INDEX NOVEL

恋  心

 深夜に帰宅してリビングに入ってくるなり、聡は「ただいま」の挨拶もしないで鼻をくんっと鳴らすと顔を顰めて呟いた。
「あいつ、来てたんだ…」
 数時間も前に窓を全開にして空気を入れ換えた筈なのに、僅かな煙草の匂いを嗅ぎ取った敏感さに驚き呆れながらも、拗ねたような顔をして鼻梁に皺を寄せるその仕草がまるで柴犬みたいだと、修二は思わず笑ってしまった。くすりと洩らした鼻息に耳ざとく振り向いた聡は、更に恨めしそうな顔をしていた。
 聡も修二も煙草は吸わない。この中野のマンションへ来た事のある人で煙草を吸うのは一人しかいない。白を切るつもりだった修二は内心慌てたが、バレてしまったのなら仕方がないと腹を括って笑みを深くすると、
「おかえり。食事は?」と首を傾げて問いかけた。
「うん、軽く済ませたけど…。ちょっとお腹減ったかな」
「じゃあ、こんな時間だし、そうめんにしようか。すぐ用意するから、お風呂、先に入って来たら?」
 笑顔のまま風呂を勧めると聡は何か言いたげな顔をしていたが、釣られたように笑顔で頷き、ネクタイを緩めながら浴室へと消えた。
 修二は杖をついてキッチンへ入り、寝間着の上からエプロンを引っかけるとキャスター付きのスツールに腰を掛けた。
 片足が動かない修二は座らないと両手を使う作業ができない。車椅子だと低すぎて流しと高さが合わず難儀していたが、ある日、賢造がこのスツールをプレゼントしてくれた。油圧で高さを調節できるし、キャスターのすぐ上に円形状の足かけがあるので楽だった。お陰で今では殆どの家事が楽にこなせるようになった。
 鍋に水を張って火にかけると、冷や汁を作るために胡麻をすり鉢に入れて擂りつぶす。ぷちぷちと胡麻の弾ける音を聞きながら、スツールを貰った時の聡の複雑そうな顔を思い出してため息をついた。
 言われなくても聡の思っている事は分かる。確かに今日、賢造が来ていた。でも聡はその事を言いたいのではなくて、来ていた事を隠そうとしていた修二を訝しく思っているのだ。
 修二自身、はじめから隠そうと思っていた訳ではないが、賢造と二人で会う事を聡が良く思っていないのは学生時代から知っているし、はっきり「嫉妬する」とも言われている。賢造のしてくれる一つ一つの事柄にあんな反応を見せられては、「賢造が来た」と気軽に報告もできない。
 そうかと言って、賢造だって忙しいのをわざわざ訪ねて来てくれているのに、邪険に追い返す訳にもいかないし、こうも頻繁に来てくれるのは、多分、自分のせいだから…。
 スツールを転がしながら冷蔵庫を開け、茗荷と大葉と葱を取り出すと流しに戻って全て荒いみじん切りにする。それらをすり鉢に入れ胡麻と一緒に擂りつぶす。粗方擂りつぶしたら味噌を加えてもう一度擂る。ああ、胡瓜を出すのを忘れたとまた冷蔵庫を開けた時、扉のポケットに入っている缶ビールが目に入った。
 賢造が持参したものでかなり前から入っているが、修二は自分独りでは酒を飲まないし、聡はこの銘柄のビールを好まなかったから、なくならずに入ったままになっている。このビールを呷っていた賢造に、「寂しい」と洩らしてしまったのは、聡が転職してすぐの頃だった。
 自分たちの事を隠していたくないからだと、聡から転職した理由を聞かされた時は、天と地がひっくり返るほど驚いた。旧態依然の仕来りが生きている日本の企業では、出世に拘わらず勤め上げられないと判断したのだと笑っていたが、上司にカムアウトした事も全てが事後報告で、嬉しいと思うよりも戸惑いの方が大きかった。とても大事な話なのに、一言の相談も無かったのが修二には少なからずショックだった。
 給料は銀行員時代の倍になったが、当たり前のように働く時間も倍に増えた。平日は殆ど日付が変わってから帰宅するようになり、大学へ行く日は早めに休むようにしている修二とは、同じ家にいてもすれ違いの日々が続いた。
 休日も関係なく仕事に追われていた聡の身体が心配で、修二の方が痩せてしまった。それを心配した賢造が、足繁く通って食事を取らせていたのだが、この頃から修二は賢造の来訪を聡に告げなくなっていた。
 それに引き替え聡の方は、身体の疲れはあるものの遣り甲斐のある仕事を手に入れて、以前よりも更に男としての自信に満ちて生き生きと輝いて見えた。
「そりゃあ、恋女房を手に入れた上に、遣り甲斐のある仕事にも恵まれたんなら、精が出るってもんだろう」
 賢造はそう言って笑ったが、女房という台詞に修二は顔を歪めた。
 性生活の上では女役を(それしか出来ないのだから)厭うつもりはない。小説の方は今日子のお陰で書く場を得られたものの未だ鳴かず飛ばずだし、大学の助手の仕事では、それこそ扶養の範囲と言った稼ぎだったから、立場的にはまさに『パートの仕事をしながら趣味に勤しむ主婦』だった。その女房の役割だって、満足に果たせているのか自分では分からない。ただ養われているだけだと、修二は心の中で自嘲した。
 聡や賢造を妬む気持ちはないとは言えないが、そうなりたいと願ってもなれない事は自分が一番分かっている。仕方がないと自分を慰めても、情けないと思う気持ちが混々とわき出てくるのを止めようもなかった。自分だけ置いていかれると思うと寂しくて遣る瀬なかったが、そんな自分に聡が何も相談しないのは当然だとも思った。
 色んな気持ちが入り混じった「寂しい」という修二の独り言だったが、賢造は何と捉えたものか、
「お前、それ、望月に言わないと伝わらないぞ」と笑われた。
「そんな事、言えない…。言った所でどうにもならないし、忙しいのを知っていて言うのは単なる我が儘だ。情けなさ過ぎるよ…」
「ばーか。男ってな、そういう我が儘を言って欲しいもんなんだよ。人間は言わなきゃ気持ちは伝わらないんだぜ。以心伝心なんて信じるなよ。お前たちは唯でさえ言わなさ過ぎるんだから、言いたい事は直接本人に話せ。その為に言葉があるんだからな」
 賢造は片眉をつり上げて笑って見せたが、修二はため息をついて見詰め返すしかなかった。
 あれから三カ月近く経つが、修二は自分の気持ちを伝えなかった。やっぱり恥ずかしさが先に立ったし、聡も仕事の流れが掴めたらしく、今では週末毎にきちんと休めている。
 聡の週末のパターンは決まっていて、金曜日は必ず終電までに帰宅して朝まで修二の躯を堪能し、そのまま昼までベッドの中で過ごす。昼に軽く食事を取ってスポーツジムで三時間びっちり汗を流し、夕方は修二と待ち合わせて外で夕食を取った。日曜日は映画や買い物に出かける事もあれば、家で本や仕事の資料を読んだり、二人でDVDを観たり、修二の書いた小説の批評をしたりする。
 転職したての頃と違って、今では十分二人きりの時間を過ごしているのだから、もう「寂しい」と告げる必要などないと修二は思っていた。その間も前ほど頻繁ではないけれど、賢造は忙しい合間を縫って食事を作りに来てくれていたが、勿論それも聡に話すつもりはなかった。
 今日は金曜日で、修二は先に風呂に入って隅々まで身体を清め、聡の帰りを待っていた。いつもと違うのは、多分ベッドに入る前に賢造の事を追求されるだろう事。もしかしたら、抱かれる事もないかも知れない。
「痛っ…」
 物思いにふけりながら胡瓜を刻んでいた修二は、鍋の湯が吹きこぼれる音に驚いて思わず指を切ってしまった。
 すぐに吹きこぼれた鍋の火を消して切った指を眺めると、大した傷ではないが血が滲んでいた。不意に足を刺された時の事がフラッシュバックして身体が硬直するのが分かる。
 大丈夫、大丈夫と心の中で唱えながらも目の前が暗くなりはじめた。あっ、まずいかも…と思った瞬間、背中に温もりを感じて我に返った。
「修二? 指、切ったの?」
 聡がバスタオルを腰に巻いた姿で、後から抱き込むようにして修二の切った指の手の平を両手で包んだ。
「あっ、うん。でも大丈夫。大した――」
 大した事ないと言う前に聡は握った手を引っ張り、スツールを回転させて修二を真正面に向かせ、傷口をぱくりと口に銜えた。一瞬の出来事に、修二は言葉を呑み込んで聡の顔をまじまじと眺めた。
 風呂から上がったばかりで、髪は濡れて黒く輝いている。普段と違って前髪が額に落ちていて、目の上までかかっている。こんなに長かったかなと、ぼんやりと思う。聡の髪はゆるく癖があって、それが嫌だと整髪料でサイドに綺麗に撫でつけているから邪魔にはならないのだろう。
 こんな髪型をしていると高校生の時の面影が強くなる。あの頃は目が大きくて可愛いという形容がぴったりだったが、今では目元も顎のラインも引き締まって、匂い立つような男らしい顔立ちになった。
 夕暮れの街で再会した時、本当に誰だか分からなかった。昔の面影を追ってばかりいたから、目の前の端正な男の顔が、胸の中の “ 望月聡 ” となかなか一つの像に結びつかなかった。あの夜は、懐かしいのに初対面のような違和感が、ずっと修二の胸を締めつけて苦しかった。
 それなのに、別れた後は再会した聡の顔ばかり思い出し、どうしようもなく胸が高鳴った。忘れなければと心を諫めてみたけれど、そう思えば思うほど抉られるように胸が痛んで悲鳴を上げた。
 今は別の意味で苦しい。共に暮らしてはいるが、いつも一緒にいられる訳ではない。会えなければ寂しくて心許なくて、優しい眼差しが自分に向けられていないと安心できない。
 側にいればいたで、触れられれば勿論だが、聡に見詰められるだけで、はしたなくも身体の奥が熱く疼いて仕方がない。その体温を身の内に感じたくて、堪らない心地に自分を失いそうになる。
 こんな自分は知らない。こんな風になったのは初めてだから、どうしていいか分からない。昔も聡を好きだったけれど、多分、前よりも、それ以上に、今、自分は聡を好きだ。

 誰よりも、何よりも――。

 うっすら頬を紅潮させて無言で見詰める修二の視線を受けて、聡が上目使いに見詰め返すと修二は更に紅くなった。聡はそんな修二に目を細めると、ゆっくり口から指を離した。
「ねぇ、修二。僕に話してない事、あるよね?」
 確信に満ちた声だった。
『言わなきゃ気持ちは伝わらない』
 賢造の声が修二の頭の中に響いた。修二はずっと仕舞い込んでいた胸の火を言葉に紡いだ。
「賢造が来ていた。話していなかったけど、今まで何度も訪ねてくれてる。でも、それは俺が悪い。俺が『寂しい』なんて言ったから、心配して来てくれてるんだ」
「寂しい? どうして?」
 聡は目を見開いてきつい調子で詰問したが、自分ですぐに答えが分かったのか口を噤んで修二の手を握りしめた。
「今の事じゃないんだ。聡が転職したばかりの頃だよ。でも、時々無性に寂しくなる。聡を想うと、ここが、痛くなる」
 聡が握りしめた手を自分の胸にあてて修二は言葉を続けた。
「聡は賢造の事を気にするけれど、俺は賢造の事を思っても、こんな風に痛くなったりはしない。痛くなるとすれば、胸じゃなくて胃の辺り」
 修二は胸にあてていた聡の手を喋りながら胃の辺りまで滑り下ろした。
「痛むのは心臓じゃない。胸の中心に何があって、どうしてこんなに痛くなるのか…その器官が何なのか、俺は知らない。でも、もしもここにナイフを突き刺したら、多分、血みたいに紅い…聡を想う俺の気持ちが溢れ出すだろうね。見せられる物なら見せたいよ。聡が俺を疑わなくても良いように。俺も聡と離れている間、不安にならずに済むように、俺の “ 想い ” の体液で聡を染めてしまいたい。聡は俺のものだって――」
 熱にうかされたように濡れた瞳で話し続ける修二の口を塞いだのは聡の唇だった。
「んっ…」
 修二の鼻から抜ける甘い吐息に煽られて、聡の舌が薄く開いた修二の唇を割って滑り込む。上顎を擽られて仰け反った修二の頭を抱き寄せると舌を絡めて啜り上げた。
 濡れた音を響かせて淫猥に蠢く舌の愛撫に頭の芯が痺れてしまい、くたくたと修二の身体から力が抜けていく。縋るように聡の首に腕を回すと、形を変えた聡の下半身が膝に触れた。
 ああ、硬くなっている、そう思った瞬間、キスだけで既に頭を擡げていた修二の中心からトロリと蜜が溢れ出した。
 首に回した腕を滑らせて、熱く猛っている聡自身をバスタオルの上から撫でると、びくりと震えて唇が離れた。互いに荒い息を吐きながら暫く見詰め合った後、聡は乱れた前髪から覗く瞳を細めて嬉しそうに囁いた。
「そんな熱烈な告白を聞いたら、もう…堪らないよ。今すぐ修二を食べてしまいたい…」
「いいけど…」
 流しを片さなくちゃ――と続く言葉は聡の唇に吸い取られ、そのまま抱え上げられたかと思うとキッチンを出て、ダイニングテーブルの上に座らされた。
 修二はまさかと思ったが、文字通りテーブルの上で思う存分貪られてしまい、翌日、折角の土曜日を丸一日ベッドで過ごす羽目になってしまった。
 逆に聡はその日一日上機嫌で、甲斐甲斐しく修二の世話を焼いてくれた。聡がこんなに喜んでくれるのなら、言葉にして伝えるのも悪くないとは思ったものの、時と場所を考えようと身に沁みて感じた修二だった。


NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、NOVELよりお戻りください。

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