修二は誰にも話さなかったから、田辺の家の者は立て替え工事が始まるまで誰一人知らなかった。
 美弥子が入院してしまうと、義治は独断で銀行から資金を借入し、長瀬物産の店舗と倉庫、住居以外にテナントスペースも含め七階建てのビルへと立て替えた。
 義治にしてみれば、彼なりに長瀬物産を存続させる事に心血を注いできた結果だったが、時期が時期なだけに周囲の理解は得られなかった。美弥子が反対していた頃から工事の青地図は作られていたし、これ幸いと既に美弥子を亡き者として扱っているようにしか映らなかった。
 完成した居住スペースに美弥子の部屋がなかったのだ。正確には同じフロアにないだけなのだが、八階――屋上に、前と同じく離れとしていつでも解体できる形で設けられていた。
 これを見て一番ショックを受けたのは修二だった。両親と美弥子の間で、常に中立であろうとしていた修二だったが、この仕打ちにはさすがに両親に対する憤りを露わにした。
 自分が美弥子の面倒を見ると宣言したのだ。智子が嫌がる事を承知で、修二は退院した美弥子の介護を始め、これが後のち修二と両親――特に智子との溝を深める事に繋がっていくのだった。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA