INDEX NOVEL

今日の良き日に 〈9〉

※ 性描写があります。15歳未満の方はお読みにならないでください。

 翌日、賢造は約束通り修二のもとを訪ねた。内心の動揺を押し殺し平静を装って部屋に入ると、修二は何事もなかったかのように賢造を出迎えた。その拍子抜けするほど落ち着き払った態度にほっとしながらも、自分だけ意識しているのが恥ずかしく、とても虚しかった。その日は一日、波立つ心を抱えたままひたすら夏休みの課題に没頭して過ごした。
 その後も修二の様子は変わらなかった。まるで夏休み前まで逆戻りしたように健全な会話を交わし、互いの課題をこなして時間が過ぎて行く。賢造の胸中は白々としてどこか物足りなかったが、以前のような気軽な調子で下ネタを口にできる空気はすっかりなくなっていた。互いに変わらないように見えて、明らかな変化はその一点だった。
 軽口でも性的な事に触れてしまったら、『あの瞬間』に結びついてしまう。その怯えは賢造だけのものではないようで、だからこそ修二も精一杯変わらないよう振る舞っているのだ。そうと分かると賢造の落胆は軽減されたが、今度は自分の下心に突き動かされた軽率な行いを悔いる羽目になった。
 このぎこちない空気を払拭するためには、あの事を自ら持ち出して笑い話にすればいい。それが現状を打破する最善策に思われたが、その度に修二があの事を本当はどう思っているのかとの疑問が湧いて躊躇した。賢造は「想像できない」と言われた時の非難に満ちた修二の瞳が忘れられなかった。平静を装い、普段と変わらぬ表情の下で少しでも嫌悪を感じているのなら…。そう思うと足下が崩れるような恐怖を感じ、口に出す勇気など瞬時に萎んでしまうのだった。
 そんな時誘われた旅行の話に、賢造は一も二もなく飛びついた。盆休みの間、友人の家が所有するコテージに宿泊して釣りと渓流下りをしようというもので、行ってしまえば丸一週間は修二と会わないですむ。
 修二に『田屋』の休みを確認された時、何の予定もないから修二の希望に合わせると言っておきながら、賢造は直前まで旅行の話を伏せていた。自分はいつから平気で修二に嘘を吐くようになったのだろう。海に行きたいと笑顔で話す修二の横顔を、うしろめたさに駆られながら賢造はただ黙って見詰めた。
 明日から盆休みという金曜日の午後になって漸く、「旅行に行く」と修二に告げた。驚きに見開く飴色の瞳を見ないようにしながら、急な誘いで断ったが人数が足りないからどうしてもと懇願されたのだと、自分でも苦しい言い訳を並べ立てた。修二は「そう…」と呟いた後、いつまでかと聞いた。
「盆休みの間まるまる一週間。来週の日曜に帰ってくる」
 その返事に反応はなく、心配になって恐る恐る修二の方を見ると、口元に手を当てて物思いに耽っている様子だった。賢造はまた癇癪を起こすのではないかと危惧していたから、その姿を不審に思いながらもほっとして緊張を緩めた。
「予備校の予習はもうしたのか? 数学と理科だったら教えられるけど?」
 機嫌を取るようにそう言うと、修二はデスクチェアーから腰を上げ賢造の方へやって来た。ローテーブルを挟んで正面に座るものとばかり思っていた修二は賢造の隣に膝をついた。あまりに近いその距離にぎょっとして修二を見ると、思い掛けず真剣な眼差しが賢造を射貫いていた。
「続き、したいんだ…」
「えっ?」
 何の事を言っているのか分からなかった。何の続きか問いかけようと開きかけた唇を修二の唇が塞いだ。驚いて茫然としている賢造を修二はそのまま押し倒した。
 馬乗りになって賢造の唇を夢中で吸い上げながら修二は賢造のTシャツを捲り上げた。直に肌をまさぐられる感触に戦いて、賢造は「修二!」と叫んでその手を掴んだ。
「な、なんで…?」
 みっともないほど裏返った声が出た。修二の行動の真意が分からずパニックを起こしかけていた。
「教えてほしいのは勉強じゃないよ。一週間も会えないなら…行く前に教えて」
「なにを…」
「セックス。あれで終わりじゃないでしょう? この前は、僕だけが達かされただけだった。お互いに気持ち良くなった方か良いんだよね? だったら、今度は賢造の番でしょう?」
 その台詞の内容に、これは本当に修二が喋っているのだろうかと、腹の上に乗り上げて見下ろす修二の顔をまじまじと眺めた。熱に浮かされて潤んだようなその瞳には、ありありと欲情の色が浮かんでいた。じっと賢造の顔を見返して「賢造の…触りたい」と囁かれると、身体に火がついたように熱くなった。
 どうしていいか分からなかった。頭が痺れてしまって声も出せない。ただ、そのあからさまな欲望の視線に、ああ…こいつはやっぱり男なんだ、と奇妙な感慨が浮かんで少しだけ平静を取り戻した。
 あれほど性的な行為に後向きな態度を見せていたから、精神的にも肉体的にも未熟なのだと思われた修二だが、本当は順調な成長を遂げていたのだろう。何かに阻害されて素直に出せなかっただけの事で、この前の行為でその枷が外れたのかも知れない。
 暴走した欲望は急激に捌け口を求めて苦しいのだろうが、その矛先がどうして男の自分に向かっているのか分からない。ただ傍にいたから…それだけの理由なら哀しいが、それでもいいかと思えるほど賢造の気持ちも切迫していた。
 修二の身体に触れた日、精一杯のやせ我慢で自分を慰めるのを耐えたけれど、一度覚えてしまった感覚は容易に忘れられなかった。日に日に募る虚しさとともに修二を求める欲望も以前とは比べものにならないくらい募っていた。まさか自分が抱かれる方になるとは想像もしていなかったが、いつか暴走して修二を傷つけてしまうくらいなら、それでも構わないと思った。単なる興味でも捌け口でもいいから、このまま自分の欲を解き放ってしまいたかった。
「修…」と呼びかけると、誘われるように修二の唇が落ちてきた。あとはされるがままだった。
 修二は賢造が教えた事どころか、それ以上の行為と情熱で賢造の身体を愛撫した。自ら一糸まとわぬ姿になり、賢造の身体からも邪魔な物は一切剥ぎ取った。惚れ惚れと賢造の身体を眺めたあと、嘆息の声を漏らしてその肌の上に指を這わせた。
 修二の指と唇が思いも寄らない場所に触れる度、自分の声とは思えない喘ぎが漏れ、賢造は羞恥に強く唇を噛んだ。修二の細い指が賢造の昂ぶりに絡みついた時、咄嗟にその手首を捉えていた。荒い息だけ吐きながら修二を見上げると、修二も賢造を見詰めていた。修二が目を細めて微笑むと身体から力が抜けた。
「賢造も、触って…」
 そう言って、力の入らない賢造の手を天を仰ぐ修二自身に導いた。天使の姿をした悪魔がいたら、きっとこんな微笑みで誘惑するのだと思った。理性も分別も一瞬で砕け散ってしまった。
 賢造は片手をついて上半身を起こすと修二の背中に腕を回した。賢造の身体に乗っていて少し高い位置にある修二の顔を仰ぎ見て「修…」と名を呼ぶとすぐに望む物が与えられた。
 もう何も考えなかった。好きなだけ互いの唇を貪り、互いの欲望の萌芽を扱いて解放を目指した。高みが近づくと修二は賢造の肩に額を乗せ、小さく賢造の名を呼んで上り詰めた。賢造はその声に導かれて放出を迎え、二人してぐったりとベッドの側面に凭れて息を吐いた。
 賢造は解放後の虚しさを、目を閉じてじっと耐えた。上り詰めたら落ちるのは道理だが、この虚無感には慣れる事がない。自分だけの感覚なのかは分からないが、何とも嫌なものだった。
 ふと目を開けると、同じようにベッドに凭れたまま修二が賢造を見ていた。暫く無言で見詰め合ったあと、どちらともなく唇を重ねた。何度か優しく啄んで唇が離れると、修二が賢造の頭を抱き寄せた。賢造はそのまま修二の胸に顔を寄せ、もう一度目を閉じた。
 初めて直に触れ合った修二の身体は滑らかで、まるで絹に包まれているように心地良かった。こうして修二の心音を聞いていると虚しさは霧散して、代わりに安らな幸福に満たされた。抱き合う事がこれほど幸せなものなのだと、賢造は初めて実感した。修二となら何時までも抱き合っていたかった。修二の気持ちが自分になくても、この腕を拒まないでいてくれたらそれで構わない。このまま時間が止まってしまえばいい。そうすれば、修二はずっと自分のものなのに。
 暫くそうしてじっとしていたが、徐々に修二の鼓動が速くなるのを感じて顔を上げると、修二が賢造を跨いだままゆっくりと膝立ちになった。そのまま賢造の白く濡れた方の手を取って自身の足の付け根に導いたが、その行き先は賢造の予想を超えた深い場所まで伸びていた。
 唖然として修二のそこから顔へ視線を移すと、修二はほんのり上気してはいたが、羞恥のそれとは違う表情だった。
「これから…どうしたらいいの?」
 ここに来て初めて、賢造は自分が思い違いをしていた事に気がついた。修二は自分を抱きたいのではなかった。賢造はその真意を知っても、茫然と修二の顔を眺める事しかできなかった。
 修二は自分を欲してくれているのだろうか。それは自分と同じ想いでいると言う事なのだろうか。修二の考えている事は大抵分かる。けれど心は別物だ。言葉にして貰わない限り、全ては推察と願望に過ぎない。
 賢造には、抱くのと抱かれるのとでは、事の意味合いが大きく違うように思えた。自身に於いてはどちらでも構わなかったが、それは自分が修二を愛しているからで、修二についてはそうは思えなかった。興味本位だけなのなら抱く事なんてできない。いつか修二がその事で傷つく姿が手に取るように分かるからだ。
「賢造…教えて…」
 艶を含んだ声音が賢造を物思いから目覚めさせた。修二は痺れを切らしたように、いつまでも動かない賢造の指を更に奧へと誘(いざな)った。修二の白濁の滑りを借りて、指は容易に修二の柔らかいあわいへ滑り込んだ。最奧に息づく小さな入口に触れた時、高い電子音が部屋中に鳴り響いた。
 賢造が驚いて手を引くと、腕を掴んでいた修二の指も簡単に外れた。修二は一瞬躊躇ったものの、ゆっくり立ち上がると机の上に置かれた携帯電話を取りに行った。直ぐに出るのかと思ったが、そのまま数秒ディスプレイを眺めてから意を決したように通話ボタンを押した。
「はい、修二です。はい。はい…」
 硬く改まった口調からは誰と話しているのか察する事はできなかった。叔父や叔母と話す時も同じような感じだった。修二は背を向けて相手の話に耳を傾けていた。賢造は暫くその滑らかな曲線を描く白い背中に見惚れていたが、裸のまま携帯電話をかける姿が、妙にエロティックに感じて慌てて目を逸らした。
 修二は通話を終えると振り返り、気落ちした様子で言った。
「家政婦さんからだけど、お祖母さんが呼んでるみたい…。行ってくるね。たぶん、ちょっとかかると思うから、先に帰って…」
「ああ…。大丈夫なのか?」
「うん。大丈夫…」
 惜しいような助かったような何とも言えず気まずい空気の中、それぞれ手早く身繕いをし修二が先に部屋を出て行こうとしたが、ふと動きを止めて賢造の方へ振り向いた。
「賢造、僕は…」
 僕は、と言ったまま止まってしまった修二の表情(かお)は酷く思い詰めたものだった。賢造は黙って辛抱強くその続きを待ったが、修二は泣きそうに眉を寄せたあと諦めたように「何でもない…」と言って俯いた。賢造は先を促す言葉をかけようと口を開きかけたが、それより先に顔を上げた修二は取って付けたような笑顔を浮かべ、「旅行、気を付けて行ってきて」と言って出て行ってしまった。
 賢造は修二の言いかけた内容が気になって仕方がなかったが、追いかけてまで聞き出すのは思い止まった。何となく途中で邪魔された行為に関係する内容だと察しがついたし、自分の知りたい事にも関係がある気はしたが、期待している答えであるとは限らない。どちらにしても賢造にとっても心の準備がいる内容に思えた。

 賢造は腹にもやもやしたものを抱えたまま、本心では行きたくもない旅行へと出かけた。そんな精神状態だから何をやっていも上の空で友人たちから顰蹙を買ったが、どうにもならなかった。喋っていても川で泳いでいても、食事をしても風呂に入っても、気がつけば修二の事を想っていた。
 自分から修二と離れたくせに、修二に会いたくて仕方がなかった。言い出しかけた言葉の先が知りたかったし、あの行為の先を強請った真意も知りたかった。
 あれから、何度も何度も抱き合った時の光景が頭の中に再生されて、脳裏に色濃く焼き付いてしまっていた。考える時間が山のようにある今、修二の言動の一つ一つを追っていくと、修二は自分と同じ想いを持っているとしか思えなかった。だったら、だったら自分は――。
「お前、好きな奴いるんだろ」
 隣で釣り糸を垂れていた工藤がからかうような視線を向けて言った。途端に他の三人の視線が一斉に注がれて賢造は苦笑して違うと否定した。
 旅行も三日目を迎え、そろそろ釣りにも飽きて来た頃だった。午前中の涼しい時間に惰性のように川の浅瀬で一列に釣り糸を垂れたが、誰の竿もぴくりともしない。皆いい暇つぶしとばかりに工藤の振った話題に食いついた。
「確かに田辺、ずーっと上の空だよね」
「え〜? またかよ。今度はどこの娘だよ」
 口々に揶揄する台詞が飛び交うが、いつもの事なので賢造は全てを黙殺した。こうしていれば皆すぐに別の話題に移っていく。けれど、工藤だけは追求の手を緩めなかった。
「誰かの事を考えてんのは事実だろ? でなけりゃお前、ホントに変だぜ」
「…友だちの事だよ。女じゃない」
「うわ〜白状したぜ! やっぱり相手は男らしいぜ!」
 工藤は修二に話して聞かせた海で失恋した男だ。フラれて以来何故か賢造に絡んでくるのだった。工藤と特に仲の良い三枝(さえぐさ)にそれとなく理由を聞くと、賢造が真剣に女の子と付き合わないからだと教えてくれた。人の好い三枝は困った表情を浮かべ、「八つ当たりだから気にするなよ」と苦笑いを浮かべていた。
「やっぱりって何だよ…」
 賢造が工藤を睨むと三枝が慌てたように「ね〜ね〜、男同士ってどうやるの?」と素っ頓狂な話題を振った。透かさず川合が受けて「尻の穴に決まってんだろ」と冷静な声で答えた。
「嘘! 入るの?」
「徐々に慣らしていくんだよ。少しずつ拡張するれば腕まで入るらしいぜ」
「うっ、腕ぇ?!」
 それには賢造も驚いた。あの時、修二に行為の先を強請られたけれど、どこを使うか知っていただけで詳しくは知らなかった。だから修二を傷つけてしまうのを恐れたし、多少恐ろしくもあって躊躇したのも事実だった。
「そんで? うちの学校の男か? もしかして、水球部の後輩か?」
 物思いに耽っていた賢造に、またしても工藤が意地の悪い声音で聞いた。今度は三枝も助け船の出しようがなく困った顔で賢造たちの方を見ているだけだった。
 賢造は工藤の挑発に乗っても仕方がないと分かっていたが、痛いところを衝かれた上に、もしそんな噂が立っているなら是が非でも揉み消さなければならない。工藤の方へ向き直り一歩近づくと、「工藤、いい加減にしろよ」とそれまで静観していた渡辺が釣り糸を引き上げながら言った。
「田辺に当たるのもいい加減にしろよ、別に田辺が悪い訳じゃないだろ。田辺、悪いな。俺たちお前のいない所で、お前の本命は “ 男 ” なんじゃないかって話してたんだよ。お前が女の子を取っ換え引っ換えして一人に落ち着かないのは、カモフラージュの為なんじゃないかってさ…。他意はないよ、冗談だ。悪かった」
「俺は男を好きでも構わないと思うぜ」
 しれっとした声で尚も言い募る工藤に、異口同音に非難の声が上がった。賢造はため息を吐くと工藤に向かって言った。
「確かに、今俺が考えているのは男の事だよ。でも、単なる友達だ。工藤、俺は今までどの子とも真剣に付き合ってきたつもりだよ」
「どうだかね…。そりゃ、お前の理屈は間違ってないよ。付き合ってみないと相手がどんな人だか分からない、付き合っているうちに好きになるかも知れない。そりゃそうだ。そのうち情が移って好きになれるかも知れないよ。でも、そんなのはたった二、三ヶ月で判る訳ないじゃないか。見合いじゃあるまいし、馬鹿じゃないのか? 人を好きになるって、そんなもんじゃないんだよ! 好きになるのは一瞬だ、理屈じゃない。お前みたいな付き合い方で人を好きになる訳がない。お前は遊んでるだけなんだ!」
「工藤! もう止めろよ…」
 いつの間にか三枝が工藤の側に来て腕を引っ張った。工藤は喋りながら自分の言葉に興奮し抑えが利かなくなっていた。三枝の手を振り解くと口元を歪ませて賢造を睨みながら講釈を続けた。
「そりゃお前の気持ちは判らなくもないよ。俺たち全員ぼんぼんでさ、おまけに長男で、いつかは家を継ぐために親が気に入った相手と結婚して子ども作って、そうやって親の敷いたレールの上を走り続けるんだ…。特に田辺、お前なんか十代目だもんな? 今のうちにしこたま毛色の違う娘と遊んどこうって思うのも無理ないし、男だって経験しとくのも――」
「わかった!!」
 賢造が怒鳴ると工藤は息を呑んで口を噤み、辺りは水を打ったように静かになった。
「分かった…よく分かった。工藤、俺はお前に誓って、金輪際もう誰とも付き合わない」
 工藤に向かって静かに宣言すると賢造は釣り竿を畳み、皆が引き留めるのも聞かず一人でコテージに戻った。そのまま帰り支度をし、遅れて賢造を追って来た渡辺と川合に帰ると告げた。
「田辺、工藤の代わりに謝るよ。ごめんな、だから帰るなんて言うなよ…」
 渡辺が困った顔で賢造に懇願した。皆のまとめ役である渡辺は、こんな事で幼稚舎から続く友情が壊れてしまうのを食い止めようと必死だった。
「渡辺が謝る必要はないし、こっちこそすまないと思ってる。別に俺は怒ってる訳じゃないんだ。ただ、あの絡まれ方には引っ掛かる。みんな何か俺に隠してる事があるだろう?」
 工藤の賢造に対する怒りは八つ当たりの範疇を超えている。工藤は元来理由もなく怒りをぶつける人間ではない。恐らく自分以外の連中は理由を知っている筈だ。
「工藤の失恋した相手ってのが、お前の元カノだったんだよ。篠原朱美(しのはらあけみ)って子、覚えてるか?」
 川合が腕を組みながら彼の特徴である感情の隠らない平淡な口調で言った。
「ああ…」
 覚えている。二年の終わり頃に付き合っていた子だ。確か清泉学院というお嬢さん学校の生徒で、綺麗な子だったが大人しく、印象に残っているのは友だちが代理で交際を申し込んで来たという事だけだった。正味二ヶ月ほどの交際で『元カノ』と冠するのも憚られるが反論はしなかった。
「すごい偶然だよな、海で知り合ったのに。意気投合して東京でも何度か会って、かなりいい雰囲気までいってたらしいよ。なのに工藤が青桐で田辺の同級だって知ったら態度が急変。しつこく食い下がったら『私やっぱり今でも田辺くんの事が好きなの』って言われちゃったんだと。それが失恋の真相。完全な八つ当たりだけど、まあ…気持ち分かんなくはないよ。比べられちゃったんだから」
「川合!」
 暗に賢造を責めている川合を、余計な事を言うなと渡辺がこづき、川合は肩をすくめた。
 賢造はどうしたものかと頭を抱えたくなった。彼らの巡り合わせが悪かったと言えばそれまでだが、周りからドンファンなどと渾名をつけられるような浅はかな振舞をしていたのは否めないし、賢造が女の子と付き合い出した本当の理由を考えれば、八つ当たりされるのは自業自得と言えた。
 恋愛は当事者同士の問題だと思っていた。当人たちさえ良ければ、くっつこうと別れようと他人が口を挟む余地のないものであると。勿論、それに違いはないが、人は必ず何処かで誰かと繋がっていて、善かれ悪しかれ影響し合ってしまうのだ。たった五人の人間関係とは言え、この細波を放っておけばやがて津波になって命取りになるかも知れない。
「…悪かった。やっぱり俺はここにいない方がいいと思う。暫く会うのも止めよう。渡辺、悪いが俺の代わりに謝っておいてくれないか? それでも工藤の気が修まらないなら、俺はグループから抜けても――」
「そこまでする必要はない!」と渡辺が賢造の台詞を遮った。
「工藤だって分かってるんだ、八つ当たりだって。田辺がそんなに気に病む事はないよ。学校が始まるまでには俺たちで何とかするから、そんな事言わないでくれよ」
 泣きそうな顔で言う渡辺に賢造が頷いて詫びると、「それと、さっきのあれ取り消せよ」と横合いから川合がばつの悪い顔で言った。
「あれって…何を?」
「金輪際、誰とも付き合わないって言っただろ。あれ、工藤の重荷になると思うし」
 どうやら川合は飽くまでも工藤の味方であるようだ。賢造だって、工藤の言葉に少なからず傷ついていた。特に、最後に言われた台詞は今の賢造にとって一番言われたくない内容だった。工藤にああ言ったのは腹立ち紛れであったけれど、ある意味本心だった。修二を好きだと認めた賢造にとって、もう誰かと付き合う気など微塵もなかった。
「分かった。『工藤に誓って』って部分だけは取り消すよ」
 賢造の言葉に渡辺と川合は顔を見合わせたが、重荷になるなら負わせておけばいい。それが理不尽な八つ当たりに対する賢造の報復だった。

 鈍行を乗り継いで家に帰り着いたのは夕方だった。
 他人(ひと)と一緒だとあっという間の道中も、一人では果てしなく感じられる。暇だと碌な事ばかり考えてしまい、地下鉄の階段を上って店の外観を眺めた時、漸く帰り着いた安堵感に深いため息を吐いた。
 賢造は重い足を引きずり店の前まで来ると、暮れなずむ空の下で静まり返った店の入口をぼんやりと眺めた。父親の書いた毛筆の『休業』の文字を目で追いながら、自分もこうして張り紙を書く日が来るのだろうかと考えた。
 家を継ぐのが嫌だと大立ち回りを演じたが、他に遣りたい仕事が決まっている訳ではない。漠然とこんな事がしたいと思いはするものの、将来像など輪郭すら定かでない。今、賢造の頭の中で将来に結びつくのは全て修二との事だった。
 もしかしたら修二も自分の事を想ってくれているかもと、甘い夢を見た途端に工藤の言葉で現実に引き戻された。
 滅多に言われたりしないので普段は忘れているが、確かに賢造はこの『田屋』の十代目に当たる。江戸時代から建物も血筋も代々受け継がれたものだ。歴史的な外観は教科書にも載るほど有名で有形文化財に推す有難迷惑な声もある。賢造にしてみれば老舗で格式があるというだけの唯の小さな蕎麦屋で、支店もなければ金もない、普通の五人家族が営んでいるだけだ。
 けれど世間はそうは思っていないようで、テレビや雑誌で取材を受ける事も多い。休みの日には馴染み客よりも全国から訪れる「一度食べて見たかった」と言う大勢の客で埋まる。お陰で母親は夏でも絽の着物を身に着け店に立ちっぱなしで客の動向に目を配り、評判を落とさないよう神経を使う。
 昔は祖母がやっていたが、高齢の今は家の中へ入り役割を交代した。そして将来、賢造の妻になる人が次にああして店に立つ事になる。それは代々女将の役目であり、誰が口にしなくても分かり切った事だった。
 自分の隣にはいつも修二しかいなかった。なのに、現実には別の職業に就く夢を見るのと同じくらい、修二がああして母と同じ場所に立つ夢を見るのは難しい。修二がもしも自分と同じ気持ちでいてくれたら――自分を好きなら、あの夢のような幸せな時間をずっと共有できるかも知れない。けれどそれを実現するためには、誰も知らない場所へ二人で逃避行しなければないらないだろう。
『俺がこの家を継がなければどうなるのだろう』
 鈍行列車の中で賢造はずっとその事を考えていた。以前大叔母が言っていたように千賀子が継ぐしかないだろう。美人だと近所でも評判で既に見合い話も来ているが、千賀子本人に好きな人がいるかどうか賢造は知らないし、興味がないから聞いた事もない。もしいるとしたら、その人はこの家に婿養子に入る事になる。その理由が、従兄弟と駆け落ちした不肖の弟のせいだと聞いても、その人は自分の姓を捨ててくれるのだろうか。
 裏口に回って階段を上がり居間に入ると母親以外家族全員が揃っていた。予定より早い帰宅に皆驚いていたが、特に理由は聞かれなかった。休みが終わって店が始まれば、もうこの時間にゆっくりしてはいられない。皆それぞれが自分の余暇にかまけて賢造の事など感心がない。
 台所に入って母親に駅で買った土産物を渡すと、「何かしら?」と笑って受け取った。賢造を生んでからふくよかになった身体は店に立つようになってから少し痩せた。招福だとお客から誉められるお多福のような笑くぼを見ながら賢造は思わず訊ねていた。
「俺…家を継がなくてもいいかな…」
 すぐ怒られるかと思ったが、母は吃驚した顔をして賢造を見詰めた後、「何かしたい事があるの?」と聞いた。
「否、その、そうじゃないんだけど、もし継がなかったら…どうなるの?」
「なんだ、仮定の話?」と母はほっとした顔をしてから「そうねぇ…」と言って少し考え込んだ。
「千賀子にお婿さん貰うしかないでしょうね。別に男が継がなきゃいけない決まりはなかった筈だから。お父さんは勿論、あんたに継いで貰うつもりでいるみたいだけど、お母さんは、お前が別に人生懸けて遣りたい事があるって言うなら、無理に継がなくても構わないと思うわ。まあ、千賀子の希望も聞かなきゃならないけど、あの子は店の仕事好きみたいだしね。どっちにしろ、あんた達がそれで幸せになれるなら、お母さんはそれで良いわ」
 そう言ってまた夕餉の支度に戻った。賢造はまた胸の中の鉛が重くなったのを感じた。どっと疲れを感じ自分の部屋で休もうと居間へ戻ると、さっきまで携帯のメールを打つのに夢中で賢造を無視していた千賀子が声をかけた。
「三春堂の幸彦さんから花火貰ったの。あとでやらない?」
 弟が自分の将来を左右するような邪な思いでいるのも知らないで、千賀子は無邪気な顔で賢造を誘った。三春堂とは『田屋』より神田寄りにある和菓子屋で、幸彦はそこの長男だ。千賀子とは仲が良いが、二人が一緒にいると父親はあまり良い顔をしなかった。賢造は後ろめたさを感じながら「いいよ」と頷いた。
「修ちゃん、あんたが出かけちゃったから泊まりに来てくれなかったのよね。早く帰るんだったら先に連絡くれたら修ちゃんも誘えたのに、賢造は気が利かないわね。修ちゃん、最近ちっとも遊びに来てくれないから詰まらないわ…」
 千賀子のぼやきに賢造は答えず自分の部屋に向かった。ドアを開けると締め切っていたため隠った熱気に咽せそうになった。
 カーテンを開けたままにしていたので、いつの間にか出ていた月の明かりで部屋の中が仄明るかった。正面の鴨居に汚してしまった修二の水色のシャツがかかっていた。留守の間に母親がアイロンをかけてくれたのだ。
 最後に会った時の無理して笑う修二の顔が目に浮かんだ。窓から湿気に霞む月を眺めながら賢造は無性に修二に会いたかった。

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