INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈2〉

 部屋の主はインターフォンごしの声とは裏腹に、不機嫌な顔をして出迎えた。
 普段は修二がいる時にしか会わないようにしているから、いつにないあからさまな態度に呆れ返って笑いが込み上げる。修二によく怒られるが、ついからかってしまいたくなるのは自分の性格のせいだけではないと賢造は思っている。
 望月はソファを勧め、一旦奥へ引っ込むとビールと灰皿を持って戻ってきた。無言でそれらを賢造の方へ押し出すと、向かいの席に腰を据えてさっさと自分のビールを開けている。笑いを堪えて賢造もビールを手に取った。どうぞのひと言もないくせに、こちらが開けるまで飲むのを待っているところがこの男らしい。ついに口元が緩んでしまった。
「何が可笑しい?」
「いや、悪いが車で来ているから、他のを貰っていいか?」
 言いながらビールの缶を差し出すと、望月は慌ててビールを受け取って台所へ消えた。
 望月の事は高校生の頃から知っているが、今の姿はまるで別人だ。あれから十年経つのだから当たり前なのかも知れないが、再会した時は良い意味で期待を裏切られた。
 話をした上で、賢造はこの男に賭けてみる気になったものの、本心を言えば、修二が想いを寄せている相手というだけでは心許なかった。悪い男ではない。だが若気の至りとはいえ一度は逃げた男だ。修二を任せるに足りる器量があるかどうか散々揺さぶりをかけたが、望月はねちっこい程の粘り強さを見せて食い下がった。結果は、期待していた以上のものになったが…。
 今の修二を見る限り、賢造は望月を認めてはいる。だが心配がない訳ではない。修二に対する執着が半端ではないのだ。それがいつか修二を苦しめる事になりはしないかと危惧している。
 暫くして望月は氷を浮かべたウーロン茶らしき液体が入ったグラスを手に戻って来て「どうぞ」と賢造に手渡した。
「ありがとう」
 礼を言うと、望月は驚いた顔をして賢造を見た後、何故か赤い顔をしてばつが悪そうに咳払いした。
「修二のいない時に渡したい物って、いったい何?」
 早速本題を切り出され、賢造は飲んでいたウーロン茶のグラスを置いて持参したアルバムを差し出した。望月は訝しげな顔をしながら受け取ったが「これ、アルバム?」と訊いたあと、どこかで見たことがある気がすると呟いた。
「へぇ、よく覚えていたな。すごい記憶力だ。高校生の頃、学校でこれを修二に渡しているところに、アンタ、来ただろう?」
 このアルバムに見覚えがあるのなら、やっぱりあの時の遣り取りを一部始終見ていたのかと思ったが、それは口にしなかった。恐らくこの男は、あの時から修二に夢中だったのだろうから。
「これは大叔母の遺品だよ。あの時、修二に受け取りを拒否されてずっと俺が預かっていた。アンタら吉田の結婚式のあと金沢に行くんだろ? だったら、もう受け取って貰えると思って持ってきた」
 賢造の台詞を聞いて望月は不思議そうに首を傾げた。
「どうして修二に直接渡さないんだ?」
「受け取るだろうというのは、俺の推測だからさ。だけど、アンタから渡して貰えれば、素直に受け取るんじゃないかと思ってね」
「よく分からないけど…渡しておくよ。中を見てもいいかな?」
 勿論と答えると、望月は足を組んだ膝の上にアルバムを載せ、慎重な手つきで頁を開いた。
「うわっ、可愛い! 本当に女の子みたいだ…」
 感嘆の声を上げて写真に見入っている望月を眺めながら賢造は煙草に火をつけた。
 賢造にとって、その頃の修二は “ 女の子みたい ” ではなく “ 女の子 ” だった。
 “ 綿菓子 ”  それが修二の第一印象だった。茶色い後れ毛がふわふわと風に揺れて、同じ色の瞳は甘露飴のように艶々と光っていた。近づくと本当に甘い香りがしたが、それが白粉の匂いだと知ったのは随分あとだ。
「あんなかわいい子、見たことない! チカちゃんよりも百倍かわいい!」
 家に帰って開口一番、言った瞬間姉の千賀子に叩かれた。幼稚舎に上がるまで賢造の遊び相手は四歳年上の千賀子とその友だちしかおらず、その中では千賀子が一番可愛いと思っていた。それも修二を見るまでの話で、あの時から他のものは全て色褪せて見えた。
「やっぱり男の子よねぇ」と母親は笑ったが、「従兄弟同士は結婚できるよね?」と何度も尋ねる賢造に、祖母はいつも困った顔をしていた。
 賢造はふーっと長く煙を吐き出すと、七五三の時の写真だと教えてやった。
「初めて会ったって言ってた時の?」
 望月の記憶力の良さに改めて感心する。
「そうだ。実際は赤ん坊の頃から行き来があったが、三つの頃、長瀬の家は揉め事続きで往来をはばかったんだ。だから、記憶にあるのはそこからだな」
「修二は本当に、二歳の頃からお祖母さん…大叔母さんか、この人に育てられたのか?」
「否、その時はまだ子守程度に預けられていただけらしい。二歳じゃ子育てした事のない人間には手に余るからな。叔父も叔母も最初は教育上の口出しをされるだけだろうと思っていたらしい。それが、四つになる少し前くらいだったかな、誓約書付で金と引き替えに修二を離れの自室に連れてっちまった」
「何でそんな強引な…」
 望月は憤慨したように言ったあと、アルバムを捲りながら痛ましそうな顔をした。
「……似てるんだそうだ。大叔母の末弟と。その弟ってのが生まれた時から病弱で、五つになる前に近所の子どもに移された麻疹で亡くなったんだそうだ。叔母たちは修二を普通に幼稚園へ入れるつもりでいたが、大叔母は病気が移るかもしれないから、そんな所に行く必要はないと言って大揉めに揉めて平行線。業を煮やした婆さんが強硬手段に出たのさ」
「確かに未だに幼い子の死亡率は高いけどね…この大叔母さん、時代錯誤も甚だしいな。医者を父親に持つ身としては、ちょっと信じがたい話だ」
 呆れたように呟く望月に、賢造は苦笑して頷いた。
「その通りなんだが、修二は気管支が弱くてしょっちゅう熱を出していたからな。まあ、病気云々は建前で、大叔母としては唯一自分に懐いて頼ってくれる存在を、片時も側から離したくないってのが本心だったんじゃないのかな」
「じゃあ、修二は幼稚園には行かなかったんだ」
「ああ。その代わり大叔母が生業にしている茶道、華道、それに習字、算盤、礼儀作法を教えていた。それでも『同年齢の子どもとの接触は必要だ』と叔母が言い張って、俺に白羽の矢が立ったのさ。修二にとって俺は従兄弟であると同時に、初めての “ おともだち ” って訳だ」
「ふんっ…」
 望月は上目遣いにチラッと賢造を一瞥すると、気に入らないという風情で鼻を鳴らし、アルバムを睨みつけながら言った。
「まさか修二は、小学校に入るまでお前としか遊ばなかったなんて事、ないよなぁ…」
「それはさすがに…。叔母のたっての希望でピアノ教室に通っていたんだが、そこの先生が叔母の友だちで、事情を説明して待ち時間に他の生徒と遊べるようにして貰ってたんだ」
「あっ、本当だ。ピアノ弾いてる! 修二、ピアノ弾けたんだ…」
 驚いたように顔を上げた望月は何とも言えない複雑な表情を浮かべた後、物問いたげな顔をして賢造を見たが何も言わずにアルバムに目を戻した。
「十歳で止めてしまったからな。今も弾けるだろうが上手くはないだろ。だから黙ってたんじゃないのか。下手にアンタに話せば『修二のピアノが聞きたい』とか言うだろう?」
 望月の声音を真似てわざとらしく言ってやると、図星だったようで赤くなって俯いた。
「どっ、どの写真を見てもスカート履いてるのに、ピアノの…発表会? これは珍しくズボン履いてる」
 賢造は望月が話題を変えた事に内心ほっとした。自分もその教室へ通っていたなんて話をするれば嫉妬深い望月の事だ、後で修二を責めかねない。
 幾らも吸わないうちに灰になってしまった煙草を灰皿に押しつけてウーロン茶を一口飲むと、透かさず新しい煙草に火をつけた。望月は顔を顰めたが何も言わなかった。
「家ではスカートか着物を着せられていたが、さすがに外へ出す時はズボンを履かせていた。今でも覚えている。いつも黒か紺のウールのズボンだったな。あいつはお仕着せを嫌がらないだろう? 着る物に頓着しないのはこの時の影響だろうよ。婆さんは自分の古い着物を仕立て直しては修二を着せ替え人形にしていたが、あいつは文句一つ言わなかった」
「手元で育てるのは別にして、どうして女の子の格好をさせなきゃならなかったんだ?」
 尤もな質問だった。望月はまるでそう仕向けた張本人を見るような非難の目を向けて賢造を見た。
「身体の弱い子を女として育てる風習…らしいがね。本当は、修二を取り返されないため…かな」
「取り返されない?」
「叔母は女の子の格好をしている間は修二に近づかなかったし、叔父にしろ兄貴の優一にしろ、スカート履いてる修二を外に連れ出すのは外聞が悪いだろ。着物じゃ尚更だ。女装は修二に誰も近づけさせない手段だった…と俺は思ってる」
「酷い…」
「そうだな。でも、いつまでもそんな事を続けられる訳がない。婆さんだって弁えてた。小学校へ上がる少し前に修二を返して寄越したよ」
「もっと酷いよ! 修二は物じゃない! そんな酷い事よく平気で…」
 平気…だった訳じゃない。手放すのは大叔母が一番辛かった筈だ。酷い事を承知で、ああでもしなければ手に入れられなかった幸福な時間。それを縁(よすが)に残りの人生を過ごしていた大叔母の孤独など、望月にはきっと一生解らない。
 賢造は望月の非難を何処か遠くに聞きながら、修二が “ 男の子になった日 ” の事を思い出していた。
 幼稚舎から帰り、いつものように裏庭を通って大叔母の離れに行くと縁側に男の子が座っていた。薄い栗色の短い髪と青いトレーナーにジーンズを履いて、草履を突っかけた足を行儀悪くぶらぶら前後に揺らしている。障子の放たれた茶室に大叔母の姿は見えずその子が一人いるだけだった。
 誰だろうと訝しく近づく賢造の足音に気づいて上げたその顔は紛れもない修二だった。
「修…」
 驚いて声を上げた賢造に、修二は恥ずかしそうに、それでいて嬉しさを隠しきれずに微笑んだ。賢造はその顔を夢から覚めた心地で、唯ただ呆然と眺めた。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA