人と食事をするのが苦手だった。人前で食べ物を口にするのが異常なまでに恥ずかしく感じる藤谷綾人(ふじたに あやと)にとって、親しい友人や家族以外の人との会食は極力避けたいところだが、サラリーマンで営業の仕事などしていればそうも言っていられない。
食事の席を同じくするのは相手と親しくなる第一歩。まして今日の相手は知らない仲でもないのだから。そうは思うものの、誰にでも苦手な人はいるもので…。
隣の席でにこやかに笑っている取引先の担当者(お得意様)を眺めながら、綾人は心の中で小さなため息を吐いた。
「ここの穴子は美味しいよ。昼時だから握りか散らしのセットしかなくて、穴子は握りのセットにしか入ってないから俺はそれにするけど、綾人も同じでいいか?」
いいも悪いも、どちらか二つに一つだし、安い方がいいだろうが値段も分からないから「はい…」と言って頷くと、綾人と三つしか違わないお得意様は、慣れた様子でカウンターの中にいる職人に注文した。
「ハイッ! 握り二人前!」と注文を受けた職人がよく響く声で復唱すると、中にいる他の二人の職人が、ヘイとハイの中間のような、やはりよく通る声で返事をした。
回転寿司以外の店で寿司を食べるのも、カウンターに座るのも久しぶりで、どうにも落ち着かない気分で隣のお得意様の様子を窺うと、楽しそうに微笑む瞳とかち合って慌てて目を逸らした。
「古尾谷(ふるおや)さんは、こちらにはよく食べに来られるんですか?」
気まずさから逃れるように急いで話しかけると、古尾谷幸人(ふるおや ゆきと)は顔の前で大げさに手を振って見せた。
「まさか。俺だってまだ二回目。上司に連れてってもらったのが最初。すごく美味しかったから、また来たいなと思ってたんだ」
そりゃあ、美味しいんでしょうねぇ……と呟きながら、白木の清潔そうなカウンターと綺麗な対比を見せている漆黒の壁、その壁に絶妙なバランスで配置された飾り棚の生け花や焼き物を、綾人は目だけ動かして順繰りに眺めた。
ここは東京の中心地、Mビルの中にある某高級寿司屋。本店は銀座にあり、一見(いちげん)さんお断りの店として有名だが、Mビルが立て直される際にショッピングモールに出店する事になり、若者でも入れるリーズナブルな値段設定の店としてオープンした。五年も前の話だが、当初はトレンド雑誌『東京一ヶ月』などでも紹介され、上流嗜好の連中の間で注目を集めていた。
綾人も情報業界の一端にいるので、話題としてこの店の存在は知っていた。でもまさか、そこに自分が食べにくる事になるとは夢にも思っていなかった。
値段が違うのだ。雑誌には夜のコースしか値段が出ていなかったが、軽く三万円を越えていた。なのに、未だに夜は予約でいっぱいだという。世の中、金のある所にはあるものらしい。
幸人が勤めるM商事はこの同じMビルの中にあり、社員はこのショッピングモールのレストラン街を社食扱いで使用できた。社員割引もあり支払いは身分証の磁気カードをキャッシャーに通せば、来月の給料から天引きされる。だから気軽に誘ってくれたらしいのだが、大企業に勤めるメリットは、こんな所にもあるのかとひがみ根性をつつかれる。
大体、居心地が悪くて敵わない。品の良い店内の雰囲気といい、ワイシャツにネクタイをして割烹着を着ている職人の風情といい、噂に違わぬ高級店だと感心はするけれど、綾人が行き慣れた店のように、ベタベタとお品書きが貼られていないから値段が一切分からない。
これでは怖くておちおち注文もできやしない。ここは皿の色で値段が分かるとかじゃないよなぁ。まさか、“ 時価 ” とか言わないよね……と無意識に懐を撫でた。
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。昼はそんなに高くないから奢ってあげる。経費で落とせるしね。それより何でずっと敬語を使ってるの?」
「そうなんですか、よかった…って、ええっ?」
心の中で呟いていたつもりだったのに、どうして考えてる事が分かったのだろう? 口に出してしまっていたんだろうかと慌てて口元を押さえると、幸人は銀縁眼鏡の奥の目を細めて心底楽しそうに綾人を見ながら言った。
「子どもの頃から綾人の考えてる事は大体分かるよ。それより従兄弟同士なんだから、俺に敬語を使うのは止めなよ」
「だって、今は仕事中だし…。ゆき…じゃない、古尾谷さんはお客様だから、けじめ…だよ」
「もう打ち合わせは終わったよ。七年ぶりに会ったって言うのに余所よそしいな、綾人は。昔みたいに “ ゆきちゃん ” って呼ぶのが恥ずかしいなら、幸人って呼んで構わないんだよ」
「でも…」
「二人きりの時に名字で呼ぶのは他人行儀過ぎるよ。綾人が俺を名字で呼ぶなら、俺も綾人を藤谷さんって呼ぶよ」
「分かった…」
不承不承頷いたところに注文した握りが運ばれて来た。黒い漆塗りの盛台の上に並んだ寿司は、小振りだがどれも新鮮そうな旬のネタが揃っていた。「さあ、食べよう」との幸人の声に頷くものの、綾人は寿司の前ではたと固まってしまった。箸で寿司を綺麗に食べる自信がなかった。
おずおずと隣の幸人を窺うと優雅な箸使いで甘エビを食べている。厳しい伯母の躾の賜か、幸人は子どもの頃から立ち居振る舞いが綺麗だった。その所作に見惚れるうちに、人前で食べるのが恥ずかしく感じる原因になった正月の出来事を思い出した。幸人に食べ方を笑われたのだ。
毎年正月の三日は、鎌倉の幸人の家で母方の親戚が集まって会食するのが慣わしだった。
綾人はこの集まりをいつも楽しみにしていた。祖父母と大好きな従兄弟の幸人に会えるからだ。小学生の時はしょっちゅう泊まりに行っていたし、数多い従兄弟のなかでは一番仲が良かった。
幸人は頭が良く、運動も出来たし顔も綺麗だった。伯母や祖父母の自慢だったし、その幸人と一番の仲良しだというのが綾人の自慢だった。
でもそれは、上昇志向の強い伯母の勧めで幸人が私立中学に入るまでの話で、受験や生活の変化からか、中学生になった幸人は綾人とほとんど遊ばなくなった。
だから尚更、幸人に会える年に一度の正月の集まりを楽しみにしていた。もう幸人は綾人だけの従兄弟ではなくなったが、会う度に逞しく成長している幸人の姿を垣間見られるだけでも嬉しかった。
そうして三年ほど過ぎて、綾人が中学に入学した翌年の正月だった。幸人は高校生になり同級生を連れて来ていた。背の高い、如何にも育ちの良さそうな綺麗な顔立ちの男の子だった。
滅多にない麗しい来客に、女の従兄弟はこぞって二人を取り囲み姦しく話しかけていたが、あぶれた男の従兄弟はゲームをしながら無関心を装うという例年にない雰囲気に、大人しい綾人はどちらに入る事もできず、幸人の方を盗み見しながらひたすら食べ物を口へ運んでいた。
お腹が空いていた訳ではなく、手持ちぶさたを誤魔化すために無意識にしていた行為だったが、無意識過ぎたのだろう。家でいつもやっているように、オードブルに出ていたゆで卵の黄身を外し、白身にマヨネーズをたっぷりつけて、黄身を戻すと一口でほおばった。それが一番好きな食べ方だった。
ハムスターが頬袋を膨らませているように、ぷっくりと頬を膨らませてもぐもぐ咀嚼していると、ぷっと吹き出すような笑い声がした。声の方へ顔を向けると無数の目が一斉に綾人に注がれていた。
「綾ちゃん、ハムスターみたい。ホントにマヨネーズ好きだよね。でも、あんまりマヨネーズばっかり食べてると、もっとまん丸になっちゃうよ!」
誰が言ったかはっきり覚えていないが、幸人たちを取り囲んでいた女の従兄弟の一人が声高に言ったのだ。途端にどっと笑い声が沸いた。綾人は恥ずかしさに顔から火が出る思いだった。
確かにマヨネーズが好きだったから何にでもかけて食べていたし、そのせいか身体が丸くなった自覚もあった。でも、まさか親戚中で笑われるなんて思ってもみなかった。両親も困ったように笑っているし、その場から逃げ出したかったがショックのあまり足が震えて動けなかった。
綾人は半泣きになりながら俯く直前、ちらりと映った幸人の顔が、隣の綺麗な同級生と顔を見合わて笑っていたのを見逃さなかった。
以来、綾人は正月の集まりに顔を出さなくなった。正月どころか、親戚の誰とも会おうとしなかったし、心配した祖父母がどんなに会いに来いと呼んでも、鎌倉の家には行かなかった。
幸人に会いたくなかった。この時から綾人の大好きな従兄弟は、大嫌いな従兄弟に変わった。
好きだったマヨネーズも口にしなくなり、すっかり痩せぎすになって一時は両親を慌てさせたが、取り敢えず人並みに成長はしたし、性格も捻くれるような事はなかった。ただ、人前で食べ物を口にするのが異常に恥ずかしく感じる、という後遺症が残った。
綾人が幸人に最後に会ったのは祖母の葬儀の席だった。三年が経ち、綾人は十七歳になっていた。
幸人は二十歳で東大に通っていた。寺の本堂で見かけた幸人は、大人たちと同じく喪服と黒いネクタイを締め、見慣れぬ銀縁眼鏡をかけていた。眼鏡をかけた幸人の姿を見たのはこの時が初めてだったが、眼鏡というアイテムは彼の知的な雰囲気をより際立たせていて、綾人の胸を高鳴らせた。
葬儀のあとの会席の場で綾人はずっと幸人の視線を感じたが、まともに幸人を見る事が出来ない綾人は、無視を決め込んで両親の傍を離れないようにしていた。何人か他の従兄弟に声をかけられたが、長い間会っていないから誰だか分からず、お座なりな会話を交わして早々に引き上げた。
それから更に七年の月日が流れたが、幸人の華々しい近況は敢えて知ろうとしなくても、自然と耳に入って来た。彼は親戚中の誉れだったから、両親が親戚の集まりに出かければ自然と聞かされて帰ってくるからだ。
東大を優秀な成績で卒業した後、M商事に入社しワインなどの輸入商品を扱う部署にいるのだと聞いていた。綾人は、絵に描いたようなエリートコースを歩む幸人とは、この先の人生でもう一生まみえる事はないだろうと思っていた。
綾人はそこそこの私立大学を卒業したが、就職難からアルバイトで今の会社へ入った。派遣業と就職セミナーなどを行っている就職情報会社の営業として、セミナーに参加して貰う企業を募るのが仕事だった。
その業種では老舗に入る会社だったから、営業としての苦労は少なかったが、とにかく人使いが荒い。アルバイトとは言え責任の重さは社員と一緒。なのに薄給という待遇に、一緒に入社したアルバイト社員は殆ど辞めてしまったが、綾人は我慢して朝から晩まで働き続けた。
ときどき、ふと幸人を思い出しては雲泥の差だなと胸が痛んだが、もう関わり合いになる事もない人だと思えば心がささくれる事もない。自分にはこの仕事しかないのだからと、努めて忘れるようにして働き続けた。
忍耐を重ねた一年間、働きすぎて体力と精力の尽きかけた綾人は、大学時代から付き合っていた彼女に振られるという辛い経験もしたが、そのスッポンのように食らいつく根性が認められ、漸く正社員として登用された。同時に担当企業を持たされて飛び込みの営業をしないでも済むようになった。
これで少しは楽になる、やっと努力が報われると喜んだのも束の間、その担当企業がM商事だと聞いて、綾人は俄に嫌な予感がした。しかし相手は大企業。部署も全然違うのだから、Mビルに通った所で幸人に会う確率はまずないだろうと思っていた。
それが、まさか途中で担当者が変わるなんて。しかも、新しい担当者が幸人になるなんて…。まるで漫画みたいな展開に、思わず笑ってしまったくらいだ。
七年ぶりに偶然の再会を果たした時、同席した他の社員が訝しく思うほど二人して瞠目したまま見つめ合っていたが、思わず笑ってしまった綾人の態度に、幸人はどこかほっとした表情で挨拶を交わした。それが、ほんの三日前の出来事だった。
「綾人? 食べないの?」
寿司を見つめたまま動かない綾人に、幸人が心配そうに声をかけた。物思いから引き摺り戻された綾人は、冷や汗をかきながらどうしようかと救いを求めるように周囲を見回した。そして一番端の席で手づかみで寿司を口に運んでいる客の姿が目に入り腹が据わった。
綾人は手づかみで小鰭を掴むと、ネタを下にして端にむらさきを少しつけて口の中に放り込んだ。そのあとは次から次へと寿司を口に運んだ。その様子を幸人がじっと眺めている。
開き直ったとは言え恥ずかしさに気を取られ、味なんか全然わからない。綾人は前を向いたまま殆ど噛まずに寿司を呑み込んで行った。
「綾人……二十五日の日、空いてる?」
唐突に問われて驚いた綾人は、寿司が喉につっかえそうになり慌ててお茶を飲んだ。
「な、に?」
なんとか寿司を飲み下し涙目で幸人を見ると、何故か顔を赤らめて慌てたように早口で同じ台詞を繰り返した。
「二十五日の夜、空いてるかなと思って…」
「空いてない。彼女とデートだから」
即答したが、半分は本当で半分は嘘だった。デートするのは本当だが彼女ではなく、友人に紹介された素性もよく知らない女性だった。
先月久し振りに集った大学時代の友人たちとの飲み会で、冗談まじりで疲れすぎて勃たないから彼女に振られたと告白したら、それは男としてヤバ過ぎると甚く心配され、遊び人を自称する友人が、気が合えば軽い乗りでヤらせてくれる娘を紹介するからと段取りを組んでくれたのだった。
そんな好きでもない娘と無理してエッチをする必要を感じなかったので、やんわりと断ろうとしたら「お前、このままじゃ不能になるぞ」と脅された。
それはさすがに怖いと青くなると、遊び人はしたり顔で言い放った。
「女の子だってさ、クリスマスを口実に気軽に楽しみたいと思う娘もいるんだよ。お前の息子もその気になれば治るだろうし、一挙両得、持ちつ持たれつ!」
色事に疎い綾人はそんなもんかと丸め込まれた。
幸人は刺すような鋭い視線を向けて、「彼女…いるの?」と確かめるような口調で尋ねた。それは綾人が初めて目にする表情で、まるで「嘘だろう?」と見透かされているような気がして頭に血が上った。見栄が咄嗟に口を開かせた。
「い、いるよ。僕にだって、彼女くらい。クリスマスはベタだけど、へルトン東京の一ッ星レストランで食事して、そのままお泊まりコースだよ」
聞かれもしないのに綾人はペラペラと喋った。こうして口が滑らかに動く時は嘘をついている時の方が多い。子どもの頃から変わらない綾人の癖を、もちろん幸人は知っている。
綾人は内心の動揺を押し隠し、嘘にならないようにこの後すぐにでもへルトンに予約を入れようと決心した。へルトンに泊まれるとあらば、あの娘もその気になるかも知れないし……。
「ふ〜ん…いいなあ、綾人は。彼女いるんだ、羨ましいな」
何を言われるかと身構えたが、意外な幸人の言葉に驚いて「ゆきちゃんは、いるでしょう?」と素直な気持ちが口に出た。幸人は寂しそうに笑いながら「いないよ…」と首を振った。
「自分の浅はかな思い違いで、好きな子を誤解させちゃってね…口も利いて貰えないくらい嫌われちゃったんだ。今でもその子が好きだけど、望みは薄いみたいだね」
俯く幸人の横顔を見ながら綾人の胸がツキンと痛んだ。自分で話題を振っておきながら、幸人に好きな人がいるという告白にショックを受けていた。
「今一人暮らしをしているから、俺の部屋で一緒に食事でもと思ったんだけど…仕方ないね」
「えっ? ゆきちゃん一人暮らしなの? 鎌倉の家、出ちゃったの?」
そんな情報は知らないと幸人の方へ詰め寄ると、寂しそうにしていた幸人の顔が見る間に綻んで、「そうだよ。あの家にいると未来が開けない気がしたから」と大げさな答えが返って来た。
十年単位のブランクを経て、幸人の男らしい端正な面立ちを間近に見つめた綾人の心臓は、破裂しそうなくらいに高鳴った。耳の先まで熱くなっているのが自分でも分かる。慌てて正面を向くと冷たくなったお茶を飲んで何とか気を落ち着かせようとした。顔半分に痛いくらい幸人の視線を感じる。
「じゃあ、お祖父ちゃん寂しがってるね……」
やっとやっと、そう絞り出すように言うと、「じゃあ今度、一緒に会いに行こう。お祖父ちゃん、綾人にずっと会いたがってたから」と言いながら、幸人は湯飲みを持つ綾人の手に触れた。柔らかく、暖かい幸人の手の感触と熱い視線にぞくぞく震える心地を悟られないように、綾人は俯いてから小さく頷いて返した。