鋭角に切り取られた痕が、階段だったと分かる崩れかけた石だらけの斜面を注意深く登って行く。鬱蒼とした雑木林の中だから、肌を刺す日差しがなくて幾分涼しい。それでもあまり風が通らないせいか湿気が多くて肌が汗ばむ。もう少しだからと頭上から掛けられた声に励まされ、漸く最後の石段を登りきると突然視界が開けた。
「景色、いいだろう?」
深雪(みゆき)に見せたかったんだと言って、巻上龍彦(まきがみ たつひこ)は眼前に広がる景色を指さして笑った。
石段を登りきった左手がすぐ崖になっていて、深雪の住む村の西側が見渡せた。今年の四月から住み始めた深雪には名前は分からないが、優雅な稜線を引いた山並みと、その裾野まで稲穂の海が広がっていた。
深雪が嘆息して頷くと、龍彦も自慢げな顔をして頷いた。ホームルームが終わるや否や龍彦に腕を引っ張られ、ここへ連れて来られた。確かにカンカン照りの中、自転車を二十分漕いで来た甲斐はあった。
それにしても、ここは何なんだろうと深雪は辺りを見回した。石段を登りきった頂上は十メートル四方の空間がぽっかりと開けているが、この西側以外は深い雑木林に囲まれていて景色は見えない。広場の中心に三メートル四方の大きな石の台座があって、小学生の頃見学した何処かの城跡に似ていると思った。
「ここは、下の稲荷神社の本殿があった所なんだよ。
明治時代に落雷があって焼けちゃったんだって。
どういう訳だか、そのとき本殿を下に移しちゃったから、
今は跡しかないんだけど」
深雪の疑問を酌むように龍彦は説明した。今し方登って来た石段の真下に稲荷神社がある。割と大きくて立派な神社だ。
「うしろの杉の木に、雷が落ちたんだって」
龍彦が指さした先には台座しか見えなかった。深雪が首を傾げると龍彦は台座の方へ歩き出した。深雪も慌ててあとを追うと、台座の向こう側に直径一メートルほどの木の切り株があった。
杉は落雷で割れたのだと龍彦は言った。切り株は地面から五十センチ位の高さで切られていた。遠目では分からなかったが、近づくと台座は思ったよりも高く、深雪の胸の高さまであったから、正面からだと切り株は隠れて見えなかった。
「あっ、蝉の抜け殻」
龍彦は跪くと切り株の足元から薄茶色の殻を取り上げた。掌に乗せた空蝉は、強い日差しに照らされて、琥珀のように薄く透けて輝いた。龍彦がもっとよく見せるように掌を近づけると深雪は一歩退いた。都会っ子の深雪は昆虫が苦手だった。触れるのは蟻と蜻蛉だけだ。
「もう九月なのに、今頃出て来て大丈夫なのかな。
もうあんまり鳴き声も聞かないし、ちょっとしか生きられないのに、
相手見つかるんだろうか……」
男のくせに昆虫が苦手なのが恥ずかしくて、深雪は取り繕うように早口で言った。
「ああ、これは最近羽化したものじゃなさそうだよ。
死んだ木の根に幼虫はつかないから、誰かがここに持って来たんだね。
まあ、ちょっとって言っても一ヵ月くらいは生きているから、
きっと相手も見つかるよ……」
「えっ? そんなに生きているの?
一日か、せいぜい三日くらいしか生きていないんだと思ってた」
「一、二日で死ぬのはユスリカとかかな。蚕だって十日は生きているよ。
蝉は日中の暑い時間はあまり鳴かないんだ。鳥とか天敵だしね。
朝と夕方はまだ鳴き声がしているだろう?」
何にも知らないんだなぁと言いたげな目をして龍彦は笑った。深雪は突然くるっと反転して、足早に石段の方へ向かった。恥ずかしさに赤くなった顔を見られたくなかったからだ。うしろから慌てたように名を呼ぶ龍彦の声が聞こえた。
「そこ、暑いから!」
日差しの暑さを言い訳に、日陰の石段を下りかけたとき、横をすり抜けた龍彦が振り向き様に深雪の手を取って立ち止まった。一段下がった所にいても、背の高い龍彦の目線は深雪よりもまだ高い。走ったせいか肩で息をしながら深雪の顔を覗き込んだ。真剣な瞳を向けられて、深雪も思わず見詰め返した。
「今晩、ここの祭りがあるんだ。一緒に行かないか?」
「祭り? えっ、でも……」
腑に落ちない誘いに目を丸くする。稲荷神社の大祭がお盆休みにあったのだと、夏休み明けに級友から聞いていた。みんなで行って楽しかったんだよ、深雪もいたら良かったのにと言われ、がっかりしたのは記憶に新しい。深雪は夏休みの一ヵ月間、九州にいる両親の許にいてここにはいなかった。
父親の転勤先が郷里の福島だとの事で、思い切って東京を離れ、一家で祖父の家へ移る計画が出たのは今年の一月。深雪は二月からこちらの高校に入る準備を整えて両親が来るのを待っていたが、蓋を開けて見れば父親は九州へ転勤になった。
珍しく東京に大雪が降った日に生まれたからと、男に深雪と名付ける考え無しの両親は、今回の転勤騒動も「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいるから大丈夫」の一言で片付けた。人見知りの強い深雪は、祖父母のほか誰一人知る者のない土地で、胃が縮む思いで新生活を迎えたが、そんな深雪に手を差し伸べたのが龍彦だった。
龍彦は先祖代々村長を勤める名家の次男坊で、自身も家名に恥じない人柄だ。深雪の何を気に入ったのか、入学早々から付きっきりで仲間の輪に入れるよう導いてくれた。
名前のごとく色白で、女の子みたいだとからかわれる都会のもやしっ子を、初めは物珍しそうに遠巻きに眺めていた同級生も、今では龍彦と同じように名字の「山縣(やまがた)」ではなく「深雪」と名を呼んで親しく付き合ってくれる。
仲間に入れたその後も、何くれと無く面倒をみてくれる龍彦に、深雪は感謝と敬愛の念を抱いたが、その思いはいつの間にか恋慕に姿を変えていた。
深雪の驚いた顔が面白かったのか、龍彦は声を立てて笑いながら深雪の手を引いて石段を下りはじめた。
「明治時代にここの本殿が焼けるまで、秋に大祭を行っていたんだけど、
休みのときにやらないと人が集まらないから、お盆休みに行うようになったんだって。
お稲荷さんだからお盆は関係ないのにね。
祭りって言っても地元の氏子しか来ない小さなものなんだけど、
それでも屋台もちゃんと出るんだよ」
そう言われれば、下の境内で的屋が屋台を準備していたのを思い出す。
「さっき見た台座の上に米と御神酒と榊、もちろん油揚げもお供えして灯明をあげるんだ。
台座からずっと石段の下まで、両脇に一段ずつ蝋燭を立てるんだけど、
この灯りが、下から見上げると凄く綺麗なんだ。
まあ、祝詞を挙げたあとは誰も上まで登らないけどね」
だから一緒に行かないかと言われ、深雪はこくんと頷いた。夏休みを龍彦と過ごせずにがっかりしていた分、どんな小さな祭りでも一緒に行けるのだと思うと浮き浮きと胸が高鳴った。
深雪だけに見せたい物があるから、少し遅い時間に行こうと龍彦は言った。八時半に迎えに行くから浴衣で待っていてとも言われ、それはちょっと恥ずかしいと躊躇したものの、結局こくりと頷いた。
家に戻った深雪は祖母に浴衣はあるかと尋ねると、祖母は嬉しそうな顔をして、お祖父ちゃんのがあるよと答えた。お祖父ちゃんの、との言葉にどんな柄かと心配になったが、普通の白絣だったので安心して借りる事にした。
風呂に入って軽く夕飯を食べた後、祖母に浴衣を着せてもらった。柔らかい鼠色の兵児帯が年寄りくさいと思ったが、途中で緩んでも蝶々結びをすればいいからと言われれば納得するしかなかった。
浴衣に着替えても出掛けない深雪に祖父母は不思議そうな顔をした。約束の時間が八時半だと言うと、祖母は合点が行ったと頷いて、肝試しかいと笑った。
「えっ、肝試し?」
深雪は昆虫と同じくらいお化けや怪談話が苦手だった。
「九時で祭りが終わるとね、公民館に座を移して酒盛りになるから、
すぐに人がいなくなっちゃうんだよ。屋台の片付けが終わるともう真っ暗。
墓があるわけじゃないけど、本殿跡まで登る石段は結構怖くてね。
昔から遅い時間に行く子は肝試しが目的なんだよね」
蒼白になる深雪の顔を眺めて、祖父母は可笑しそうに口元を押さえた。
約束通り迎えに来た龍彦は、口をへの字に結んだ深雪と、笑いを堪えた祖父母の顔を交互に見て首を傾げた。
深雪は肝試しの件といい、龍彦の出で立ちが涼しげな水色の綿シャツにジーンズ姿なのといい、騙された気がして恨めしく感じたが、目を細めて「よく似合う」と微笑まれると文句の言葉は喉元で消えた。
龍彦に手を引かれ、暗い一本道を懐中電灯の灯りを頼りに神社へ向かった。田舎道は数えるほどしか電灯がない。月の出ない冬の夜、深雪は初めて漆黒の闇を体験したが、逆に月の光が煌々として美しいものだという事も知った。
今宵は雲もなく晴れ渡って、猫の目みたいな月が浮かんでいる。十五夜にはまだ早いが、金色に輝いて美しかった。田んぼを渡る夜風が冷やっとして心地よい。降るように聞こえる蛙と虫の音に混じって、どこか遠く蝉の声もする。深雪はここに移り住んでから、季節の変わり目を肌で感じる喜びを覚えた。
半時間の道行きで神社に着いた。鳥居を潜って参道に入ると、両脇に立てられた灯籠すべてに灯がともされて祭りの風情は充分だが、それほど人出がなく閑散としていた。それでも龍彦の言う通り、金魚すくいや射的にいか焼きなど一通りの夜店が並んでいた。同じ柄の浴衣を身に着けた大人を多く目にしたが、子どもは幼い子の姿しか見掛けなかった。
たこ焼きを買おうと並んでいると、同級生の母親に、ずいぶん遅かったのねと声を掛けられた。夏の大祭と違って氏子の大人が中心の秋祭りは、子どもは早い時間に屋台で腹を満たした後、隣町のボウリング場へ行くのだと教えられた。
深雪は何だ、そうなんだと拍子抜けしたが、特にボウリングをしたいとも思わなかったし、龍彦と一緒にいられればそれで良かったから気落ちはしなかった。もっと早く来くれば良かったのにと言うお節介な小母さんに、龍彦は笑って頷くだけだったので、深雪も同じように曖昧に頷いて見せた。
焼きそばを食べて、ラムネを飲んで、輪投げで惨敗した深雪は、最後に杏飴を買って口に銜えた。龍彦は特に目的はないのか、深雪の後についてぶらぶら回っているだけだったが、とても楽しげだった。
ぐるっと夜店を回って、もうそろそろ終わりの時間だなと思っていると、龍彦は深雪の手を握って、「深雪、上に行こう」と言った。
深雪はびくっと肩を震わせ握った手を離そうと引っ張ったが、思いの外強く握られていて離せない。「深雪?」と怪訝そうな顔で見詰める龍彦に、「きっ、肝試し?」と涙目で問い返すと龍彦は爆笑した。
「違うよ。ああ、だから変な顔してたのか。
肝試しはもっと人が退けた後で。って嘘だよ。ごめん、怖がらせちゃったね。
上でね、見せたい物があるんだよ」
じっとりと睨め付ける深雪の目線を苦笑でかわした龍彦は、社の裏手、蝋燭が灯された崩れた石段へ、戸惑う深雪の手を引いてゆっくりと歩いて行った。