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人生は上々だ  〜 Life Is Dandy 〜 〈 下 〉

 三月とは思えないほど暑い日の夕刻、正樹は背広を腕に抱えて約束の喫茶店へと急いだ。
 清水と話し合いをするために選んだ喫茶店は、会社の最寄り駅に近い場所にある。月末だから得意先を回ってからになるので、駅に近い場所を指定したのだ。それに、この店は昔ながらの純喫茶で全席喫煙、コーヒーの種類は多いが軽食が少ないので、若い客が殆どいない。要は、知り合いが利用する確率の低い店だった。
 約束の時間ギリギリで店に入ると、一番奥の席で清水が居心地悪そうに座っていた。客は他には誰もいなかった。
 この店は客がいないと早めに閉めてしまうが、いれば帰るまで開けていてくれる。今日は正樹が予約しておいたので、閉め出される心配はないのだが、事情を知らない清水は仏頂面の店主と二人きりで、どうにも落ち着かなかったようだ。
「お待たせしました」
「あっ、いいえ……」
 待たせてはいないが一応謝ってからイスに座ると、「ブレンドください」と店主に頼んだ。
「あの…お話って、何でしょうか?」
 早速、清水の方から口火を切った。けれど、臨戦態勢とはほど遠く、朝、正樹が内線を掛けた時の勢いはどこにもなかった。あの時はまだ、鬼塚の退職を知らされていなかったからだろう。
 鬼塚は、今日で退職する。辞める日まで内緒にするなど普通はしないから、日下部が発表した時、部内はかなり動揺したらしい。一日外回りをしていた正樹は、住吉のメールでその様子を教えて貰っていた。
『仕事そっちのけで、鬼塚くんの周りに女の子の人だかりが出来ちゃって、もう大変だったよ!! 『税理士事務所に転職する』って理由は、みんな納得してたけど、何で今まで黙ってたんだって、怒られて小さくなってたのは見物だった。誰かが送別会するって言い出して、本人は固辞してたけど、結局29日に送別会をする事になったよ。幹事はわたくし。女の子に囲まれる事必須だけど、それくらいは許してあげてね』
 まあ、それくらいは仕方がない。それにもう、妬かなくても済む状況まで二人の関係は着々と進んでいるので、正樹は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)だった。
 正樹は清水を見据え、「鬼塚さんから、好きだと告白されました」と単刀直入に告げた。
 清水は息を飲んで正樹を見詰めた。
「だから、課長は会社を……」
 ひとり言のような清水の呟きは、口の中で消えてしまった。
 辞めるのだと、思い込ませる。それが、正樹の考えた作戦だった。
 清水の行動を逆手に取ったのだ。告白しろと嗾(かしか)けたのに、蓋を開けてみれば、清水が正樹にアプローチするような噂が立った。鬼塚と正樹の仲を疑っているからこそ取れた、清水の暴挙だけれど、もし、二人の間に何もないとしたら、好きな人を取られそうに思った鬼塚が、焦って正樹に告白するのは、決しておかしな流れではない。
 男に男が告白するのだ。しかも、正樹はノーマルな男(になっている)。清水の舞台から飛び降りるくらいの決心での告白が、会社を辞めるという形に現れたのだ、という筋書きだ。
 そして、そう仕向けたのが “ アンタ ” だと、正樹は清水を責めたかった。
「鬼塚さん、会社辞めるそうですね。僕は “ その時 ” に聞かされました」
 しれっと言うと、清水は疑り深い目で正樹を眺めていたが、「堤さんは、何て、答えたんですか?」と訊いた。
 正樹は運ばれて来たブレンドコーヒーを一口飲むと、清水を見据えた。
「僕は、あなたに、答える必要があるんですか?」
 拒絶を込めてきっぱり言い切った。
 本来、恋愛は当人同士、一対一の問題だ。なのになぜ、自分たち二人の問題を、“ 関係ない ” 清水に報告しなければいけないのか。鬼塚だって、清水に相談した訳じゃない。教える義務も、知る権利も存在しない。
「…必要は、ありませんけど……」
 清水は口籠ると唇を噛んで下を向いた。反論を考えているのだろう、瞳が忙しなく動いている。やがて「じゃあなぜ、“ 話がある ” なんて、呼び出したりしたんですか?」と切り返した。もっともな質問だった。
「成り行き上、鬼塚さんがあなたのプロポーズを断った事を知りました。だって、そうでしょう? あなたは僕らの目の前で、鬼塚さんに告白したのだし、その鬼塚さんが、僕に告白して来たんですから。鬼塚さんはあなたの事を気にしていました。最近、僕らについて、変な噂があるの、ご存知ですか?」
「………」
 清水は黙ったままだった。知らぬ振りを決め込むつもりらしい。だが、知らないとは言わせない。
「あなたが、僕の事を――」
「そんなの、デマです!」
 堪らないと言った様子で大きな声で遮られた。
「そうですね…。でも、鬼塚さんは悩んだんですよ。自分は断ったのだから、あなたがすぐに別な人を好きになっても仕方ない。でも、自分はその相手に告白しようとしている。自分は、またあなたを傷つけてしてしまうのじゃないかって……」
 口から出任せだ。引っ掻き回された怒りがあるせいか、罪悪感など一切感じなかった。清水は目を伏せてじっと話を聞いていた。
「告白した後、あなたに謝罪するつもりみたいでした。だから、僕は言いました。その必要はないと。これは恋愛なのだから、仕方のない事だって。でも、あなたの事を考えると、辛くて胃が痛いみたいでしたから、その気持ちだけ、僕が代わりにあなたに伝えようと思ったんです」
 一旦言葉を切ると、コーヒーを飲んで灰皿を眺めた。落ち着かない気分になっているが、タバコに逃げるのは止めて、ふっと息を吐いてから口を開いた。
「教えましょうか?」
 清水は、はっとして顔を上げ、食い入るように正樹を見詰めた。
「鬼塚さんの告白に対する僕の答え…。それを聞いて、あなたの中で、何か納得するなり、答えが得られるのであれば……話してもいいと思っています」
 会話が途切れた。
 清水は暫く正樹を眺めていたが、ふっと笑って、「……聞いても、何も変わらないわ」と言った。笑った目尻から涙がぽろっとこぼれ落ちた。
 正樹は瞠目して清水を見詰めた。
「聞いても、失恋するのが決定的になるだけよ。分かってるのよ。自分でも馬鹿げた事をしてるって。悪あがきした所で、余計に嫌われるだけだって! 課長が髪を切ってから、あの目が誰を見てたかなんて、私にだって分かってたわよ! でも、悔しかったのよ! あなたが現れなければ、これからだって、見ている事は出来たのに!」
 店中に響き渡る声だった。涙と共に、清水の本心が堰を切ったように溢れ出したのだ。
 正樹は内心慌てた。後ろ向きだから店主がどこにいるか分からないが、恐らく聞いている事だろう。どう仕様もない。ただ息を詰めて清水の動向を見守った。
「私は三年も、ずっと、ずっと課長を見て来たのよ? それなのに、あなたなんか、たった一、二ヶ月じゃないの! ちょっと格好いいからって、チャラチャラしてて、調子が良くて、嘘吐きで、取り入るのが上手いだけの、あなたなんかのどこが良いのよ! あなただって、課長の何が分かるのよ! どうしてあなたなの? 何で男なのよ! 何で私が、男に負けるのよ!?」
 八つ当たりだと思ったが、止めようとは思わなかった。
 清水の気持ちはよく分かる。逆だったら悔しいだろう。憎らしく思うだろう。
 けれど、正樹には何ら臆する所はない。鬼塚の気持ちが自分に向いていた幸運もあるが、その運を引き入れる努力は惜しまなかった。喩えそれが、騙すような強引なやり口だったとしても。正樹が現れるまで、ただ見ていただけの清水に、文句を言われる筋合いはない。
 それに、時間の長さは関係ない。自分の鬼塚を想う気持ちは、誰にも負けやしない。だから、正樹は目を逸らさなかった。
『ああ、俺が、聞いているよ。だから、全て吐き出して、すっぱり諦めろ!』
 全部、出してしまえ。少しの憂いも残さないように。そうしたら、アンタはまた前を向いて、自分らしく生きて行ける。
 正樹は黙ったまま辛抱強く、清水の思いを受け止めた。
 清水は文句が尽きたのか、最後は「何でよ! 何なのよ、もう!」と繰り返しながら、涙を両手で抑えようとしていたが、流れる涙はなかなか止まらず、しゃくり上げながらハンドバッグを探ってハンカチを出そうとした。
 暫くごそごそしていたが、なかなか見つからないらしい。見兼ねた正樹がテーブルのナプキン立てから一枚取って差し出すと、清水は、きっ、と睨みつけ、それでも引ったくるようにナプキンを受け取り目尻を押さえた。
 黒い涙は流れてはいなかったが、さすがにマスカラが目の回りに広がり、パンダになりつつあった。これでは帰れないだろうな、という思いが顔に表れていたらしく、清水は正樹の顔をチラッと見ると、真っ赤になってバッと立ち上がった。
「ちょっと、失礼!」
 そう言うと、バッグを掴んで化粧室へ入って行った。
「はあぁ〜〜……」
 荒々しい音を立てて扉が閉まるのを確認してから、正樹は深いため息を吐いた。
 疲れた。何度か修羅場も経験したが、こんな風に喚き散らされた事はなかった。人の悪意をまともに受けるのは、図太い神経の正樹でもかなり堪えた。
 暫くの間、気が抜けたようにぼうっとテーブルを眺めていたら、お冷やのグラスが置かれるのが目に入った。ふと顔を上げると、仏頂面の店主が「お疲れ様」と言って立ち去った。
 ふっと苦笑いを浮かべたら、完璧に化粧を直した清水が化粧室から出て来た。まだ目が赤いけれど、外はもう暗いから、泣いたのなんてきっと誰にも気づかれないだろう。
 清水は無表情のまま戻って来たが、席には座らずテーブルの横に立って、伝票を指差した。
「おごってくださる?」
「もちろん」
「ごちそうさま……」
 そう言うと、くるっと向きを変え出口の方へ歩きかけたが、立ち止まると振り返りもせず、「ちょっと、意地悪したかったんです」と言った。
「でも、もう気が済みました」
 そう言うと、奇麗な春色のコートを纏(まと)った清水は、颯爽と店を出て行った。
 正樹は茫然とその後ろ姿を見送りながら、なんだかんだあっても女はやっぱり「つよい…」と思わず呟くと、店仕舞いの準備を始めた店主が、「ごもっとも」と頷いた。

 四月に入ると、正樹の生活には新しい変化があり、そして俄然忙しくなった。
 会社が今年、数は少ないが新入社員を迎え入れ、正樹は指導役を仰せつかった。要は、直属の部下が出来たのである。そして、最大の変化は鬼塚と一緒に暮らし始めた事だ。
 本当はそんな予定は全然なかったのだ。ただ、何気なく三月最後の週末の予定を尋ねたら、「不動産屋へ行く」と言うので「何で?」と訊いたら「更新だから」と言うではないか。正樹は慌てて、もう少し後でお願いしようと思っていた同居話を切り出した。
 最初は、正樹のアパートで暮そうと誘ったが、やはり鬼塚は大家の存在が気になるらしく、「あの人、うちのお祖母ちゃんみたいに感じちゃってさ、その目の届く所で同棲するなんて、何か嫌だよ」と同意しなかった。
 それでも、新しく部屋を探す事には同意してくれた。但し、三月中に見つからなければ、今の所を更新するとの条件付きだったので、殆ど諦めかけていた。
 それを救ってくれたのが住吉だった。『やっぱり、急過ぎて見つからない』とのぼやきメールに、すぐさま反応してくれて、『持ち家なんだけど海外赴任するんで、戻るまでの間なら貸しても良いよ』という友人を紹介してくれたのだ。
 平日に鬼塚が独りで見に行ったのだが、前の部屋とも近くて気に入り、即日借りる契約を交わした。その後はトントン拍子で同居話が進み、部屋が空くのは四月の中旬だったので、それまでは正樹の部屋で鬼塚の荷物に囲まれて過ごした。
 そうして、先週の土曜日に引っ越しを完了して、晴れて新居での生活が始まったのだ。
 今週末には、部屋探しに協力してくれた住吉と、日下部を招いて引っ越し(同棲)祝いをする事になっている。その時は、ずっと戸棚に仕舞いっぱなしだった清水のプレゼント、“ 黒龍 ” をみんなで空にするつもりでいる。
 鬼塚は、結局税理士事務所には就職せず、日下部の伝(つて)で紹介して貰った税理士の手伝いをしながら、独立に向け準備を進めている。
 本当は、いくつか大手の税理士事務所の面接も受けたが、書類選考は通っても面接が通らなかったのだ。どうも、尊大な話し方が災いしたらしく、本人も今更ながら反省していた。
 あんまり落ち込んでいるのを見兼ねて、ならいっそ独立の道を目指したら…と、日下部の友人で個人で開業している人を紹介して貰ったのだ。当然、お手伝いだから給料はいくらも出ないのだが、読書と釣りと酒以外、無趣味の鬼塚は貯金があるので、当面心配はないようだった。
 こうして、上々の滑り出しをした正樹の新生活ではあるが、少々悩んでいる…と言うか、うざったい事が一つあった。それは、前田の事だ。
 バレンタインデーの親睦会で、いい雰囲気になった女子社員には、実は彼氏がいた事が発覚した上に、山崎が今年の十月に結婚を決めるなど、すっかり置いてけぼりを感じている前田は、浮かれ気味の正樹に “ 彼女が出来た ” 疑惑を持っていて、煩いったらないのだ。
 なぜ、そんな事になったかと言うと……。やはり、原因は清水だった。

 今週の頭、社食で前田と山崎と三人で昼食をとっている時、清水がすうっと近寄って来て、正樹に大きな荷物を手渡した。
「これ、引っ越し祝いです」
「えっ、ええええ〜〜〜!!」
 正樹の両側にいた前田と山崎が、同時に驚きの声を上げたので慌てて耳を塞いだが、二人が驚くのは無理もない。正樹が引っ越したのを知っているのは、住吉と日下部と直属の部長だけだからだ。清水は恐らく日下部に聞いたのだろう。
『あの、お喋りめ〜〜〜!』と、正樹は胸の中で日下部のとぼけ面に舌打ちしたが、まあ、いずれバレるとは思っていた。
 前田と山崎は叫んだ後ピタリと口を閉じ、前田は興味津々と、山崎は嵐の予感に怯えながら、事の成り行きを固唾を飲んで見守った。
 二人は以前出ていた正樹と清水の噂を知っていたからだ。正樹の引っ越しを同じ部の自分たちすら知らないのに、清水からお祝いを貰うというのは、やはり二人は……と、大方そんな事を考えていたのだろう。
 正樹は咳払いをしてからニッコリ微笑んで、「ありがとう。こんな気を遣ってくれなくても良かったのに」と、余計な事をしてくたな、との意味を込めて言うと、「あなたにじゃありません。あなたの “ 彼女 ” にですから、お間違いなく。では、“ 彼女 ” に宜しくお伝えください」と、爆弾を落っこどして去って行った。
「ええええええ〜〜〜!!」
 再び前田と山崎に叫び声を上げられたが、今度は耳を塞ぐ余裕はなかった。頬が引きつるのを感じながら、「いやいやいやいや、いないから!」と顔の前で手をぱたぱた振り続けたが、二人とも正樹の話など聞いてやしない。
「えっ? なにアレ、なんなのぉ? お前、もしかして、二股かけてたのぉ?」
「えっ? 引っ越したのって、一緒に暮らすためなの?」
「そういや、禁煙し始めたし、いつも即行で帰っちゃうのは、やっぱり、それか? それなのか!?」
 などと暫く質問攻めにあったが、単に更新切れが迫っていたから、引っ越しただけだと言い切ってその場を逃れた。翌日、山崎にだけすっかり意気投合した鬼塚と、ルームシェアしているのだと打ち明けた。おっとりした山崎は、なんだ、そうなんだと納得し、山崎から前田にも伝わったのだが、すっかり恋愛の “ 崖っぷち ” を意識している前田から、疑惑の目を向けられ続けている。
「なあ、なあ、今度、銀座の “ 街コン ” 行こうぜ〜〜。彼女いないなら、行けるだろう?」
「ああ、はいはい、そのうちね……」
 一日一度、必ず挨拶のように言われて、どうにもこうにもうざったいのだが、まあ、清水の事を嗾(けしか)けた詫びも兼ねて、そのうち誰かいい人を紹介してやれば、解決するかなと気楽に思う事にしている。
 今のところ清水は、これ以外二人の秘密に触れて来る事はなく、日下部曰く、「彼女も彼氏が出来れば、すっかり忘れてしまうだろうよ。私がそのうち、将来有望な男を紹介するから大丈夫」との事なので、静観している状態だ。
 ちなみに、引っ越し祝いは低反発素材の枕だった。しかも一個だけだったので、もちろん鬼塚が使っている。普段は愛用させて貰っているが、何となく気になるので、セックスする時は隣りの部屋へ片付けてしまうのだが。

 今日も、正樹が社食で後輩とカウンターに並んでいると、後ろから「合コンしようぜ〜〜!」と前田の声がした。
 ウンザリしてため息を吐きながら、隣りの後輩に「お前、コイツに付き合ってやってくれないか?」と言うと、「嫌です。僕、彼女いますから」と即答したので、「生意気な〜!」とキレた前田に体当たりされて咳き込んでいた。
『そういや、俺はここで前田に突き飛ばされて、生涯のパートナーを得たんだな』と思うと、何だか感慨深かった。
 人生、何が切っかけで、どう転ぶのか分からないものだけど、良くなるように努力すれば、きっと道は拓ける筈だ。
「コラコラ、前田、そう怒るな。俺が好きなの奢ってやるよ」
 お前も頑張れよと、心の中で励ますようにそう言うと、「イェーイ! ラッキー」と、途端に前田は機嫌を直して、親指を立てて見せた。
 正樹はブッと吹き出して、友も、仕事も、恋愛も、なかなかどうして、人生は上々だ、と朗らかに笑った。

 (了)


最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。今後の励みになりますので、ご感想を是非。

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