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人生は上々だ  〜 Life Is Dandy 〜 〈 上 〉

 

 人生はままならない。正樹はつくづく、そう感じている。
「はぁ〜〜〜」
 屋上で空に向かって煙を吐き出しながら、一緒にため息も吐き出した。
 習慣で指に挟んだタバコを弾くと、灰と煙が風に乗って飛んで行く。どんどん短くなるタバコを見ると余計に虚しくなった。以前なら幾らも吸わないうちに惜しげもなく捨てていたが、今はもったいなくてフィルターを焦がす程に吸い尽くしてから火を消した。
 最近、タバコの本数を一日三本と決めた。別に、タバコ代が惜しいからじゃない。禁煙を始めたのだ。とは言え、自他ともに認めるヘビースモーカーだったから、とてもすぐには止められない。だから三本と決めたのだ。「本数を減らすから」の言葉では、鬼塚が納得しなかったから。
 バレンタインデーを境に、恋人として付き合う事になった鬼塚は、正樹に『長生きする』と約束をさせた。その手始めが、禁煙だった。当然、鬼塚も禁煙しているが、言い出しっぺの意地だろうか、向こうは完全タバコ絶ちを継続している。だからもう、喫煙室にも、屋上にも姿を現さない。
 そこだ。問題はそこなのだ。ままならない事、その一。
 社内で唯一鬼塚とべったり一緒にいられた憩いの場で、会えなくなってしまった事。
 お陰でここ四日ばかり、鬼塚とまともに顔を会わせていない。もちろん、外では会っている。だったら社内では我慢しろと言われそうだが、それだけでは、全く、全然、さっぱり満ち足りないのだ。
 バレンタインの前日も、当日も、結局泊まりは許されなかったから、その週末に無理矢理押しかけて、鬼塚の家に泊まったのは良いけれど、あの部屋は本当に壁が薄くて、他の住人が帰宅してからは、そこかしこからテレビや風呂を使う音が聞こえて来るし、その上狭いものだから、布団は鬼塚家の仏壇の真ん前に敷くしかなくて、事に及ぶなど到底出来なかった。
 その次の週末は月末だったから、いつもと同じで忙しかったけれど、木曜に貫徹して書類を片付け『辻村』でのデートに漕ぎ着けたが、冷酒を一杯飲んだだけでダウンしてしまい、鬼塚に高円寺のアパートまで送って貰う体(てい)たらくだった。
 正樹の部屋には客用布団があったから、心配した鬼塚がそのまま泊まってくれたのだけど、翌朝スーパーまで買い物に出かけた鬼塚と、大家のおばあさんが階段で鉢合わせしてしまい、訝しげに見られた鬼塚は、慌てて正樹の上司であると関係性を説明した。
 途端に親しげになったおばあさんから「堤さんは孫も同然な人ですからねぇ、どうか、よろしくお願いします」などと頭を下げられ、複雑な心境に陥ってしまったらしい。戻った鬼塚に正樹は鼻を摘まれ「大家が真上に住んでる部屋で、あんな事しやがって…」と責められてしまった。
 内心、『たかが扱いただけでしょ!』と言いたかったけれど、正樹自身も、本格的にするんならホテルがいいなと思っていたので、「すいません…」と謝ったのだ。
 しかし、謝ってしまったがために、次のステップを踏むのが難しくなってしまった。自分の部屋なら、その場の雰囲気に任せて押し倒すのも容易だと思っていたが、「上に大家が居るだろう!」と拒否されそうだし、かと言って、おぼこな鬼塚をいきなりホテルに誘ったって、素直に「うん」とは頷かないだろう。
 だから仕方なく、そういう色事は棚上げにして、ここ二週間は鬼塚の部屋で酒を飲みながらDVD鑑賞をしたり、秩父の方へ車を飛ばして渓流釣りを楽しんだりした。
 そうして迎えた三月十四日。所謂(いわゆる)ホワイトデーだが平日のせいもあって、鬼塚とは何の約束もしていなかった。
 別にイベントに拘りなどない。まして、バレンタインに何もあげていないのだから、何の意味もない日なのだけど……。
 最近、かなり溜まっているのだ。中坊かと、自分でも呆れるほど悶々としているのだ。いい加減、キスさえ出来ない状況を改善したかった。全部は無理でも、触るくらいしたい。
 だから、ホワイトデーにかこつけて誘えば、その辺の意図を察してくれないだろうかと、ほのかに期待しているのだが、相手は鬼塚だから無理だろうな…と思いつつメールを出した。もちろん、ホワイトデーのホの字も出さず、二月に清水たちと銀座の日本酒専門店で購入した酒を、未だ渡しそびれているから、ただ「上手い酒が手に入ったので、飲みに来ませんか?」と誘ったのだ。
 その返事が、まだ来ないのである。いつもなら五分後くらいには、そっけない一行メールが届くのだが。
「…戻ろ……」
 じっと眺めても、うんともすんとも言わないスマホを内ポケットに仕舞って、正樹はようやく重い腰を上げた。
 まあ、帰りまでにメールが来ればいいのだ。フラれたら仕方がない。独りで『辻村』でヤケ酒でもしよう。そう気持ちを切り替えたけれど、こんな時はやはり、同じ会社にいるのに会いに行けないのがもどかしくて仕方なかった。それと言うのも……。
 正樹を一番悩ませているままならない事、その二。相変わらず二人の障害物として鎮座している清水の存在だ。
 バレンタインデーに鬼塚から断られた筈なのに、最近は正樹の周りにもチョロチョロ出没し始めたから、余計に腹が立ってしょうがない。
 どうしてあの女は、ああも諦めが悪いのか。他人の気持ちほど、ままならないものはない。
「あ〜〜っ、もう一本吸いてぇ!」
 苛々は募るばかりなのに禁煙するのは、逆に寿命が縮みそうだと思いながら乱暴に出入り口の扉を開くと、目の前に驚いた顔をした日下部が立っていた。正樹も「わっ!」と驚いて日下部としばし見詰め合ったが、「だったら、もう一本吸って行きたまえよ」と日下部に腕を取られて外へと戻されてしまった。
「えっ、ちょっと…俺、時間が……」
 日下部が真面目な顔をしているので、何か話があるのだろうとは思ったが、十分以上ダラダラ過ごしていたので、いい加減フロアに戻らないと怒られる。
 そんな正樹にはお構いなしで、日下部は正樹を引きずるようにして正面の手摺まで連れて来ると、向かい合うように立って腕を組んだ。
「時間? 鬼塚くんの一大事なんだから、それくらい何とか誤摩化したまえよ。何なら、接待費請求の書類がずさんで経理部に呼び出された、とでも言っておきたまえ」
「そんな事言ったら、余計怒られますよ! もう、鬼塚さんの一大事って、何なんですか?」
 日下部の用なんて鬼塚がらみに決まっているけれど、一大事とは穏やかじゃない。
「鬼塚くんから辞表を受け取ったんだけど、何か聞いてるかね?」
「えっ、ええええぇ〜〜っ」
 驚きに素っ頓狂な悲鳴を上げると、嘘だろうと日下部を見詰めた。
「その様子じゃ、知らないようだね」
「知りませんよ、そんな事!」
 全然、聞いていない。ショックのあまり茫然と足元を眺めた。何となく地面がゆらゆら揺れている気がした。
「理由を訊いても、前から決めてた事だとしか言わなかった。確かに、税理士事務所を開きたいと希望していたのは知ってる。しかし、お祖母さんは亡くなってしまったし、今は君がいる訳だから、会社を辞めてわざわざ独立する理由は無くなったと思っていたんだよ。それを辞めたいと言う理由は、 “ アレ ” しかないと思うんだが…。君はどう思うかね?」
「俺も、“ アレ ” しかない、と思います」
 正樹がそう答えると、日下部も頷き、二人同時に「う〜〜ん…」と唸ってしまった。
「早まったよねぇ。だから、私も対応策を考えると言っといたのに……」
「俺だって止めましたよ。でも、鬼塚さんの決心が固かったし…。だけど、普通言いますかね? 自分を振った男の恋愛を『私が取り持ってあげましょう』なんて……」
「本当は『ぶち壊してあげましょう』って意味だったんだろう? もう、意地になっちゃってるんだよ、彼女は……」
 正樹と日下部は、見詰め合うと同時にため息を吐いた。

 バレンタインデーの夜、鬼塚は清水を食事に誘い、彼女のプロポーズを断った。当然、理由を訊かれた鬼塚は、前の晩に正樹と話した通り、自分はゲイであると告白した。
「すまない、清水。俺は、女性相手では出来いんだ。だから誰とも結婚出来ない」
 しかし、やはり清水は簡単に引き下がらなかった。
「でも! この間は、男性は好きじゃないって、仰ったじゃないですか!?」
「あの時は、部長も堤もいたんだぞ。あんな公衆の面前で訊かれて、『はい、そうです』なんて答えられる訳ないだろう?」
「じゃあ、改めてお訊きしますけど、課長は男性が好きなんですか?」
「そうだ」
 きっぱり言い切った鬼塚の答えに、さすがにショックを受けたのか、清水は長いこと俯いたまま震えていたが、暫くして「…分かりました」と呟いたのでホッとしたのも束の間、顔を上げた清水は闘志を燃やした瞳で、挑むように訊いて来た。
「では! 課長は、堤さんをどう思っていますか?」
 鬼塚は内心大いに慌てたものの、持ち前のぶっきらぼうな口調で「何でそんな事を聞くんだ?」とかわすと、「堤さんは、課長に好意を持ってますよね?」と、まるで確認するような聞き方をされ、今度は正真正銘慌てふためいた。
「そ、そんな事ないだろ!」
「そんな事あります。あの人、絶対に課長の事が好きです。恋愛対象として!」
「いや、違うだろっ! あれは…堤は、誰にでもあんな感じだろう!? 以前から喫煙室でも、ま…前田? たちとあんな感じで、何かベタベタしながら喋ってたぞ?」
 そんな姿は見た事ないが、清水の意図をはかりかね、とにかく何とかはぐらかそうと、ある事ない事答えたが、清水は胡乱(うろん)げな様子を崩さなかった。
「そうですね…。誰にでも馴れ馴れしくて、取り入るのが上手いですよね、あの人!」
「清水……」
 蔑むような言い方に鬼塚は耳を疑った。初めて目の当たりにした清水の負の感情。しかし、振られたら誰にだって起こる感情だろうし、こんな事を言わせているのは自分だと思うと、清水を厭(いと)う気持ちは起きなかった。
 ただ、傷つけたのは自分なのに正樹が悪く言われるのは嫌だった。それに、この分だと正樹の危惧していた通り、迂闊(うかつ)に答えるとバラされてしまう可能性がある。鬼塚は正樹の立場を守らなければと、ただそれだけを強く思った。
「堤のそれは、長所だと思うぞ。営業だから、あれぐらい愛想がある方がいい。清水の目に、堤が俺を好きだと見えたのは、逆だよ。俺が堤を好きだから、親しげに見えたんだろうよ」
 当然、清水は驚いて息を飲んだ。黙ってしまった清水に、鬼塚は「さっきの、『堤をどう思うか』って質問の答えだ」と穏やかに告げた。
「…それは、堤さんに恋してるって事ですか?」
 か細い、気の抜けたような声だった。鬼塚は胸に痛みを感じ、その痛みで冷静さを取り戻した。
「うん」
「だから、堤さんに誘われただけで、髪の毛…切っちゃったんですか?」
「ああ」
「眼鏡も…彼の好みのを?」
「そうだ」
 ちょっと違うが、面倒くさいので否定しなかった。
「言っておくが、アイツは普通の男だし、俺の一方的な片思いだから」
 答えて貰おうとは思ってないと告げると、清水の虚ろだった瞳に光が戻った。
「片思いのままで、良いんですか?」
「ああ……」
 さすがにこれは嘘だから、思わず視線を外してしまうと、「駄目です!」とテーブルを叩かれて飛び上がった。
「そんな弱気じゃ駄目です! 告白してください!!」
「な、何で!?」
 なぜ駄目出しされるのか、全く訳が分からない。
「私が課長を好きだからです」
「はあぁ?」
 どういう理屈だと呆れて清水を見詰めると、清水はにっこり笑って言ったのだ。
「振られても、好きな人には幸せになって貰いたいですから、私が、課長と堤さんを取り持ってあげます!」
 あまり晴れ晴れした顔で言われてしまったので、『それは、余計なお世話だよ…』という言葉を、鬼塚は口にする事が出来なかった。

「やっぱり、ついて行けば良かった…。俺がいたらその場で『余計なお世話だ!』って、言ってやったのに!」
 やはり最初が肝心だったのだ。そこまで言ったのなら、ガツンと言ってしまえば良かったのだ。しくじったばかりに、清水が未だ障壁となって、鬼塚との仲を進展させられないでいるのだ。
「そして、その場で、二人してカミングアウトするのかね? 君の立場を思って、鬼塚くんは片思いだと言ったんだろうに」
「そうですけど、どの道このままじゃ、我慢出来ずに洗いざらいぶちまけちゃいそうですよ!」
 清水は有言実行とばかりに、正樹の周りをウロツキ出した。正樹が社食や喫煙室で休憩していると、いつの間にか清水が目につく所にいるのだ。だが、『取り持つ』と言った割に、何かして来る訳ではない。ただ、人目のある場所ですぐ近くにいるのだ。
 いくら気に入らない相手でも顔見知りなのだから、会えば挨拶くらいする。それに、鬼塚から経緯を聞いていたから、来るだろうと覚悟はしていた。ただ、用心は怠らず自分からは近づかないようにしていた。それなのに……。
 最近、妙な噂が立ち始めたのだ。営業の堤と、経理の清水は、“ イイ仲 ” らしいと。
 噂の出どころは分からない。もっとも、以前会社の一階のコーヒーショップで、二人きりで会っているのを複数の人間に見られていたし、営業部へ正樹を訪ねて来ていたのも知られているから、仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。
 自業自得だと、噂が出ている事を自ら鬼塚に伝えて謝ると、「いや、すまん。俺のせいだ…」と却って落ち込ませてしまい、正樹は自分の事を棚に上げ清水を心底恨めしく思った。
 噂を聞きつけた住吉からも『どういう事かしら?』と言うメールが届き、『こっちが訊きたいですよ!』と泣きを入れた。
 もともと鬼塚は口が固いから、今回の事は正樹以外、誰にも話していなかった。特に日下部には、正樹の件で懲りたらしく一切相談していなかった。それに、相談したところで、住吉も日下部も助けにならないと思っているのだ。
 この問題が厄介なのは、鬼塚がカミングアウトしてしまった事だ。仲裁を頼むには、清水の口から鬼塚がゲイだと聞かされても問題ない人間 ―― 住吉か日下部しかいないが、清水にとってこの二人は、端から鬼塚の味方と見なされていて、聞く耳など持たないだろうと、鬼塚は決めつけているらしかった。
 事情を知らない事になっている住吉は、表立って動けない代わりに耳をダンボにして情報を集めてくれた。その話では、清水は正樹との噂を聞かれると、はっきり「デマです」と言うのだそうだ。
 そして、鬼塚の事を聞かれると、「上司として尊敬している」と答える。既に清水が振られているだなんて誰も知らないから、山崎の彼女ですら「まだアタック継続中」だと思っているらしい。
 一体、何が目的なんだろうか?
 考えるまでもなく、最終的には自分たちの仲をぶち壊したいからだろうが、鬼塚に対して言ってる事とやってる事が支離滅裂で、清水の意図を察しかねた。
 メールで住吉に聞いて見ると『私にわかるワケないでしょう! 私だったら、さっさと諦めるわよ!』と返されたが、怒り顔の絵文字が並んだあとに、『意地悪く見れば、振られた腹いせに、鬼塚くんじゃなくて、堤くんを突っつきたいのかもね』と書いてあった。
 日下部に話すと、「そうね。同じ土俵まで引っぱり上げたいのかもね」と頷いた。
 正樹はノーマルな男で、鬼塚の片思いになっているから、場外へ出されてしまっている。文句の言いようがない状態に我慢しきれず、アクションを起こして来るのを待っているのだと。
「清水くんには、君の気持ちがバレちゃってるみたいだから、鬼塚くんが君を庇って片思いだと言ったのが、怒りを助長しちゃったのかもね」
「だったら、やっぱり俺からはっきり言った方が、いいんじゃないでしょうか?」
「でもねぇ、二人の関係を君に認めさせる…それが清水くんの目的だとしたら、彼女、言いふらすかも知れないよ? 『私、振られちゃいました。だって、課長と堤さんは、同性愛の関係だったんですもの!』って……」
 日下部は清水の声音を真似て言うと、肩を竦めた。
「鬼塚さんは、彼女はそこまで “ 性格悪くない ” と言ってましたけどね!」
 あの人は女ってものを全く分かってないと言うと、日下部は苦笑しながら、「私もそう思っていたがね、意外と強(こわ)い性格みたいだね」と頷いた。
「だから鬼塚くんも、自分が辞める事で、君への当てつけを止めさせようと思ったんだろうね」
「なんか、許せない。鬼塚さんがその事で辞めるなんて、間違ってませんか? あの女に屈服したみたいで、ムカついて仕方ない!」
 吐き捨てるように言うと、日下部が「だから、受け取りはしたが、受理するつもりはないと言ってあるよ」と宥めるように言った。正樹は居ても立ってもいられなくなった。
「俺、ちょっと鬼塚さんと話して来ます!」
 日下部は「今から?」と驚いた顔をしたが、正樹が「ずさんな書類の指導でも何でもいいんで、誤摩化しといてください」と言って駆け出すと、「仕方がないねぇ〜」と間延びした返事が聞こえた。

 経理のフロアまで駆け降りたものの、清水がいるので入って行く訳にはいかない。正樹はスマホを取り出し鬼塚の携帯にかけた。仕事中にかけた事などないから出るか分からないが、メールの返信が半日後という事もないから、近くには置いてある筈だ。
 階段ホールに身を隠して、続けざまに電話とメールを入れること三分。鬼塚がイライラした様子でフロアの扉を開けて出て来た。正樹は駆け出すと背後から鬼塚の肘を掴んで「話があります。ちょっと来てください!」と引っ張った。鬼塚は驚いて「何で?」と言ったものの、正樹の様子で察しがついたのか、大人しく廊下の先のトイレまで連行されて行った。
 トイレには誰もいなかった。このフロアは、経理部の他は会議室と資料室しかないし、他部署と違って男性社員が少ないから利用率は低い。それに扉の開閉に割と大きな音がするので、誰か入って来たらすぐに分かる。それでも大事を取って個室に連れ込んで鍵をかけた。
 狭い空間に閉じ込められて焦った鬼塚は、正樹を見上げてきっと睨んだ。
「こんな所に閉じ込めて、どうする気だ?」
「話があると言ったでしょう? 男子トイレの中までは、さすがに清水さんでも入って来れないでしょうしね!」
 清水の名前を出すと、途端に下を向いてしまった。その事で責めるつもりなどなかったから、慌てて本題に入った。
「どうして、辞表なんて出したんです?」
「やっぱり、聞いたんだ。何度も携帯にかけて来たり、血相変えてておかしいと思った。あの人は…ったく、も〜〜」 
「も〜〜は、こっちですよ! 日下部さんがお喋りで良かった。何で俺に相談してくれなかったんです?」
「言えば、反対するだろうと思った」
「当たり前です。こっちは何の落ち度もないのに、まるで、嫌がらせに屈服したみたいじゃないですか!」
「清水の事だけじゃなくて、前から考えていた事なんだよ」
「どういう事ですか?」
 知っていたが、知らぬ振りで訊いた。自分の事が筒抜けなのは、鬼塚じゃなくても嫌なものだ。
「ここを辞めて、税理士事務所に転職する。祖母に介護が必要になったら、いきなり開業するつもりだったけど、もう焦る必要はなくなったし、やっぱりその道での経験は必要だろう。だから二、三年勤めて、それから独立しようと思うんだ」
「独立……」
「うん。今まで日下部さんに引き止められて、そのままズルズル来てたけど、清水の事は…ある意味、踏ん切りつける良いきっかけになったよ」
「でも……」
 大学生の頃からそう決めて、独立する準備を着々と進めて来たのだと言うから、辞めるのは決して後ろ向きな事ではなく、その夢を叶える一歩に繋がるのだろう。鬼塚の将来なのだから、正樹に文句を言える筋合いはないけれど…。
 何だか胸がモヤモヤして、気分が晴れない。納得が行かない。
 複雑な心中が表情(かお)に表れていたのだろう。鬼塚は正樹の頬に手を当てて言った。
「そんな顔するな。それに、同じ会社にいない方が、気兼ねなくお前に会えるだろう?」
 機嫌を取るように、優しい笑顔で笑いかけられた。
「鬼塚さん!」
 正樹は感極まって鬼塚にキスしようとしたが、途端に頬を触っていた手で口を塞がれ、もう片方の手で胸を押されて拒否された。
「ぐう、ぐぐぐっ〜〜!」
 何で拒否するの、と言いたいが口をぴったり塞がれて、呻き声しか出やしない。しかも、近づこうとすると更に強く胸を押し返された。それでも、狭い空間で向かい合っているのだから、互いの間はそれほど離れていない。
 呻きながら長い腕を伸ばして鬼塚の背中に手を回すと、鬼塚の身体から力が抜けたので、そのまま引き寄せ抱きしめた。
「ここじゃ、駄目だ!」
 口を押さえつけたまま怒ったように言う鬼塚に、じゃあ、どこなら良いんだと目で問いかけると、「会社じゃ駄目だ。このあと、まだ仕事があるのに、キスなんてしたら、手につかなくなる……」と真っ赤になって困ったように言うものだから、余計に煽られて堪らなくなった。
 口を押さえていた手を握って強引に剥がしてしまうと、「じゃあ、代わりに、ちゃんと抱きしめてください」と懇願した。
「えっ、うっ…ん……」
 驚いて目を泳がせてから恥ずかしそうに顔を伏せ、鬼塚はぎゅっと正樹の身体を抱きしめた。
 正樹は思わず感嘆のため息をもらした。ずっと、こうして抱き合いたかった。堪らずに鬼塚の肩に顔を埋めるとその匂いを嗅いだ。鬼塚は自分で洗濯もアイロンもかける人だから、洗剤の香りと一緒に微かに鬼塚の匂いを感じた。途端に身体中が熱くなった。
 無理もない。我慢に我慢を重ねて来たのだ。触れてしまうと本能的に尻も背中も、それこそ体中撫で回したいのだが、ヘソを曲げられると怖いから今も我慢している。実を言うと、鬼塚に頬を触られた直後から股間が嵩(かさ)を増していた。これでも腰を後ろへ引いて、密着しないように気を付けているのだ。
 場所も場所だし、自分でも駄目だと思うけれど、せめてキスくらいしたい。ジレンマに思わず肩に小さく噛み付くと、途端に背中を叩かれた。
「もう、いいだろ――」
 鬼塚が言いかけたところで、扉の軋む音がした。誰かが用足しに来たようだ。二人して息を飲み、抱き合ったまま身を固くした。鬼塚は形の良い瞳を大きく見開いて息をひそめ、全神経を集中して扉の向こうを窺っている。神経を研ぎ澄ましているのに、ある意味、全く無防備な状態だった。
 正樹は顔を近づけると、眼鏡を避けるため斜め横から鬼塚の唇を奪った。同時に暴れ出さないよう、きつく身体を抱きしめた。
「んっ……」
 鬼塚は鼻から驚きの声をもらしたが、その自分の声に焦って扉の向こうを窺い、正樹に唇を貪られると、こちらにも気を奪われて、どうしていい分からないと言った苦悶の表情で、身を固くしたまま正樹の好きにされていた。
 好きにすると言っても、正樹とて頭の隅で人の気配を窺いながらだから、鬼塚をあまり驚かせないくらいに、その柔らかい舌と唇とを交互に優しく愛撫するのが関の山だった。
 暫くして扉の軋む音と共に人の気配が消えると、鬼塚が正樹の背中を強く叩いた。ぐっ、と咳き込みそうになり慌てて唇を離したが、防御のために鬼塚の頭を抱き込んで、その耳元に唇を寄せると「ごめんなさい!」と謝った。
「だけど! ずっと、鬼塚さんに触りたかったんですよ! もう一ヶ月ですよ? せっかく恋人になれたのに、キスはおろか、手だって握れなくて、ずっと我慢してたんですよ! 部屋に泊まったって、清水さんの事が頭にあるから、アンタ全然、全く、そういう気分になれなかったんでしょう? 分かってるけど、少しは、俺の事も考えてくださいよ! そりゃ、俺がエッチなんでしょうけどっ! それが、いけないんでしょうけどっ! 俺はアンタが好きなんですよ! 好きな人に触れたいって気持ち、少しは分かってくださいよっ!!」
 自分たち以外トイレには誰もいないのに、声を潜めて捲し立てた。我慢していた分、だんだん怒りも加わって、途中で訳が分からなくなったが、そのまま一気に吐き出したので、最後は息切れしてゼェゼェ喘いでしまった。
 ああ、情けない……。
 惨めな気分だった。不平不満を出してしまうと、スッキリするどころか、情けなくて泣きたくなった。触りたい、触りたいって何回言っただろう。いい歳した大人が中学生みたいに。冷静になると恥ずかしくて仕方なかった。
 鬼塚は黙ったままじっとして動かない。
 きっと怒らせただろうし、今日は独りで『辻村』でヤケ酒しようとため息を吐くと、鬼塚がぎゅっと背中を抱きしめて来た。
「俺も…思ってるよ。俺だって、お前に触りたい…でなけりゃ、ぶつかったとき、手なんか…差し出さなかった……」
 小さな声だった。恥ずかしさを堪えるためか、震える声で途切れ途切れに、それでも正樹の胸に抱きついたまま、鬼塚は告白を続けた。
 みそ汁まみれになった時、トイレまで連れて行けと手を差し出したのは、チャンスだと思ったのだと。ずっと見ていて、それでも声をかけるつもりは毛頭なくて、けれどあの時だけは、正樹に触れられる、たった一度の幸運(チャンス)だと思ったと。
「俺にだって…したい、気もあるし、ちゃんと、お前と恋人になりたい。だから、辞めるって決めたんだよ……」
「わかりました……」
 同じ気持ちでいてくれた事が嬉しくて、清水への蟠(わだかま)りなど、もうどうでも良くなっていた。
 鬼塚が辞めた後まで清水が追っかけて来るようなら、立派なストーカーとしてそれなりの対処をするまでだし、何か自分に嫌がらせを仕掛けて来るようなら受けて立つ。鬼塚に迷惑さえかからなければ、正樹自身は清水に対して何ら臆する所はないのだから。
 清(すが)しい気分になって身体を離そうとすると、鬼塚が嫌がるようにぐっと抱きついて来て、「あと…」と言葉を続けた。
「今晩、お前の部屋に行くから……」
「えっ?」
「お前、誘っただろ? その、つもりで、行くから……」
 それだけ言うと、鬼塚は身体を離して正樹を見詰めた。
「は、はい!」
 嬉しくて勢い込んで返事をすると、鬼塚はうっすらと頬を染めたまま微笑した。
 それがまあ、可愛いと言うか、色っぽいと言うか、思わずぼうっと見惚れていると、すっと鬼塚の視線が下がり、ある一カ所に目が据えられた。
 次の瞬間、膨らんだ股間をさわさわと撫で上げられて、最後にぎゅっと、かなり強めに握られた。
「うおっ!」
 正樹は声を上げると、反射的に前屈みになって股間を押さえた。その耳元に鬼塚が唇を寄せた。
「ついでに言っとくが、その恥ずかしい状態を元に戻せ。恋人のそんな姿、俺は誰にも見られたくないからな。元に戻るまで、外歩くなよ!」
「ううっ…はい……」
 鬼塚はすっかりいつもの調子に戻っていて、ぶっきらぼうに言い捨てると、乱暴に鍵を開けてさっさと出て行ってしまった。正樹は慌てて扉を閉めると目を閉じて、深呼吸しながら必死で九九を唱えたのだった。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、NOVELでお戻りください。

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