INDEX NOVEL

うぶな人  〜 初めての温泉旅行 〜 〈 前 編 〉

「……温泉なんて、俺、社員旅行以外行った事ねーよ」
 正樹がお客さんに勧められた温泉宿に行こうと誘ったら、鬼塚は嫌そうに呟いた。
「えっ? うちの会社って、社員旅行あったの?」
 思いがけない内容に驚いて聞き返した。そんなの、初耳だ。中途採用で入ったとは言えもう五年近く勤めているが、社員旅行など行った事がない。
「ああ。俺が入って二年目まではあったけど、三年目に今の社長…息子の代になってなくなったんだ。あの人、親父さんと違って合理的だから、福利厚生施設は残したけど、そういう面倒くせぇのは廃止したんだ」
 お陰で助かったと言う鬼塚の言葉を聞きながら、正樹は全然別の事を考えていた。
 二年目という事は、鬼塚が二十四歳の時だ。若くてぴちぴちした鬼塚を想像すると同時に、嫌な事にも気がついた。
「……って事は、日下部さんと一緒に温泉入ったの? 浴衣姿とかも見られたの?」
「そりゃ、そうだろ。行きたくなかったけど、よっぽどの事がない限り全員参加だったし、夕飯はどこも浴衣で宴会がお決まりだろ?」
 何当たり前の事を聞いてるんだと言う顔で答える鬼塚に、「……俺とは行った事ないじゃん」と恨みがましく言うと、「だって、仕様がないだろ。なくなっちゃったんだから」とそっぽを向いたが、すぐに言い足した。
「それに…温泉なんて、お前に限らず、それ以外では誰とも行った事ねぇよ」
「えっ、誰ともって、家族とも?」
 何気に聞いた途端、自分の失言に青くなった。鬼塚は早くに家族を亡くしている。鬼塚の顔も強張ったように見えたが、正樹の顔を見ると柔らかく笑った。
「温泉じゃないが、近所のラドンセンターには、祖父さんにしょっちゅう連れて行かれたよ」
「……じゃあ、行こうよ、温泉。すごく良い所みたいだし。俺、幸(コウ)と一緒に行きたいよ」
 じっと、上目遣いでおねだりした。
 最近、年下感を丸出しにすると、下手に出るより簡単に頼みを聞いてくれる事に気がついた。いい年をして何だかもの凄く恥ずかしいが、これで初めての温泉旅行に行けるなら、何でもしてやろうじゃないかと開き直る。

 正樹はこの連休に、何が何でも鬼塚と “ 二人っきり ” で旅行がしたかった。恋人になって、もう一年半も一緒に暮らしているのに、まだ一度も泊まりがけの旅行をした事がなかった。
 否、あるにはある。今年の五月の連休に先ほどの話題にも出て来た、正樹の会社が所有する長野のコテージに泊まって、渓流釣りとバーベキューを楽しんだ。でも、それには日下部と、行きつけの居酒屋『辻村』のオーナーまでついて来たのだ。
 何でそんな事になったかと言えば、「君の悩みを解決したんだから、お礼がわりに一緒に連れてってくれ」と押し切られたのだ。
 別に悩みを解決してくれなんて頼んだ覚えはないのだが、確かにそれとなく相談した事はあったから、「鬼塚くんがセックスしたがらないのは、濃厚なのが堪らないんだと。軽めにしとけば週二くらいはオッケーらしいよ」と言われた時は、何て出しゃばった事をしてくれたと憤るより、有り難いと思う方が強かった。それぐらい、当時の正樹は鬼塚との性生活に悩んでいた。
 一緒に暮らしていても、税理士の仕事を始めた鬼塚とは、すれ違う事が多かった。税理士と言っても駆け出しの鬼塚は、普段は個人税理士の見習いをしながら、簿記専門学校の講師と二足のわらじ生活をしている。
 鬼塚がこの仕事を初めて驚いたのは、普通のサラリーマンの正樹とは、長期の休みが合わない事。税理士の繁忙期は決算の出る六月よりも七、八月が忙しい。だから夏休みなどないも同じだし、冬はと言うと十二月から確定申告が終わる三月まで、こちらも目が回るほど忙しい。
 そりゃもちろん、年がら年中忙しい訳じゃないし、休暇も取れない訳じゃない。だが、仕事を始めたばかりの鬼塚には自分の事だけで一杯一杯で、正樹を構う余裕がなかったのだ。
 それは性生活においても同じで、何しろ鬼塚にとっては正樹が人生初の恋人で、きちんとセックスしたのだって初めてだ。だからって、生娘みたいに恥じらっていた訳じゃあない。年も年だし元々淡白だから、行為をするだけでも精一杯なのに、回を重ねるごとに内容がハードになるわ、一回がやたら濃厚でしつこいわで、行為に慣れないうちから食傷気味になってしまったのだ。
 鬼塚だって愛して貰えるのは嬉しいに決まっている。決して行為そのものが “ イヤ ” って訳ではない。できればお誘い全部に応えてやりたいし、自分から誘ったら正樹が喜ぶのだって分かっている。分かっているからこそ、そんな事をしたらどんな風になっちゃうんだろう…と、アレやコレや想像したら、恐くてできなかっただけだ。
 しかし、誘っても気乗りがしなさそうな鬼塚の態度は、正樹を懊悩煩悶(おうのうはんもん)させるには十分だった。
 正樹はテクニックに関して絶対の自信を持っていたし、その証拠に行為をしている間はとても反応が良い。なのに、誘いに応じるのは二回に一度。しかも鬼塚の体調や予定を気遣って、厳選した日を選んでいるのにだ。そんなだから、互いに忙しい時は半月も間が空いたりして、平均して二週に一度くらしかやれていない。これでは五十代カップル並みの数字だ。
 確かに初めてした時に、「俺の年を考えろ」とは言われたが、アンタ、まだ三十代でしょうよ? できたてほやほやのカップルなのに、この回数ってどうよ? 
 そう考え出すと、いくら正樹がポジティブシンキングな男でも、悪い方へと気持ちが傾く。気持ちはあっても、性の不一致は別れに直結する。その逆も然りで、長続きするためには両方のバランスがとても重要なのだ。
 しかし、心底惚れた相手には強く出られない、意外とデリケートな所があるから、「何でセックスしたがらないの?」なんて、男の沽券(こけん)に関わる事を自分の口から問うのは、返された答えによってはショックが大き過ぎて立ち直れないぞと、悶々としていたのだ。(だからこの時期、正樹は非常に嫉妬深くカリカリしていたので、各所で『目が三角になってる』と怖がられた)
 それが、ある日突然、日下部から『辻村』に呼び出され「若いから仕方がないが、一度にがっつき過ぎるのは頂けないよ」と、したり顔でアドバイスされたのだ。
 驚くと共に、何だそんな事かと安堵したら、何でこんな事くらい自分で訊けなかったのだろうと、ただ手を拱(こまね)いていた自分自身だけじゃなく、まんまと日下部にしてやられたヘベレケ鬼塚にも腹が立ち、昏酔一歩手前の心の声を垂れ流し放題の鬼塚から、日下部に白状(ゲロ)した内容を改めて包み隠さず丸っと訊き出し、朝までコースはこれが最後と、思う存分抱かせてもらった。
 それからは一回分をセーブするようになったので、あの悶々とした日々が嘘のように充実した性生活を送っている。ちなみに、現在は互いの繁忙期以外は、週三回をキープしている。
 そんな訳で、今年は生活サイクルが確定した鬼塚の予定に合わせて、まだ余裕があるゴールデンウィークに初めて二人っきりの旅行を計画したら、なぜかこれも日下部にバレていて……
「私も一度は渓流釣りをしてみたかったんだ。でも、鬼塚くんはちっとも誘ってくれないんだよ〜。だから、君から招待して貰おうと思ってね」
 そんな無体なお礼を要求されても、『そっちが勝手に余計なお世話を焼いたんだろぉ?!』とは言えなかった。
 まあ、なんだかんだ言っても気の置けない男同士、楽しい旅行ではあったのだけど。
 だから今回、正樹はその時のリベンジに秋の旅行を計画した。今度こそ、二人っきりで『しっぽり温泉旅行』と洒落込みたい。そのためならと、策を弄するのが得意な正樹が、素直に直球でお願いしているのだが、なかなか「うん」と言ってくれない。
 面倒くさいのだ。それは分かっている。
 決算申告の期限が終わって一段落ついたのだが、最近は師匠の假屋崎に、お喋り好きで人生相談をしてくるブティックの経営者とか、毎度帳簿が滅茶苦茶な飲み屋のオバちゃん経営者とか、面倒な顧客を押し付ける形で譲られて忙しくなった上に、夏休みが終わって講師のバイトも始まったから、口には出さないものの『連休は出かけるよりも一日中寝ていたい』と顔にでっかく書いてある。
 けれど正樹も譲れなかった。これを逃したら正月休みまで待たなきゃならないし、鬼塚はとても寒がりだから、初詣だって行きたがらない。それこそ、また五月の大型連休まで待たねばならないのだ。それに、正樹は紹介された宿がとても気に入ったのだ。しかも半額で行ける。
「ただの温泉宿じゃないんだよ? 著名な茶道家が趣味でやってる一組限定の温泉宿なんだよ? しかも、半額なんだよ?」
「う〜ん……」
 鬼塚は迷った時の癖で、襟足をがしがし掻きながら宙を睨んで唸っている。もう一押しだ。
「日下部さんとは行ったのに、俺とは行けないの?」
 酷いよ…と演技半分、本気半分で下から見上げると、鬼塚は厭そうでいて微妙に困った顔をして、諦めたようにため息を吐いて「……わかった」と了承した。
 こうして、秋と言うにはまだ早い、九月終わりの連休に伊豆の温泉宿を訪れたのだったが……。

「大丈夫か?」
 のぼせて伸びている正樹を心配して、鬼塚が気遣うように声をかけた。その優しい響きに気分が浮上した正樹は、「……大丈夫」と笑いながら起き上がった。背中を支えてくれた鬼塚は待ってろと言って、旅館の部屋の冷蔵庫からスポーツドリンクと、濡らして冷やした手ぬぐいを取って来た。
「もっと水を飲んだ方がいい。あと、冷やさないと……」
 正樹が渡された冷たいスポーツドリンクを半分ほど飲むのを見届けると、鬼塚は襟足に冷やした手ぬぐいを掛けた。
「うわっ、冷たっ!」
「のぼせには冷やすのが一番なんだよ」
 言いながら手を正樹の額に当て、「だいぶ、良くなったか?」と訊いた。無言で頷くと「良かった」と笑う。その笑顔に正樹の方が良かったと、心の中で安堵のため息を吐いた。
 正樹は温泉で湯あたりを起こし、脱衣所でぶっ倒れそうになるという醜態を晒した。宿の人にも鬼塚にも迷惑をかけたが、お陰で朝から…否、昨晩から続いていた鬼塚との冷戦状態を脱する事ができて、怪我の功名だとほっとした。
「お布団の用意ができましたので、ご無理なさらず、どうぞお休みになってください」
 二間続きの隣りの座敷から、宿の中居が声をかけた。
「すみません…」
 正樹が恐縮して礼を言うと、六十がらみの温和な感じの女性は朗らかに笑いながら言った。
「いいえぇ。温泉で湯あたりするのは珍しい事じゃありませんし、湯治というのは温泉に浸かるだけでなく、こうしてお休みするのも含めて行うんですよ。そのために本来は二週間から三週間お泊まり頂くものなんですが、今は一泊二日くらいで強行されるでしょう? 初日は温泉に体を慣らす程度の入浴が良いのですが、そうも言ってられませんからねぇ」
「こちらは、湯治用の宿なのですか?」
 お忍びの宿じゃないのか? とは言わずに鬼塚が尋ねた。
 湯治で何日も泊まるには、とんでもなく豪華で、気後れしそうな部屋だった。数寄屋風の床の間のある座敷と、襖続きの寝室用の座敷は、質素ながらも天井や障子戸などのどうでもいいような所まで精緻(せいち)を極めた作りで、まるで高級料亭のようだ。母屋とは濡縁続きで行き来するが、玄関もあり、洗面トイレ浴室と全て揃っているから、セレブがお忍びで使用するには持って来いだ。
「オーナーの家元は、そのおつもりでこちらを建てましたので、いつも二週間ほど滞在します。その間に、親しいお客様をお招きして、茶会を開かれるんです」と教えてくれた。
「家元と、建築家の磯川(いそかわ)さんは高校時代の同級生だそうですね。その縁でこの離れを設計なさったとか」
 正樹がこの宿を紹介してくれた建築家の磯川について尋ねると、中居は頷いて答えた。
「はい。ご親友の間柄で、茶室を建て直すのを機にお願いしたそうでございます。毎年この時期にお見えになりますが、今年はお仕事で海外に行かれるとの事で、家元も本日は箱根のお知り合いの別荘へお出かけです。本来ならお客様へお茶のおもてなしをする所を、留守にして申し訳ございませんが、気兼ねなくお使いくださいと託(ことづ)かっております」
「あっ、いいえ、とんでもないです。本来は僕らみたいに、知り合いでもない者が利用できる場所じゃないと伺ってますので、もう泊まれるだけでも有り難いです」
 正樹と鬼塚が恐縮して畏まると、中居が慌てて正樹の言葉を否定した。
「いえいえ、そんな事はございません。ご紹介があればどなたでもご利用頂けます。ただ、母屋を家元が利用する時は、親しい方しかお泊めしないのと、一組様しかお泊めできませんので、一般には宣伝しておりませんだけで、そんなに敷居の高い宿ではございませんよ」
 そんなに敷居が高くないと聞いて、正樹は内心嘘を吐けと思った。
 自宅ガレージ用シャッターを施行したのが縁で親しくさせて貰っている磯川から、自分が設計したどんな秘密も厳守してくれるお忍びの宿があるよと教えられ、ここの事はずっと前から知っていた。心動かされたものの値段を聞いて躊躇した。一泊二食付きで二名五万円也。都心の一流ホテルでもかなり良い部屋に泊まれる値段だ。
 いくら何でも贅沢過ぎると諦めていたが、磯川から連絡があり、「急な仕事が入って行けなくなったから、代わりに行かないか?」と勧めてくれた上に、恋人との事で悩んでいるとぼやいたのを覚えていて、「半額もってあげるよ」とまで言ってくれたのだ。こんなチャンスはそうそうないから、正樹は是が非でも行きたかった。
 ところが、しっぽり計画用のお道具を、浮き浮きしながら鞄に詰めていた所を、鬼塚に見咎められた。そして……
「宿では絶対、し・な・い!」
 そう宣言されてしまったのだ。
 お忍びの宿だから、そう言った理由で使っても構わないのだと、いくら説明しても「男同士は駄目だろう」と譲らない。
 まあ、確かに磯川には相手は男だと言ってないし、そのような痕跡があったと伝え聞けば、正樹がゲイなのがバレてしまうだろうが、好事家(こうずか)で有名な家元が経営する宿の従業員が、秘守義務を破るとも思えない。それに何より、正樹にはバレないように上手くやる自信がある。
 と言ったら火に油で、遂には久し振りの大げんかに発展し、楽しい旅行の前日に初めての家庭内別居…は大げさだが、正樹は初めてソファで寝る羽目になり、もうムカつくは、ソファが小さくて体は痛いはで、ほとんど眠れずに出発の朝を迎えたのだ。
 それでも、キャンセルはしなかった。当日だと全額支払はねばならないし、磯川の顔を潰す事にもなるから、互いに口もきかない最悪な状態で、一路憧れの…ではなく、遣る瀬ないお忍び温泉宿を目指したのだ。
 まあ、こんな寝不足ボロボロ状態で、宿に着いてそうそう温泉に長湯してたら、湯あたりするのも当たり前だろう。
 正樹はのっそり起き上がって中居が敷いてくれた布団の上にゴロリと横になった。
 それを汐(しお)に中居が鬼塚に向かって食事の時間を何時にするか尋ねたので、鬼塚は部屋の置き時計を眺めて七時にしてくださいと答えた。中居は立ち去り際、夜の間は宿の側を流れる藤井川の橋が、雪洞(ぼんぼり)でライトアップされると教えてくれた。
「この連休中だけの催しで “ 湯ノ里ぼんぼり祭り ” と言うのです。ここいら辺の橋は、ほとんどが宿の出入り口専用なので、宿の数だけございます。そのすべてに灯りが灯(とも)されると橋が幾十にも川面に映って、なかなか幻想的で奇麗なんでございますよ。少しですが夜店も出てますので、宜しかったらお出かけください」
 こちらには娯楽施設がないからと、気を遣って教えてくれたらしい。男女の客ならばやる事は決まっているが、若い男同士の組合わせは、やはり奇異に思われたのだろうか。
「見に行く?」
 やる事もないからと聞くと、鬼塚は少し間を置いて「……そうだな」と答えた。別に投げやりな気持ちで言った訳ではないんだけどと、正樹は頭だけ起こして隣りの座敷にいる鬼塚を窺っていると、冷蔵庫から何か取り出して来て座椅子に腰を下ろした。その手には冷凍みかんの箱があった。正樹が東京駅で弁当と一緒に買ったものだ。
 なんだ食べなかったのかよと、正樹は顔を顰(しか)めた。
 喧嘩しているから電車待ちの時間がずいぶんと長く思えて、気まずさに逃げるようにキヨスクに行き、時間一杯までブラブラして適当に弁当とお茶を買った。その時お茶の並んだ冷蔵ケースに『冷凍みかん、あります』の貼り紙を見て、思わず買ってしまったのだ。
 久し振りに買った冷凍みかんは、昔懐かしい網に入ったものではなくて、皮をむいた状態で三個セットで箱詰めされたものだった。朝食を抜いて出て来たから、正樹は席に着くとさっさと弁当を広げ、自分の分のみかんを一個取ると、残りを鬼塚に押し付けた。食べてしまうと寝不足を取り戻すべく居眠りを決め込んだから、鬼塚がいつ弁当を食べたかは知らない。弁当殻を鬼塚がまとめて捨ててくれたから、てっきり全部食べたのだと思っていた。
「食べなかったんだ? もう融けちゃってるでしょう?」
「食べたよ。でも、冷たくていっぺんに二個は食べられなかった。珍しくて、捨てるのもったいなかったし」
 正樹は横になったまま肘枕をして、みかんを食べる鬼塚に見入った。前髪が下りていて眼鏡をかけていない鬼塚は、実年齢より若く見える。そのうえ、初めて見る浴衣姿は何とも色っぽくて、今日も眠れないんじゃなかろうかとため息を吐いた。
「もう、美味しくないでしょう?」
「いや、融けても美味しいよ。初めて食べた…冷凍みかん」
「えっ? そうなの?」
「うん。もしかしたら、覚えてないだけかもしれないけどね」
「ふ〜ん……」
 本当は『どういう事?』と訊きたいけれど、鬼塚は自分の過去を話したがらない。だから自分の話をした。
「冷凍みかんは親父の好物なんだ。だから家族で旅行する時は、必ず弁当とお茶と冷凍みかんが三点セット。そんな事、もうずっと忘れてたけど、キヨスクで見かけたら条件反射で買っちゃった」
 忘れないもんだねと笑うと、鬼塚も笑った。気を良くして手招きすると鬼塚はすぐに寄って来て、正樹の側に腰を下ろした。
「旅の思い出だからだろう。俺も、行けば良かった。祖父さんと…」
 後悔の混ざった声音に、正樹は慰めるように鬼塚の手を握ると、その手を握り返して口を開いた。
「一度、誘ってくれたんだ。俺と兄さんと、祖父さん祖母さんと四人で、家族旅行に行こうって。でも、俺は行きたくなくて、ずっと嫌だと思ってたら本当に熱出しちゃって……。それから、二度と誘われなかった。俺、苦手だったんだ、祖父さんの事。恐かったんだよ、厳しくてさ。でも、悪い人じゃないんだ。とても良い人だよ。でも、初めて会った時からずっと駄目で……」
 一旦口を閉じると正樹を見下し、突然「ごめん」と呟いた。
 一体何に対して謝ったのか訳が分からず首を傾げると、鬼塚は「喧嘩したから」と言い足した。
「せっかくの旅行なのに、気分を悪くさせて…。もう、後悔しないようにしようって思ってたのに…駄目だな。俺は」
 哀しそうに目を伏せる鬼塚に、正樹は慌てて「それなら、俺も」と謝った。
「一緒に旅行できたら、もうそれで満足だから。ごめん」
 そうだよな。何も旅先でエッチな事しなくても、こうして一緒に居られれば幸せだよなと、胸の中で自分に言い聞かせていると、鬼塚の顔が近づいて、ちゅっ、と掠めるようにキスされた。
 鼻先にみかんの香りがして、正樹は反射的に鬼塚を抱きしめていた。言ってるそばからやっちゃったよと焦ったが、鬼塚は大人しく正樹の上に被さるようして凭れている。これは、この先に進んでいいんだろうかと期待したが、耳元で「少し、休んだら?」と言われてしまった。
 ため息を吐いて「……うん。でも、このままでも、いい?」と悪あがきすると、鬼塚は体をずらして、いつも抱き合って眠る時のように、正樹の腕を首の下にして横向きで抱きつくお気に入りの体勢をとった。
 横を向くと鬼塚の額が唇に触れた。髪からシャンプーの臭いがして、浴室の壁にここの泉質が弱食塩泉で、温泉でありながら石鹸の泡立ちが良いと書いてあったのを思い出した。
 鬼塚は内湯を使っていたから、正樹はずっと露天風呂へ入っていた。小さいが立派な岩風呂で川のせせらぎがすぐ側から聞こえていた。結局、鬼塚は露天へ入って来なかった。
「夕飯のあと、一緒に露天風呂に入ろうか?」
「……うん」
 眠そうな返事がして、鬼塚も自分と同じように寝付けなかったのだろうと思うと、いとしくて堪らなくなった。背中をゆっくり擦ると、すぐに寝息が聞こえて来た。
 柔らかい布団と鬼塚の寝息に誘われて、正樹もすぐに眠りの淵に落ちていった。

 昼寝のつもりだったが、正樹は寝不足が祟ってしっかり寝入ってしまい、食事の時間になって鬼塚に起こさた。
 寝ている間に鬼塚は一人で露天風呂に入ったらしく、何事も計画的に進めるのが好きな正樹は「約束したのに」とまたしてもムッとしたが、「起こしたんだけど、気持ち良さそうに寝てたから」と申し訳なさそうに言われて、仕方ないかと諦めた。
 食事は懐石料理だと思い込んでいたが、意外にも中華料理のフルコースだった。どうやら磯川の要望だったらしい。宿泊を予約した時点で和・洋・中から選べるとの事だった。あまり期待していなかったが、フカヒレやアワビなど高級食材がふんだんに使われていて、どれもこれも美味かった。この食事付きで一泊五万円なら安いかもしれないと感激するほどだった。
 ただ、脂っこいものが苦手な鬼塚にはフルコースはきつかったらしい。しかも食事中に家元夫人が挨拶に来たものだから、鬼塚は緊張して余計食が進まなかったようだ。
 夫人は気さくで好感の持てる人物だったが、何故かなかなか退出してくれなかった。鬼塚は客商売を始めても人見知りが治った訳じゃないから貝になっているし、仕方なく正樹が日頃の営業力を発揮して粗なく相手をしたが、さすがの正樹もセレブ相手だと緊張して、食事どころではなった。やっと引き取ってくれた時にはゲッソリして、何を食べたかよく分からなくなってしまった。
 ところが一難去ってまた一難である。やっと人心地ついたと思ったら、今度はほったらかしになっていた鬼塚が、紹興酒の瓶を抱え込んでご満悦な様子で杯を傾けていた。
「あんまり飲んだ事なかったけど、結構旨いな、コレ」
 そう言って、トロンとした目で笑う鬼塚の顔を見ながら、今日は厄日だろうかと、正樹は思いっきりため息を吐いたが、「飲むか?」と瓶を差し出す鬼塚に黙って杯を差し出した。
 まあ、こうなったら仕方ない。この状況を楽しみますか。そう待ち前の楽天的思考で気持ちを切り替えた。
 食事が済んで中居が食器を下げに来た時、「ぼんぼり祭りにお出かけなさいますか?」と聞いた。正樹は鬼塚をチラリと眺め、温泉に入るのはもう少し酔いを醒してからがいいだろうと、「そのつもりです」と答えた。
 すると、しばらくしてからまた家元夫人が訪ねて来て、どうせ見に行くならこちらの着物をどうぞと、二人に白と薄鼠(うすねず)の白大島を渡した。鬼塚には大きな市松模様を織り上げたものと黒の博多帯を揃え、正樹には片滝縞(かたたきじま)のストライプに織り上げたものと葡萄茶色の博多帯を揃えてあった。
「さきほどお二人の身長をお聞きしたら、主人と息子と同じくらいだったのね。だったら丁度お二人に似合うのがあったなと思って、出して来ましたの」
「えっ、じゃあこれって、家元と息子さんのですか?」
 浴衣で出かけるならまだしも、ちゃんとした単衣(ひとえ)の着物だし、大島なんて数十万はするだろうに汚したら一大事だ。内心冗談じゃないと辞退したが、夫人は「良い男に良い着物を見立てるのが趣味だから」と言ってきかない。
「息子はこちらに全然来ないので、箪笥の肥やしになってましたの。誰も着ない方がもったいないから、是非着て頂きたいの」
「いや、ご好意は有り難いんですが、ホントに……」
 しつこい! ここはお忍びの宿だろう? 何でほっといてくれないんだと正樹は憤りを感じたが、磯川の顔が浮かび何とか穏便に断ろうと必死で考えを巡らせていると、それまで横でぼうっと傍観していた鬼塚がポツリと呟いた。
「……俺、着てもいいよ」
「まあっ、嬉しい!」
 正樹が『ちょっと待て!』と叫ぶ前に、夫人が小躍りしそうな勢いで、「じゃあ、さっそく用意しましょうね〜」と喜々として着付けの準備を始めてしまった。
 正樹は茫然としたが、鬼塚がいきなり着ていた浴衣の帯を解くのを見て、慌ててその手を止めさせた。鬼塚の声はしっかりしているが、やっぱりかなり酔っている。
「す、すいません。襦袢…でしたっけ、までは自分たちで着ますから……」
 出てってくれとの言葉を呑み込んで夫人に引きつった笑顔を向けると、夫人は不満そうな顔をしていたが、「じゃあ、用意ができたら呼んでくださいね」と出て行った。
 二人きりになると、正樹はため息を吐いてがしがし頭を掻いた。
「……ったく、なんで、着てもいいなんて言ったのさ!?」
 酔っぱらいに文句を言っても始まらないが、分かっていても愚痴りたかった。
「ん〜〜? だって、俺ぇ、着物なんて着た事ないからさ。それにぃ、お前、浴衣すっごく似合うから、あれ着たら、すっげぇ格好良いだろうなって…思った」
「……そう」
 普段の鬼塚はいつも半分も思っている事を言わないが、へへへ…と笑いながら正樹を見上げる酔っぱらった鬼塚は子どもみたいに素直だ。正樹は耳まで赤くなるのが自分でも分かって、照れ隠しに「ハイハイ、じゃあ、着替えますかね」と言いながら鬼塚の浴衣を脱がせにかかった。
 暑いだろうとの配慮か、半襦袢(股下丈の短い襦袢)とステテコが用意されてあった。それを着用してから家元夫人に着付けをして貰ったが、それでも小っ恥ずかしいのは変わらない。何でこんな目にと思いながらも、大人しく着せ替え人形になっていた。
 夫人は襦袢姿の男など見慣れたもので、さっさと二人に着物を着せると、近づいたり遠のいたりして、ためつすかめずしていたが、最後に両手を頬に当てて感極まった様子で唸った。
「惚れボレするわ〜〜〜」
 まあ、確かにと正樹も思った。自分の事ではなく、鬼塚はそのスラリとした体型に白い着物がよく似合っていた。夫人は鬼塚を見て、「泉鏡花(いずみきょうか)みたい…」と呟いたが、そりゃ雰囲気だけだろ! と憤慨した。
 こう見えて正樹は日本文学には造詣(ぞうけい)が深い。思い浮かんだ鏡花の顔も確かに瓜実顔だけど、鬼塚の方が現代的瓜実顔の美青年だぞ、俳優でもっと似てるのがいるだろと内心で捲し立てた。当の鬼塚はその横で正樹をじっと眺めていたが、「似合うわよ」という夫人の誉め言葉に素直に頷いて笑いを誘っていた。
「鬼塚さんは細いからちょっと補正したけど、とても似合ってるわ。まるで文豪みたい。堤さんは背が高いからちょっと着丈が短いけど、胸回りはピッタリ。スタイルいいのね。なんか海老様みたい。二人とも、これならどんな女の子もイチコロよ〜。でも、 “ お持ち帰り ” はなしですよ。気をつけて行ってらっしゃい」
 微妙に下世話な事を言う夫人に送り出され、ようやく “ ぼんぼり祭り ” を見物に行く事ができた。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、NOVELでお戻りください。

NOVEL [↑] NEXT

Designed by TENKIYA