INDEX NOVEL

真冬の幽霊 〈 10 〉

「十五年前に両親が離婚する事になった時、俺たち兄弟をどちらか一人ずつ引き取る事に決まったが、両親はどちらも兄を希望した。兄は頭が良くて、君と同じ新星学園の中等部に通っていた。彼は自慢の息子だったし、もちろん、俺にとっても自慢の兄だった。だから兄が望まれたのは理解できたけど、それと気持ちは別だった。結構ショックでね、俺の中で深い傷になって残ったよ…」
 武大は虚空を眺めながら悲しい記憶を辿っていた。亨はその横顔を見守りながら耳を傾けた。
 嗣永家は瀬戸物を製造販売する会社を経営しており、正秋は跡取りとして父親の元へ、武大は母親と一緒に彼女の実家がある名古屋へ移った。母親はそれから直ぐに再婚したので、武大が名乗った奥田姓は義父の名字であり、亨と出会った時は確かに奥田武大だった。
 離婚は父親がインドネシアに建てた工場へ赴任し、現地の女性を囲った事が原因だった。だが、母親の方も名古屋へ移った途端再婚したので、武大はどちらにも不信感を抱いた。母親の再婚相手には武大と一つ違いの息子がいて、母親はそちらと仲良くする事に夢中だった。
 信じられるのは大好きな兄だけだと、武大は新しい家族には心を開かず、兄との手紙の遣り取りを縁(よすが)に生きていた。それがぱったり届かなくなった。正秋が大学に進学したばかりの年で、武大は十一才になっていた。
「今思えば、俺は捻くれた扱いにくい子どもだったから、母も手を焼いたんだと思うよ。彼女としては、何とか新しい家族に目を向けさせたかったんだろうね。だからって、まさか兄の手紙を隠してしまうなんて夢にも思わなかったから、当然、俺は手紙をくれなくなった兄を恨めしく思ったよ。前に受け取った手紙に、大学の寮に入って毎日楽しいと書かれていたから、俺の事なんかどうでもよくなったのかと思ってね。…大体、兄という人は真面目な良い人だったから、俺の家族に対する不平不満も、ありふれた正当な言葉で諫めようとしてばかりだった。兄ですら俺の言う事に同調してくれない、どうせ俺は誰にも望まれない、つまらない人間だから相手にしてもらえないんだ…。そんな僻(ひが)みを感じていた矢先に手紙が来なくなったもんだから、俺も意地になって一切手紙を出さなくなった。本当は、兄は俺を心配してずっと手紙をくれていたんだよ。電話もかけてくれたらしい。でも、俺は携帯を持ってなかったから、それすら母に堰き止められているなんて知らなかったんだ。母は兄に電話もかけてくれるなと言ったらしいよ。まあ、俺も馬鹿だったんだよ。意地張らないで公衆電話からでも何でも電話すりゃあ良かったのに…。兄が死んだ時、母は泣きながら謝ってくれたけど…俺は、遣り場のない怒りと後悔を、どうしていいか分からなかった…」
 それからずっと、武大の心の中は正秋の事で一杯だった。大切な人を失ってしまった悲しみと怒りを耐えるには、手紙の遣り取りを断ってしまった二年間の空白を取り戻す、それしか方法が見つからなかった。
 母親が取ってあった手紙を渡してくれたが、そんな物では足りなかった。それらは亨が受け取った手紙と同じように、武大の事を気遣う言葉の他は、たわいない内容しか認(したた)められていなかったからだ。
「亨と一緒だよ。兄がなぜ死んだのか、どうして無理心中なんてされてしまう事になったのか、その理由を知りたかった。穏やかで優しい真面目な兄の姿しか俺は知らないけれど、本当は一体どんな人だったのか。それが知りたくて…そのためだけに生きてきた」
 高校までは名古屋にいるしかなかったが、正秋の足跡を辿るために同じ大学へ進み、あの寮へ入った。可能な限り正秋の友人に会い、恩師に会い、当時の状況を調べた。当然、堀川康弘についても。だが結局、大筋では亨が知っているのと変わらない情報しか掴めずにいた。
「断片的に分かる事はいくつかあったよ。でも、兄の本当の姿は何にも分からないまま、この寮も移転する事になって…。四年間見続けたあの椿も、もう見られなくなるのだと思うと離れがたくてね。いろいろ遣らなければならない事もあったのに、全部後回しにして最後の最後まで粘って…、あの日、亨と会えたんだ」
「僕と…」
「そうだよ…」
 武大は亨の手をぎゅっと握った。
「あの時、俺には亨が兄のように見えた。最後に見た時の兄と同じ制服姿で、あの場所に蹲(うずくま)っていたんだからね。俺の願いが通じて、昔の姿のまま会いに来てくれたのだと思ったよ。でも、急いで近づいて見れば別人で…。なのに、君は泣きながら兄の名前を呼んだんだ。驚いたよ、とても…。あの時、俺がすぐに正秋の弟だと名乗らなかったのは、気が動転したのもあったけど、運命のようなものを感じて気持ちが高揚していたからだ。俺はすぐに兄が残した手紙に出て来た男の子の事を思い出したんだ。興奮したよ。だって、まさかその子と会えるなんで思いもしなかったもの。もしかしたら、君から俺の知らない兄さんの姿が訊けるかもしれない。そう思うと、驚きを通り越して面白がる部分もあった。だけど…君は俺の誘いを断って、あの三原って子が現れた。あの時の君の怯えた表情と儚げな姿に、俺は居ても立ってもいられずに君の跡を追いかけたんだ」
 亨はその後の自分の行動を思い出し、恥ずかしさに俯いた。武大は亨の手を引っ張り、その身体を胸に抱いた。
「前にも言ったろう? 君を責めてるんじゃない。ただね…」
 武大は一旦口を噤み、亨の頭を撫でた。亨は武大の胸に身体を預け話の続きを待った。
「亨、俺が今まで話した事に嘘はない。でも、言えなかった事がある。兄についてだけど…亨の言うように、兄は堀川と付き合っていたんだと思う。でも、亨のように確信は持てなかった。俺は人から聞いただけだったから…」
 東京へ出て来てすぐ、武大は当時の記事を書いた複数の雑誌記者に面会を求めた。被害者の遺族であると告げると、大抵の人は面会に応じてくれた。残念ながら聞いた話に目新しい情報はなかったが、一人だけ衝撃的な告白をした記者がいた。
『もしかして、君のお兄さんは加害者と付き合っていたのかもしれないよ。確証が得られなかったので、記事には出来なかったけど』そう前置きして、記者は取材した内容を全て話してくれた。
 堀川を取材していたその記者は、女性相手の交渉は一切出来ない筈の堀川が、何度か女性連れでホテルに入るのを目撃されていたと語った。二丁目では割と堂々としていた堀川が、人目を忍んで会っていたその女性の存在は、結局分からず仕舞いで、女性にしては大柄の美人という目撃証言だけが残った。
 記者は、気を悪くしないでほしいと断ってから彼の推察を述べた。
『その女性は、女装した君のお兄さんだったんじゃないかと思うんだ。君のお兄さん、写真で見たけど綺麗な顔立ちだっただろう? 遠目から見れば女性で通せたんじゃないかな。乱暴なようだけど、そう結論付けなければ、堀川と君のお兄さんとはあまりに接点がなさ過ぎるんだ。警察はストーカーの突発的犯行と結論を出したけどね、薬を使われた訳でもないのに、何の抵抗もなく前から一突きに刺されて亡くなる…なんて事、あると思うかい?』
 だから、あれは無理心中ではなく、同意の上の心中だったのではないかと。
「信じられなかったよ。兄が女装をしてまで男と逢っていたなんて…。でも、記者の仮説をまるっきり否定も出来なかった。だって、確かに兄がそう易々と刺されるとは思えなかったし、兄がゲイだとしても、おかしい事とは思わなかった。俺も惹かれるのは、兄によく似た感じの同性に対してだったから」
「武大さんの、好きな人って…」
 思わず声に出していた。兄弟としてではなく正秋を愛していたのだろうか。亨はショックで身体が震えた。
「…兄さんだよ。でも、誤解しないでほしいんだけど、兄に対して性的な欲求を持っていた訳じゃない。ただ、どうしても兄の姿を求めてしまうんだ。それで何度も失敗しているんだけど…。俺はまた、亨の中に兄の面影を見てしまったんだ。だから、必死で君の跡を追いかけて行ったあの日、トイレから出て来た君の姿を見た時の、俺の気持ちが分かるかい?」
 亨は息を呑んで身体を硬くした。武大の胸から響いてくる鼓動の速さが、声からは窺えない武大の興奮を伝えていた。
「俺の記憶の中にある十五の兄の面影を持つ君が、女装して出て来たんだ。まるであの記者の言う通りに再現して見せられているようだった。君はとても嫌そうだった。その様子と兄の姿が重なって…。もう、あの場に飛び出して行って君を連れ去りたかったよ。ロッカーの陰に隠れて何度も自分に落ち着くよう言い聞かせた。君は兄じゃないし、嫌々でも大人しくついて行くのだから、きっと同意の上なんだろうってね。でも、逆にそれが許せなかった…」
 亨は武大にしがみついて「ごめんなさい…」と謝った。武大は亨の額に口づけて「謝らなくていい…俺が勝手に嫉妬していただけなんだから」と言った。
「あそこで飛び出した所で、俺に勝ち目はないかもしれないし、とにかく翌日、君が寮に来るのを待とうと思った。そして、君が来てくれたら、どんな手を使っても別れさせる気でいた…。怖いだろう?」
 口では寛容な事を言っていたけどね、と自嘲気味に告白する武大の胸に、亨は顔を擦りつけるようにして必死で首を振った。あの日、寮へ行かなければ、今、自分は武大の腕の中にいないのではないか。その方がずっと怖かった。
「もし、僕が寮に行かなかったら…?」
「四月になるのを待つつもりだったよ。制服で、俺が春から赴任する新星学園の生徒だと分かっていたから。でもまあ、四月まで待たなくても、亨は必ず俺に会いに来るだろうって確信していたけどね」
 武大は自分の将来さえも、正秋の影に引き摺られて新星学園の教師になる事を選んだ。研究者の道を捨てた事を後悔しなかった訳ではないが、「どうあっても、亨に会うよう運命が定められていたんだよ」と冗談めかして笑った。
 寮で会った後の事は、武大の思惑通りに進んだ事になる。「だけど、参った事もある…」と武大は苦笑いした。
「インドネシアには実父に会いに行ったんだけど、まさか監禁されるとは思わなかったよ。父と揉み合いになった時に携帯も壊してしまうし…」
「監禁?!」
「うん。嗣永の名前は継いでも良いけど、家業は継がないと言ったら激高してね。理由を訊かれたけど、親父相手にバイだとか細かく説明するのが面倒だから、ホモだから子どもが作れないって言ったんだ。そしたら、ぶん殴られた」
 武大はその時の事を思い出しているのか自分の頬を擦りながらため息を漏らした。
「兄が亡くなってからずっと、父から嗣永の家を継ぐように再三迫られていたんだよ。俺は奥田の家にとってはどうでもいい人間だから構わないだろうってね。そりゃそうなんだけど、最初から俺を望まなかったくせにって反感があって、ずっと無視していたんだ。でも卒業する間際になって、母親から学費を払っていたのが父親だと知らされて、けじめをつけるためにも会いに行ったんだ」
 どうせ父親と会えば不愉快な思いをする事は目に見えていたので、着いてからすぐには会いにいかず、市内観光をしたのが失敗だった。水に当たったらしく腹を下したが、滞在期間は決まっているから予定を延ばす訳にもいかず、無理して父親に会いに行った。そうしてそのまま監禁されたものだから、二日目には脱水症状を起こして病院へ搬送されてしまった。お陰で監禁は免れたが、暫く病院に閉じ込められる羽目になった。
「ただの水当たりの割になかなか回復しなくて、精密検査を受けたりしているうちに父の態度が軟化したんだ。父親らしい所なんて欠片もない人だと思っていたけど、長男に序で次男まで死んだらどうしようかと思ったらしいよ。もう、ゲイでもオカマでも何でもいいから名前だけは継いでくれるよう懇願された。ちょっとほろっとくる話だろう?」
「入院、してたんですか…」
 亨は武大の顔を見ようと上体を起こした。窶(やつ)れた様子もなく前と変わらないように見えるが、安否が分からず心を痛めていた間、危惧した通りその身に危険があったのだと思うと、連絡が取れなくなった経緯が分かっても心は晴れなかった。
 緊張で冷たくなった亨の手を武大は擦りながら「大した事なかったんだよ」と安心させるように微笑んだが、急に真剣な眼差しで亨を見つめた。
「亨は、俺が好き?」
 唐突な問いかけだったが、動じる事なく同じだけ真剣な眼差しで「はい」と頷き返すと、武大は硬い表情で「本当に?」と念を押すように訊き返した。
「俺は正秋兄さんじゃないよ。武大だ。本当に俺が好き?」
「えっ?」
「俺も人の事言えないんだけど…だからこそ、時間が欲しかった。ごめんね、亨。退院してからすぐに帰国したのに、今までわざと連絡を取らなかった」
 武大の告白に殴られたような衝撃を感じて、亨の身体は揺れながら自然と後退った。逃さないように武大は握った手を強く引いて亨の身体を抱き寄せた。
「忙しかったのは事実だよ! いろんな手続きがあって三月まで名古屋にいたし、入学式以降は君に会えるからって…。でも、保健室でこんなに痩せた君を見て、早く連絡するべきだったと後悔した。すまなかった。全部言い訳にしかならないけど、自分でも考えたかったんだ。俺が、嗣永武大として、英亨と向き合うために」
「どういう、事ですか?」
 何が言いたいのか分からなかった。確かに正秋が好きだった。でも今は、武大の事しか考えられない。それが信じて貰えないという事だろうか。もどかしい思いで聞いている亨の肩に顔を埋め、武大は胸の奥から絞り出すような声で囁いた。
「俺は、俺だけを…嗣永武大として、必要とされたいんだ。愛して欲しいんだよ…」
「武大さん…?」
 いつもの武大とは別人みたいに、まるで小さな子どものように縋り付かれて、戸惑いながらも宥めるように武大の背中を撫でた。
「帰国する時、父親のインドネシア人の奥さんが教えてくれたんだ。どうして父親が俺が嗣永の名前を継ぐ事に拘(こだわ)ったのか。父親の年齢ではもう銀行から金を借りられなくてね、どうしても後継者が必要だったんだ。だったら、その奥さんとの間に生まれた腹違いの弟でもいいんじゃないかと思うけど、株を握っている親族が認めてくれないんだって。またしても、俺はあの人に息子として望まれた訳じゃなかったんだよ。そりゃ、俺は出来の悪い部類の人間だから、別に期待はしてなかったけど…それでも、俺は何なんだろうって、何で普通に求めて貰えないんだろうって、やっぱり考えてしまったんだよ。そうしたら、亨の事もね、出会いが出会いなだけに疑ってしまったんだよ。俺も亨も一緒なんだって。互いを兄の身代わりに思っているんだろうなって。でなければ、一目で心を開ける訳がないって…」
 亨は強く首を横に振った。初めて会った時からずっと武大を求めていた。自分でも不思議なほどに。
「僕は、武大さんが、好きです。確かに初めて会った時は、正秋さんだと思いました。でも、あの時は武大さんを知らなかったから。たった一度抱いてもらっただけで、分かる事じゃないのかもしれないけど、変かもしれないけど、もう貴方以外の人は目に入らない。貴方じゃなきゃ嫌なんです。だから、三原ともきちんと別れました。僕は貴方を…」
「じゃあ、相馬くんは?」
「相馬? どうして?」
 なぜここで相馬が出てくるのか。見透かされたような気がして亨はぎこちなく聞き直した。
「さっきの相馬くんを見て、俺が予想した通りだと思った。三原くんとは絶対別れさせる気だったけど、いろんな意味で亨自身でけじめをつけて欲しかったから、自力で別れられたのは嬉しいけど…。でも、もう早速第二の三原くんが現れたんじゃないか。亨はこの先の人生で、付き合う男には困らないと思うよ。だったら、人目を避けなきゃならない教師の俺なんかじゃなく、もっと学生らしい付き合いができる相馬くんの方がいいんじゃないのかい?」
 武大は拗ねたような口調で一気に捲し立てた。亨は頭の中で何かが切れる音を聞いた。確かに蹌踉(よろ)めかなかったとは言わないが、それは、武大が帰って来なかったせいだ!
 亨は怒りに委せて身を捩り武大の腕から抜け出した。そのまま急いで玄関に行き、放り出した鞄を取って戻って来た。鞄の中から白い椿の匂い袋を取り出し、驚いて見ている武大の前に突き出した。
「確かに、相馬には好きだと言われました。でも、今度はちゃんと断りました! 僕がどんな気持ちで貴方を待っていたか、分かりますか? 不安で、怖くて、ずっとこれを見ながら正秋さんに頼んでました。『もう一度、貴方に会わせてください』って! 正秋さんが好きだったら、好きな人に別な男に会わせろなんて願ったりしません! 正秋さんには好きな人がいたんですよ? 一緒に死んでもいいと思うくらいの。もう疾っくに諦めはついてます。貴方に惹かれたのは、確かに正秋さんに似た外見だったけど、貴方はちっとも似てません! 気まぐれで何考えてるのか分からないし、こんなに好きだって言ってるのに疑り深くて、ずっと待ってたのに平気で嘘を吐いて…。なのに…貴方が…」
 好きなんですと呟くと、興奮し過ぎたせいか涙が零れた。呆然として聞いていた武大がソファから下りて亨の顔を覗き込み、嬉しそうな、それでいて泣きそうな顔をしながら言った。
「そんな、俺でも…いいの? 亨に言われた事、他の人にも言われたよ。我が儘で、僻みっぽくて、嫉妬深いって…。兄と同じ人などいる訳ないのに、違うと感じると冷めてしまうから長続きしないんだ。当然相手から裏切られる事も多いし、俺自身最低だって自覚はあるから、見限られる前に自分から離れてしまう…そんな事を繰り返してた。でも、我が儘でも何でも、そんな俺であっても、ずっと愛して欲しかった。勝手だよね? 禄でもなさで言ったら三原くんとそう変わらないけど、本当にいいの?」
「それでも…好きです。でも、武大さんこそ…どうなんですか? 僕よりも、もっと正秋さんを好きだったんでしょう? 僕は顔も性格も、正秋さんと似てる所なんて一つもありません。それでも、僕を好きになってもらえるんですか?」
 言いながら胸がキリキリと痛くなった。思えば、自分だけが一方的に想っているだけで、武大はそれほど亨自身を好きではないような気がした。武大は自分が亨と一緒だと言った。正秋の身代わりだと思っていると。嗣永武大として、英亨と向き合うために時間が必要だったと言うが、その答えは出たのだろうか。
 亨の目から涙がボロボロ溢れてきた。泣きたくはなかったが、さっきからずっと酷い事ばかり言われ続けて、涙腺が壊れたのかもしれない。
「亨…好きだよ。ごめん、ごめんね…好きだ…」
 武大は亨の頬を両手に挟んで引き寄せると、キスしながら「ごめん」と「好きだ」を繰り返し囁いた。唇から気持ちを流し込まれて、胸の痛みが消えて行くようだった。
「さっき、考える必要があったと言ったけど、答えはすぐに出ていた。離れている間、胸を焦がすのは兄よりも、泣き虫の君の事ばかりだった。父の家でも病院でも、寮の庭で会ってから君と過ごした時間を思い起こして慰めていた。自分の世界が塗り替えられたように思えたよ。でも、そう自覚すると更に、本当の俺を知ったら君に幻滅されるのが怖くて連絡出来なかった。俺は自分勝手な嘘吐きだよ。それでも、本当に、俺が好き?」
 あまりにしつこくて、呆れるのを通り越して笑ってしまった。亨は泣き笑いの顔で「好きです」と頷いた。
「でも、約束して。もう嘘は吐かないって。それと、黙って何処にも行かないで。僕を一人にしないでください。もし、気持ちが冷めたのなら、その時は僕を――」
 正秋さんのように殺してほしい――その言葉は、武大の唇で止められた。そのまま強く抱き締められて耳元で怒られた。
「約束するから、もう二度とそんな事言うな!! 亨が俺を望んでくれるなら、もう絶対に離れないから…。兄さんたちの真似事なんて、俺は絶対に御免だぞ! それに、兄さんだって怒るよ。俺たちを会わせてくれたのは、きっと兄さんだから…」
 武大は亨の顔をつくづく眺めて微笑むと、ちょっと待っててと言って立ち上がった。そのまま本棚へ歩いて行くと引き出しから何かを取って戻って来た。亨の前に差し出された掌には、赤い椿の匂い袋が載っていた。
「これ…」
 亨は驚いてずっと匂い袋を握っていた掌を開き、武大の掌に近づけた。二つの匂い袋は、全く同じ椿の形の色違いだった。
「母が作った物なんだ。別れる時、俺には赤を、兄には白をくれた。母は手芸家でよく作品展も開いていた。彼女は俺が女の子じゃなかった事をいつも残念がっていた。俺はこういった物に全く関心がなかったからね。でも、兄はよく母の作品を誉めていた。兄が亡くなった時、あの寮や父親の実家にあった兄の荷物を整理したけど、いくら探してもこれが見つからなかった。母から貰った物を、あの兄が無くすはずがないと思っていたけど、亨が大事に持っていてくれたんだと知った時、奇跡が起きたみたいに嬉しかったよ」
 言いながら武大は亨の手から匂い袋を摘んで、赤い匂い袋と一緒にテーブルの上に並べた。
「もう、こうして眺める事は出来ないと思っていたけど…。やっぱり、俺の願いが兄さんに通じたんだ。だから、こうして亨に会えた。亨が好きでいてくれる限り、もう二度と離れない。約束するよ…」
「じゃあ、死ぬまで…ううん、死んでも離れないでください」
 亨がそう懇願すると武大は亨の肩を抱き寄せて、正秋と同じ優しい笑顔で頷いた。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA