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今日の良き日に 〈1〉

※ 本編『一握の砂』を読んでからどうぞ。

 古い民家に挟まれてその私道はひっそりと奥へ続いていた。
 舗装はされていない。丸い飛び石が誘う先には格子戸が開け放たれ、庭の中へと続いている。猫の額ほどの小さな庭は、島に見立てた庭石と白い玉石の枯山水。その奥に植えられた灯台躑躅(どうだんつつじ)の燃えるような赤い色との対比が鮮やかだった。
 ああ、秋の頃だ。十一月になるといつもこの色に染まるのだ。賢造の胸は懐かしさに包まれた。
 見上げると格子戸のすぐ側に、細い枝に人肌色の丸い実をつけた石榴の木が目に止まった。木の実は熟して弾け中が見えている。西洋の石榴と違ってそれほど赤くない。グロテスクとまでは言わないが、いつ見ても美しい果実だと思えなかった。
『あんたが、義国さんとこの子かい?』
 聞き覚えのある低くて穏やかな声に、賢造はこれが夢だと確信する。いつもの夢を見ているのだと。
 振り向くと利休鼠(りきゅうねず)色のお召しを着た六十代の大叔母が見下ろしていた。
『ちょっと待っておいで。修、修?』
 細長い庭はそのまま母屋の方へ続いている。枯山水の庭とは趣を変えて椿や山茶花、金木犀など背の高い庭木が所狭しと植えられていた。大叔母はそちらへ顔を向けたまま小さなため息をついた。
『修はその辺にいる筈だけど、ちょっと拗ねているからね…。そうだ…』
 一旦縁側から部屋へ入り、幾らもしないうちに戻ってくると手にした鋏で石榴の実を切り落とした。
『これを持って行ってご覧。たぶん山茶花の裏あたりに隠れていると思うから』
 小さな肌色の果実を手渡され、にこやかに笑う老女を眺めた。年代の割には若く綺麗だと思ったが、さほど親しみは湧かなかった。不意に図書館で読んだ『西遊記』に出てきた鬼子母神を思い出し、両腕に鳥肌が立った。挿絵の鬼子母神によく似ていると思ったからだ。
 返事もせず受け取った石榴の実を眺めていると、静かな声が降りてきた。
『賢造さんだったね? あんたが来てくれるのを待ってたんだよ。あの子とあんたは従兄弟同士だ、これから末永く面倒見てやっておくれ』
 背中を押され、仕方なく山茶花の木に近づいた。赤と白が混ざり合った小さな花が咲いていた。風が吹いて孟宗竹の葉を揺らし、ざわざわと耳元を通り過ぎていく。濃い緑の葉陰から黒と赤がひらひらと見え隠れする。ゆっくり後ろへ回り込むと薄茶色の頭が覗き同じ色の丸い瞳と目が合った。
『あなた、だあれ?』
『おれ、けんぞう。たなべけんぞう』
 名乗りながら石榴の実を差し出すと、不安そうな顔が見る間に緩んだ。石榴を手にして笑った顔を見た瞬間、世界から音が消えた。無音の中で目の前の桃の花のような小さな唇が、『わたしは、しゅう』と動くのをただじっと見詰めた。


 目を開けると光を薄く反射した灰色の天井がぼんやりと見える。夢を見た日の朝は、少し怠くて目覚めが悪い。もう一度目を閉じて、左手の指でこめかみを押しながら足首を曲げたり伸ばしたりすると、だんだん頭の中がはっきりしてくる。
 田辺賢造はゆっくり上体を起こしてベッドサイドの時計を見た。八時十五分。休日でもいつも七時に起きるから、寝過ぎたのも怠さの一因かもしれない。
 随分久しぶりに見たなと思う。学生の頃は同じ夢をもっと見ていた。社会人になった今は毎日が忙しく、短い睡眠時間では夢など見る暇もない。お陰でここ一、二年は見た記憶がなかった。
 子どもの頃の夢だ。七五三の日に修二と会った時の記憶。こんな夢を見た原因は分かっている。昨日の夜、大叔母の残したアルバムを見たからだ。
 今日はこれからそのアルバムを修二に渡しに行く。と言っても本人にではない。大学で助手をしている修二は、片桐教授のセミナーがあるため不在の筈だ。家にいるのはもうすぐ修二の連れ合いになる恋人の男だ。
 賢造が望月聡と二人きりで会うのは、彼らがまだ縒りを戻す前、修二に会うべく奔走した望月が、ようよう訪ねて来た時以来だった。あれからもう一年以上経つ。
 あの時、賢造は修二の諦めかけた人生を取り戻させるべく望月に賭けてみるつもりでいたが、その先にこんな日が待っていようとは、当の賢造自身予想もしていなかった。
 右手で無意識に髪を掻き回しながら欠伸ともため息ともつかない息を吐く。賢造は怠そうにベッドから這い出して出かける支度を始めた。
 カフェ・オ・レにクロワッサンだけの簡単な朝食を取って部屋を出た。愛車で通い慣れた道を走る。休日だが混んでいなければ三十分もかからない。信号待ちで止まる度、助手席に置いたアルバムを眺めた。
 西陣織の帯を崩して誂えた古い大叔母の遺品。本当はもっと早くに渡すつもりでいた。高校二年の夏に大叔母が亡くなった時に預かったまま、十年経った今日まで渡しそびれていた。それを渡す決心を付けさせたのは、守口今日子の突拍子もない提案だった。
『私ね、修二くんたちに結婚式を挙げさせたいの。田辺くん、どう思う?』
 初めてその提案を聞いた時、賢造は呆れて声も出なかった。
 修二を望月に奪われた吉田保と一年かけて旧の鞘に収まった今日子は、十一月の下旬に結婚式を挙げる予定でいる。その彼女たちの披露宴のあと、二人の仲を知っている者たちだけ残って、結婚式を挙げさせたいと言うのだ。如何にも女が考えそうな事だと思った。
 まともに取り合う気持ちにもなれず、どう思うと言われても式を挙げるかどうかは当事者同士の問題で、自分に訊かれても答えようがない。そう言うと『じゃあ、いいのね?』と訊かれた。
『じゃあ、修二くんがお式を挙げると言えば、貴方はいいのね?』
 一瞬、返答に詰まったが、ああ、と答えた。相手の望月という男は、変にロマンチストなところがあるから了承するだろうと思ったが、修二なら固辞するだろうと高を括ったからだ。
『じゃあ、田辺くんの了承は得られたから、これから二人に聞いてみるわ』
 勝手な事を言うだけ言って弾んだ声が携帯の向こうに消えたあと、数秒経ってよく吉田が同意したものだと思った。だがすぐに思い至って苦笑が漏れた。大方けじめを付けろとでも言われたのだろう。どうやら吉田の手綱はしっかりと今日子に握れているようだ。
 男同士の結婚式など、ふざけた話だと思ったが、彼女の提案が修二たちへの乙女チックな発想からの干渉ではなく、自分たちの結婚の総仕上げとして必要なセレモニーの一つなのだと思えば納得出来た。
 関係のない自分にまで念押しするように訊かれたのには驚いたし、少し不愉快でもあったが、実現しそうにない提案の事など、すぐに賢造の頭から消え失せた。そう、ほんの二日前まで。
 今日子たちの結婚式を一週間後に控えた一昨日の夜、再び携帯が鳴った。今日子の名前を確認し嫌な予感はしたが、まさかと思って出てみれば、案の定、修二が式を挙げる事を了承したと聞かされ頭が真っ白になった。
 賢造は吉田の時と同じ轍を踏んだ自分の甘さにつくづく嫌気が差した。修二が人前でそんな恥曝しな真似を了承すると思わなかったから、その話題を本人に振りもしなかった。ひと言釘でも刺しておけばと思ったが後の祭だ。
 何とか取り乱さずに済んだのは、一度同意した以上今更異議を唱える訳にもいかないし、男同士で本当に結婚が成立する訳もなく、飽くまで “ ごっこ ” なのだし、それで吉田がけじめを付けられると言うのなら、自分が目くじら立てるのはみっともないという二重の意地が働いたからだ。
「修二が了承したのなら、祝ってやらなきゃならないな……」
 複雑な心境で呟いた言葉はどっちつかずで沈んだものになる。どんな風に響いたものか、今日子はそれまでの興奮した様子から急に声を落として言った。
『修二くんに考えさせて欲しいって言われて、ギリギリまで待ってたんだけど、なかなか返事を貰えなくて。こっちの段取りもあるから、これはもう駄目かなって諦めてたんだけど、今日ようやく了承の返事を貰ったの。かなり悩ませちゃったみたい。最初はね、保くんも反対してたの。彼らが自ら望んだ事じゃないから、押しつけがましいって。田辺くんも本当は反対だったんでしょう?』
 即答は避けた。自分は常に修二の味方なのだ。まして二人を取り持ったのが自分である以上、反対などと言える訳がない。
「……どういうつもりなのかな、とは思っていたよ」
『私もね、望月くんから二人の仲を “ 隠さない ” って聞かなかったら、こんな提案しようと思わなかったの。私ね、二人の事、凄いなって思ったのよ。簡単な事じゃないよね。幸い、今は理解者が多い環境で上手くいっているけど、たぶん、これからは厳しい情況の方が多くなると思うの。ご家族はまだ知らない訳だし…。でも、二人の周りには私たち理解者が常に側にいるんだって、二人に示したかったのよ。保くんは分かってくれたみたいだけど、田辺くんはやっぱりおかしいと思う?』
「おかしいとは思わないよ。ただ、理解している気持ちを表そうって発想が、結婚式に結び着くとは思わなかったけどね。まあ、二人が了承したのなら、いいんじゃないかな…」
『そう?』
 今日子の声が急に明るくなって、賢造は内心で苦笑した。結局全員が、否、おそらく望月以外は、今日子に丸め込まれただけだと思うが、彼女の希望を叶えるのも祝いの餞になるのならと諦めて了承した。
 同意に力づいた今日子の楽しそうな声は尚も続く。
『修二くんもね、何だか吹っ切れちゃったみたいで、この際だから新婚旅行にも行くんですって』
「新婚旅行?」
『ええ。二人のお式を挙げたら、私たちの二次会には出ないで、そのまま金沢に行くって言ってたわ』
 “ 金沢 ” と聞いた途端、軽いショック状態に陥った。まるで難聴になったように会話が遠くなった。
 賢造は辛うじて会話を交わしたものの内容は上の空で、いつ携帯を切ったものか、気がつけば物置に仕舞ってあった大叔母のアルバムを引っ張り出していた。
 アルバムは賢造が何度も夢に見る、あの秋の日に大叔母と三人で撮った写真から始まっている。小さな桃割れに結った髪に黒地に紅梅の花が散った着物姿の修二と、丸刈りに紋付き袴姿の自分に挟まれて、珍しく嬉しそうに笑っている大叔母の写真。
 この時から賢造と修二は即かず離れず一緒に時を過ごして来た。離れていたのは修二が京都へ行った四年間だけだ。互いに一番近い存在だった。それが、いつから修二は自分を頼らなくなっただろうか。
 アルバムを捲りながらいつになく恨めしい気持ちが込み上げた。後悔はしないと決めていた。それでもやはり揺らいでしまう時もある。
 二人は金沢に行くと言う。修二の考えている事なら手に取るように分かる。二人で大叔母の墓参りをし、結婚の報告をするつもりなのだろう。大叔母に向き合う気持ちが出来たのなら、もうこれを渡してもいいと言う事だ。そして自分も、もう一度向き合わねばならないのだ。おのれ自身の気持ちに。
 クラクションの音に我に返った。信号は疾うに青へと変わっていたようだ。賢造はハンドルを握りしめると緩やかにアクセルを踏み込んだ。

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