INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈3〉

 小学校に上がった修二は肩胛骨まであった綺麗な亜麻色の髪をバッサリ切り落とし、今までがまるで夢だったように “ 男の子 ” へと変貌した。女言葉は一切使わず『僕』と口にする修二に内心のショックを隠しきれず、賢造は極力修二に会わないようになった。
 初めから男の子だと聞かされていたし、修二の身体に自分と同じ雄の器官があるのを確認していたが、それでも何処かで淡い期待をしていた自分の愚かな恋心を恥じたのだった。
 学校が違っていたから距離を置くのは簡単だった。賢造は幼稚舎から大学まである私立の『青桐学園』に通っていたし、修二は公立の小学校に入学した。修二にとっては大きな生活の変化があっただろうし、賢造はエスカレーター式で押し上がっただけとはいえ、初等部では生徒の数も倍になっていた。
 付き合う子どもの数が増えればそれだけ世界は広がる。甘くて恋しいがもう戻れない想い出の中よりも、学校の友だちと切磋琢磨する日常生活は遙かに刺激的で、日々積み重なっていく楽しい出来事に、少しずつ初恋の “ 修 ” の姿は胸の底へと沈んで行った。
 修二に会うのは週に一度のピアノ教室だけになったが、それも休みがちだった。現実の修二を受け入れたとはいえ、ずっと女の子として接してきた修二に、どう向き合っていいのかよく分からなかった。
 サボれば母親に叱られるから、何かと理由をつけて時間をずらすのだが、気を利かせた先生が修二のレッスン時間を合わせてしまうし、賢造のレッスンが終わるまで修二は必ず待っていた。どんなに待たされても修二は何も言わず、ピアノ室から出てきた賢造に嬉しそうに笑いかけた。それが気詰まりで余計に足が遠のいた。
 辛うじて月に一度でも通っていたのは、修二の様子を見てきて欲しいと祖母に懇願されたからだ。
 祖母は温厚で大人しい人だったが、誰に対しても天下無敵と言った大叔母を従わせる事の出来る唯一の人だった。まだ女の子の格好をさせていた幼少時から、大叔母を黙らせて時々修二を田辺の家に預かっては男の子として扱ったが、それは修二のためというよりも賢造の熱を冷ますためだったようだ。
 祖母は賢造の修二に対する感情を察していたようだが、敢えて二人を離そうとはしなかった。修二にとって賢造の存在が、問題の多い長瀬の家から外へと導く必要不可欠なものだと分かっていたのだろう。
 結局、賢造を引き留めたのはこの祖母で、彼女にとってこの二人の孫たちが、最後の最後まで心配の種であり続けたと知ったのは、その臨終の枕辺だった。
 祖母がピアノの先生にどう話をつけていたのか賢造は知らないが、毎回練習不足を咎められる事もなく、レッスンが終われば先生の私室に、二人のためのお茶とお菓子が用意されていた。その後三十分は帰してもらえない。賢造は仕方なく修二とはたわいない話をした。話がない時は先生に頼んでCDを聴かせてもらった。お陰でピアノは上達しなかったが、クラシック音楽を聴く耳だけは育てられた。
 そんな日々が続いて、九つになる頃には賢造の修二熱はすっかり冷めていた。これで祖母の悩みは一つ解消されたかと思われたが、修二の成長という心配事は残り続けた。
 大叔母にお花を習い始めた母親が、熱を失った賢造に代わって修二の様子を見て来ては、事あるごとに『元気がない』とため息交じりに言うからだ。
「やっぱり男の子の遊びをして来なかったから、身体がついていかないんじゃないかしら。男の子の友だちが少ないみたいなのよね…」
 ぽつりと漏らした母の言葉に賢造は驚いた。きちんとピアノ教室に通って修二との付き合いを続けていたが、友だちが少ない事など知らなかった。修二に対する執着は薄れても、自分以外の友だちの話など訊いて楽しいものではなかったから学校の話題は避けていた。それに、自分の前ではいつも修二は明るかったではないか。
 母親には役立たずと言った目で見られるし、祖母には縋るような目をされて、仕方なくピアノ教室で修二に訊いてみると、確かにあまり外で遊ぶ友だちはいないと言う。よく見れば修二の指は絆創膏と湿布が貼られていてピアノを弾くどころではない状態だった。
「その指、どうした?」
「野球をやっててボールを取り損ねた。突き指…」
「それじゃ、ピアノ弾けないだろう?」
 呆れたように言う賢造に、修二は赤くなって下を向きながら「弾けないけど、教室に行かないと賢造に会えないから…」と消え入るような声で呟いた。そのひと言で、胸の奥で凝っていた黒い固まりが溶けてなくなる気がしたが、替わりに罪悪感が溢れ出した。意識して避け続けていた事を、修二は気づいていたのだろう。
「野球、下手なのか?」
 修二の呟きは聞こえなかった振りをして問いかけると、うん、と目を伏せて寂しそうに小さく頷いた。
「下手だから、いつも外野。ホームラン打つような子はいないから。でも、たまたまボールが飛んできて、もろに右手で受けちゃった。テニスとかサッカーなんかはいいんだけど、野球はどうしてかな、上手くならない…」
 それは付き合ってくれる相手がいないからだと、喉元まで出かかった言葉を賢造は慌てて呑み込んだ。相手をしてやらなかったのは他でもない自分だ。胸の中心がギュッと絞られるように痛かった。
「修、次の日曜空いてるか?」
 久しぶりに “ 修 ” と呼んでいた。修二が目を見開いて賢造を見ている。
「野球、やろう」
 笑いながら付き合えよと囁くと、修二は嬉しそうに破顔して大きく頷いた。
 その笑顔を見ながら、賢造は今までの自分の行動を恥じた。女の格好であろうと男の格好であろうとそれは見た目の問題で、修二本人に全く変わりはないのだ。自分勝手な想いの捌け口を失ったからといって、修二を遠ざけるなど八つ当たりでしかない。自分は修二を何だと思っていたのだろう。
 修二は修二なのだ。初めて会った時から変わらぬ信頼を寄せて、誰より自分を慕ってくれている。そして、その気持ちをいつも素直に示してくれる。理由も言わずに離れようとしていた今も、こうして側にいようとしてくれる。
 それは自分の気持ちとは違うけれど、十分な気がした。諦めなければならない感覚は挫折にも似て辛いものはあるけれど、修二にとって自分が一番親しい従兄弟でいられれば、それでいいと思った。
 腹を決めてしまえば修二に会うのは楽になった。それからはまた、長瀬の家を訪ねるようになった。

「これ、田辺のお姉さん? 綺麗な人だね。姉弟でもそんなに似てないね…」
 望月の声にはっとして短くなった煙草を灰皿で揉み消すと、テーブルごしに差し出されたアルバムを覗いた。同じ絣の浴衣を着た男の子に挟まれて夏の白いセーラー服を着た少女が笑っている。
「ああ、姉の千賀子だ。夏休みにうちに泊まりに来た時のだ。うちも、修二のとこも、兄弟はあまり似ていないな。俺は大叔父に、姉は祖母に似てるんだそうだ。皮肉にも俺たちの方が長瀬の家の顔立ちなんだろう。修二は叔父貴によく似てるから田辺の家の顔なんだろうな。優一は叔母に似てる」
「何か、遺伝って不思議だ。そうか、修二はお父さんに似てるんだ…」
「ああ。でもそこに叔父が写っているのははないだろ。それも、他のも、みんなうちから婆さんにあげたものだから」
 望月はふーんと唸ってからまたアルバムを眺めた。
 賢造は温くなったウーロン茶を一口飲むと煙草に火をつけた。チェーンスモーカーの自覚はある。文句を言われないうちに自分でベランダの窓を開けに行った。望月がそんな賢造を見て少し笑った。
 ベランダから駅に続く坂道が見えた。街路樹の銀杏はまだ色を変えきっていない。マンションの植え込みの灯台躑躅だけが秋の色に変わっていて大叔母の箱庭を思い出させた。
 修二を避けるようになってから、久方ぶりに大叔母の裏庭を訪ねて行った時、茶室に居た大叔母はどこかほっとした顔で「よく来たね」と賢造を迎えてくれた。
 その大叔母の様子に賢造もほっとした。小学校入学以来だから、かれこれ三年近く会わずいた。てっきり昔交わした「面倒を見る」との約束を疎かにしたと怒られるのを覚悟していた。神妙な声で「ごめん」と言うと、大叔母は笑っただけで何も言わなかった。
 会わない間にどういう心境の変化があったのか、大叔母は昔と違って修二の行動を制限しなくなった。二人を初めて音楽喫茶『ラベル』に連れて行ってくれたのもこの頃で、まだ小学生ながら二人は珈琲の香りとレコードの柔らかい音に魅せられた。大叔母がいてもいなくても、二人はマスターを訪ねて行くようになり、通う意味のなくなったピアノ教室を止めた後、『ラベル』は二人の新しい溜まり場になった。
 長い休みに入ると、修二は何の気兼ねもなく賢造の家に泊まりに来るようになった。すっかり男の子の生活に慣れた修二と男勝りの千賀子と三人で、毎日暗くなるまで表を駆け回った。時には高校に進学したばかりの優一を無理矢理巻き込んで、親には内緒でゲームセンターや遊園地で遊びほおけた。
 賢造は修二の苦手な遊びを手取り足取り教え込んだ。もともと運動神経は良かったからさほど苦労はなかった。そうして以前より健康になった修二だが、身体は小さく細いままだったから、虐められた時のためにと余計な事――喧嘩の仕方、啖呵の切り方まで教えてやった。
 修二の言葉遣いが悪くなったのは賢造のせいだと母親に叱られたが、賢造は懲りなかった。まるで雛の刷り込みのように自分の全てを真似て吸収する修二が可愛くて仕方がなかった。それは賢造が新たに見出した喜びだった。髪や目の色以外似た所の少ない二人を、そのよく似た喋り方で「兄弟」だと思われるほど修二に影響を与えている事が嬉しかった。
 実際、実の兄弟以上に親密だった。四六時中一緒にいられなかったからこそ、二人の約束事は何より最優先だった。お互いに誰より相手が大切で、それは、この先もずっと変わらない筈だった。崩れ始めたのは、二人が中学生になってからだった。
 中学に進学すると賢造の日常は俄に忙しくなった。比較的のんびりした初等部とは違い、部活は必ずどこかに所属しなければならなかったし、委員会なども頻繁にあって平日に修二と過ごせる時間は殆どなかった。修二の方も合気道やお茶とお花の稽古で忙しかったからお互い様だったが、それでも一年生のうちは以前と同様、休日の予定はお互いを最優先にしていた。
 それが出来なくなったのは、二年に進級してから、修二は家の事情――大叔母が脳卒中で入院したからで、賢造は個人的な事情―― “ 彼女 ” が出来たからだった。
 大叔母が倒れる少し前、賢造は中等部の近隣にある女子高の生徒に待ち伏せされ、付き合って欲しいと交際を申し込まれた。
 相手は顔こそ知らなかったが、時々級友の噂話に出てきたので名前だけは知っていた。綺麗だと専らの評判だったが、実物を見て咄嗟に浮かんだのは、修二の方が綺麗だなという感想だった。派手なところはなく清楚な風情で恥ずかしそうに伏せた睫毛の作る陰影が、修二と同じくらい深いのに心を惹かれたくらいで、感じるものは少なかった。
 相手が年上な事もあったし、自分にはまだ早い気がして断るつもりでいたのに、不意にその娘と修二を比べている自分に気がついて愕然とした。自分でも驚くほどに狼狽えて、小首を傾げて不安そうに見詰める彼女を前に散々逡巡した挙げ句、「友だちからなら」と答えていた。
 賢造は鳥肌が立った。彼女を誰かと比べて値踏みするとしたら千賀子と比べる方が自然な筈だった。それを無意識に修二と比べていた自分に驚いて混乱した。
 修二は中学生になっても相変わらず華奢なままだったが、背丈も手足もすらりと伸びて、女の子のような愛らしい姿から、神話に出てくるような中性的で美しい少年に成長していた。それは、見慣れた筈の賢造ですら時間を忘れて見惚れるくらいだったから、知らず知らず修二が美の基準になってしまったのなら仕方がない。
 けれど、本当はその裏側で疾うに忘れた筈の、初恋の “ 修 ” の面影を探しているのではないか。それは修二の中になのか、まだ現れない理想の女性の中になのか、賢造自身にもよく分からなかったが、分からないからこそ焦り、訳もなく苛ついた。
『誰かを好きになればいい…』
 根拠のないひらめきだった。そうすれば、“ 修 ” の幻影から解放されるかも知れない…交際をOKしたのはそんな理由だった。
 修二と会えずにいた間、その娘とは一通りの手順を踏んでセックスまでしたにも関わらず、半年ほどで別れてしまった。相手には悪いが好感は持てても最後まで好意を持つ事ができなかった。その後も、賢造の恋愛は来る者拒まず去る者追わずの繰り返しで、どの子とも長続きしなかった。
 賢造には好みがないのかと疑われるほど、清潔感があって好感が持てれば断らなかったから、高等部に進学する頃には悪友の間で “ ドンファン(雑色家) ” などと有り難くない渾名を頂いていた。
 この頃の賢造は、既に身長は百七十に手が届くまであって、学年で一、二を争う体格になっていた。水球部で鍛えた逆三角形の身体と鼻筋の通った秀麗な面立ちは、同じ学校の男子ですらため息を付かせる程で、やれ『女たらし』だの『百人切り』などと、羨み半分憧れ半分の根も葉もない噂話を囁かれていた。
 賢造には相手の子と不真面目に付き合っている気持ちはなく、告白される度に「今度の娘は好きになれるかな」と期待しているのだが、ある一定の期間が過ぎても好意を持てなければ見切りをつけてしまうのである。勿論それほど深い関係は持たないし、それは最初に相手にも伝えてあったので、別れ際に拗れる事は一度もなかった。
 何とも情のない別れ方をする割にアタックする女子が後を絶たなかったのは、賢造の見て呉れと、あわよくば憧れの『青桐学園』の男子と簡単に付き合えるという期待からだった。
 修二には女の子と付き合っている事を話さなかった。大叔母は命に別状はなかったが、左半身と言語に軽い障害が残った。大叔母の容態が安定してからはまた修二と二人で過ごす時間が持てるようになったが、大叔母の看護で忙しい修二に、そんなくだらない話をするのが躊躇われた。
 隠すつもりはなかったが、時間を置けば置くほど話すタイミングを逸してしまい、そのうちに、二人の間でこれまで一度も女の子の事や性的な話をした事がなかったのだから、言う必要がないのだと思うようになっていた。思えば、不思議と昔から悪友とは自然と交わせる猥談を修二とはする気になれなかった。
 理由は深く考えなかった。否、考えないようにしていた。自分の恋愛が長く続かない――好きになれない事も、修二の事も、心に出来た綻びに気づかない振りをして、全てを成り行き任せにしていた。
 そのツケが一気に降り掛かって来たのは、中学三年の夏休みに入る少し前だった。

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