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かわいい子 〜 人生は悲喜こもごも 〜

 日下部(くさかべ)の行きつけは二軒ある。
 ひとつは新宿にある居酒屋『辻村』と、もうひとつは銀座の会員制バー『アバンティ』。どちらも気に入った相手としか行かない秘密の隠れ家だ。
 『辻村』は友人の息子がやっている気楽な店だが、銀座の方は少々高級な部類に入るので、会社の同期で営業部の部長、錦(にしき)や同レベルの肩書きを持つ友人としか入らない。
 一度、折り入って相談があるという鬼塚(おにづか)を連れて行ったが、別段ホステスなどいない店なのに、場の雰囲気に呑まれて相談どころじゃなかったらしい。
 深酒させて胃潰瘍を再発させたかと慌てたが、お陰で好きな男と上手く行ったのだから、人間万事塞翁(さいおう)が馬だと嘯(うそぶ)くと、もう一年も前の話なのに鬼塚は未だに嫌な顔をする。
「俺は庶民なんで、こっちの小汚い店の方が落ち着くんですよ。それに、何度も同じ話を繰り返すのは、年寄りの証拠ですよ、日下部さん」
「あ〜っ、聞き捨てならない発言! どーせ、うちは汚くて、安っちくて、庶民的な店ですよー。どうも、すいませんねー」
 鬼塚の発言に『辻村』の若きオーナー、辻村梓(つじむらあずさ)が頬を膨らませる。
「なんで怒るんだよ。そこまで言ってないし、むしろ誉めてるんだぞ?」
「誉めてるように聞こえない〜」
 気に入りの居酒屋『辻村』の、いつものカウンターのいつもの席で頬杖をつきながら、日下部はこの世で最も可愛いく思っているお気に入り二人の、子どものような遣り取りを眺めている。
 可愛いと言っても、鬼塚は三十六歳の中年だし、梓にしても二十七歳にして二人の子持ちという立派な大人なのだが、日下部にとって二人は手のかかる年の離れた弟と、溺愛している息子のようなものだ。だから、こうして久し振りに水入らずで酒を酌み交わすのは至福の時間だ。
 きっと今、自分の顔は傍目にも分かるほど脂下(やにさ)がっているだろう。ここに嫉妬深い鬼塚の恋人、堤(つつみ)がいたら『そんな目で見ないでください』と言われそうだと、堤の嫌そうな顔を想像して日下部は唇の端を上げた。
 堤は一見チャラく見えて真面目な男だから、からかうと面白い。だが、目の前にいる鬼塚を構うのは、もっと面白い。
 鬼塚は昨年まで日下部の部下だった。新卒で入った時から面倒を見て来たから、かれこれ十四年の付き合いになるが、これがまた手の焼ける男だった。
 誰もが目を奪われる美貌の持ち主のクセに無口で無愛想で、やっとこさ口を開けば見かけを裏切る口の悪さ。仕事はできたが組織に属する人間としては落伍者だった。しかし、自身もかなり屈折している日下部は、この人付き合いが苦手な世渡り下手を可愛がった。
 単純に、最初はただ面白かったのだ。
 本来は素直で朗らかな質(たち)なのだろうが、どういう育ち方をしたのか、それを頑(かたくな)に表に出そうとしない。それが、酔っぱらった時にだけ垣間見えるのだ。
 酔いが口も心も軽くするのか、ボロボロと壁が剥がれて予想もつかない素顔が覗く。そのギャップが面白くて、上司として扱いにくい部下を知るためと口実をつけ、嫌がる鬼塚をしょっちゅう飲みに連れ回した。
 初めは上司命令だと仕方なく付き合っていた鬼塚も、本質は素直だから可愛がれば懐いてくれる。少しずつ訊き出した鬼塚の過去はなるほど複雑で、箍が外れるまで心を開けない不器用さが、日下部の庇護欲を駆り立てた。
 そうして、鬼塚の人となりを知れば知るほど目をかけた。他の部下から「エコ贔屓だ」と面と向かって言われるほどに。
 これに対し、日下部は公然と言い放った。
「だったらどうした。私は仕事のできる者を、贔屓するのは当たり前だと思っているが?」
 当時はまだ若い盛りで強気だったし、出世街道をひた走る日下部の右に出る者はいなかった。いっそ無能な輩(やから)は一掃(いっそう)したいくらいの気持ちもあって、自分に歯向かう者を選定する良い機会のつもりでいた。
 お陰で鬼塚は余計に孤立する結果になり、家庭生活が上手く行っていなかった日下部は、『ホモなんじゃないか』と噂された。
 そう言えば、鬼塚に片恋していた当時の堤も、自分たちの仲を疑っていた。
 根っからの女好きだから、いくら鬼塚が美形でも『胸と尻』がないと勃たないと言う日下部の言葉で一応納得したはずだが、堤は鬼塚と恋仲になってからも、悪酔いするたび「あんた、あの人が女だったら、絶対手ぇ出してただろ?」と、たらればの妄想で言いがかりをつけられた。
 まあ、それも無理はないかと、日下部は隣りでたわいない話に興じて笑っている鬼塚の横顔を眺めて目を細めた。
 昔はいつも顔を隠して俯いている事が多かった。今も前髪は長いが、奇麗な瞳を隠す事なくほっそりした顎のラインへ流されている。せっかく良い顔をしているんだから、コンタクトにすれば良いのにとずっと思っていたが、堤が厳選したらしい細めの黒縁眼鏡は、理知的な顔立ちによく似合っていて悪くはない。
 今は酔いが回った時の癖で外されているから、目尻の笑い皺が目について相応の年齢を感じるが、笑った唇の端に覗く小さな八重歯が、全体の印象を若くしていた。
 その八重歯を、気になるほど目にするようになったのはごく最近だ。それほど、鬼塚は滅多に歯を見せて笑わなかった。
 それが、会社を辞めて好きな男と暮し始めて一年が経ち、見違えるほど明るくなって誰にでも魅惑的な表情(かお)を見せるようになった。今見せているほろ酔いかげんの横顔なんぞ、見慣れたはずの日下部が見てもドキリとするほど艶っぽい。
 そうだ。もし鬼塚が女だったら、迷わず自分のものにしていただろう。
 否、たらればの話じゃなく、鬼塚が精神的に弱っていた頃、このままずっと側にいてやろうと思っていた。
 これまで結婚離婚を繰り返して来たが、白状すれば自分から愛情を寄せたのは、親友の恋人だった梓の母親と、鬼塚だけだ。男を抱いた事はないが、鬼塚が望めばセックスもしただろう。
 だが、梓の母親の時と同様、自分からは踏み出せなかった。
 まあ、踏み出せたところで、堤が現れた時点で終わっていた。二人は互いに求め合っていたのだし、堤だから本来の鬼塚に変える事ができたのだ。
 つくづく、あのとき思いとどまって正解だった。今もこうして友人として傍に居られるのだから。
 却って愛の力で魅力的に変身させた当の堤の方が、苦悩が増えたのではないだろうかと、男女限らず嫉妬せずにはいられない堤の胸中を慮(おもんぱか)って苦笑した。
「そうそう、アルバイトの方はどうなんだい? まさか、君に専門学校の講師ができるなんて、思いもしなかったが」
 日下部が聞いた途端、鬼塚は嫌な事でも思い出したような顔をした。
「……まあ、それなりに」
「ちょっとお、それなりにじゃ、駄目でしょう? また、いちから敬語のご指導しましょうかぁ?」
 梓が他の客のカクテルを作りながら眉間に皺を寄せて文句を言った。
 気の置けない客だから、というだけじゃなく、梓の態度には理由がある。鬼塚は今、梓に接客業のいろはを伝授して貰っているのだ。
 税理士として独立しようと会社を辞めたはいいが、そう簡単に仕事が入る訳がない。日下部は見習い先として、友人で税理士の假屋崎(かりやざき)を紹介したが、今まで甘やかしていた日下部と違い、假屋崎は「仮にも客商売を始めたからには、その態度を改めろ!」と厳しく鬼塚を叱責した。 一念発起した鬼塚は、従業員のマナー教育もしている梓に頭を下げて教えを請うた。
 気を良くした梓は社会人教育だけでなく、貯金を食い潰している鬼塚の現状を救ってやろうと、辻村の常連客で簿記専門学校の役員をしている女性を紹介した。面接に落ちまくって自信を喪失していた鬼塚は会ったその場で採用され、何やら釈然としないまま二足のわらじ生活を始めたのだが…。
「ちゃんとやってるって! でも、授業のコマ数を増やそうとか言われて困ってるんだ」
「駄目なの? まだ毎月帳簿を頼まれるようなお客さんいないんだから、大丈夫でしょう?」
 ぐっと詰まって渋面を作った鬼塚に、「堤くんが妬くからだろう?」と日下部が助け舟を出した。
「ああ…そっか。簿記の学校って、女の子ばっかりだからねぇ」
 梓はちょろっと舌を出して、注文のカクテルを届けにそそくさとカウンターを出て行った。
「……そうなんですよ。俺は別にコマ増やしても構わないんですけど、あいつが『あんたは講師になるために会社を辞めたのか!? そんなんだったら俺が生活費ぜんぶ出すから戻って来い!!』とか無茶苦茶言って…。生徒は男だっているのに、なんであんなに焼きもち焼くかな……」
 素面だったら言いそうにない鬼塚の台詞に、日下部の顔が思わず緩んだ。
「そりゃあ、最近めっきり魅力的になった君を、誰かに盗られたら…と心配で仕方ないんだろう?」
 魅力的と強調したら、鬼塚は口にした酒を吹き出しそうになった。身に覚えがあるのだろう。
「だってそれは、生徒の前ではちゃんとしろって言われるから…。でも、恋人がいるって予防線も張ってるし、頑張ってかわしてるんですよ? なのに、ちょっとでも遅くなると怒るし…。俺、そんなに信用ないかな?」
「信用してないと言うより、心配する他の理由があるから、なんじゃないかねぇ?」
「他の理由…ですか?」
 鬼塚はきょとんとして空になったグラスを弄ぶ。日下部は鬼塚のグラスに冷酒を注ぎながら「思い当たらないかい?」と訊いた。鬼塚は注がれた酒をちびりちびり舐めながら、分からないという風に首を傾げた。
「これはまあ、私の勘だが、“ 夜の営み ” が足りないんじゃないかな?」
「ブッ!!」
 鬼塚は今度こそ盛大に吹き出した。カウンターに前のめりになって咽せている鬼塚に、日下部はおしぼりを渡し背中を擦ってやった。薄かった身体は堤がせっせと食べさせているようで、以前よりだいぶ肉がついた。それでも標準よりは細い背中に眉を寄せた。
「君、週に何回やってるね?」
「なっ、何回って……」
 鬼塚は苦しげに咳をしながら口元に手を当てた。いつもなら「変なこと訊かないでくださいよ!」と怒って口を噤んでしまうだろうに、酔っぱらい鬼塚は頭で回数を数えているようだ。
「ちなみに、私は平均週一回かねぇ」
「えっ、そんなに?」
「……やっぱり。私たち以下なのか」
 少し呆れたように言うと、鬼塚は真っ赤になって反論した。
「く、日下部さんが、多過ぎるんじゃないんですか? だってもう五十でしょう?」
 このエロ親父…という視線を向けられ、日下部は「まだ四十九だよ」と鼻を鳴らして言い返した。
「まあ確かに、同年代の連中はもう少し少ないと思うが、家内はまだ三十三歳だからねぇ」
「ああ…そうでした……」
 鬼塚は遠い目をして呟いた。日下部はそんな鬼塚を横目で見ながら追い討ちをかけた。
「若い彼らにしてみたら、週一でも少ない方なんじゃないかな?」
 少ないと強調すると、鬼塚はため息を吐いて項垂れた。その物憂げな様子に、さすがの日下部も慌ててフォローした。
「まあ、何も回数が多ければ良いってものでもない。要はスキンシップが大事なのであって――」
「……しつこいんですよ」
「えっ?」
「一回が、長いんです。止めろって言っても止めねぇし。もう、しつこくて……」
 困る…と何やら思い出したように赤くなり、その熱を冷ますようにまるで冷や水を飲む勢いでグラスを煽った。
「濃厚なんだ? しかも長い…って、朝までかい?」
 別に怒らせたい訳ではないので窺うように訊くと、鬼塚は赤い顔を隠すように小さく頷いた。
 ほおおぉ……と、日下部は唸りながら精力があり余って溌剌とした堤の顔を思い出した。
 まあ、何しろまだ二十代だからな。しかし、朝までとは…。少々悔しく感じながら、これなら心配してやる事もないかと話を切り上げようとして、ふと別な事が気になり出した。
 朝までやって、大丈夫なのか?
「あ〜……その、常々疑問だったんだが、男同士って、“ あそこ ” を使うだろう? その、大丈夫なものなのか?」
 不躾な疑問に鬼塚がぎょっとした顔で日下部を凝視したが、既にそうとう酔いが回っているようで、驚く目元もとろんとしていた。
「だっ、だいじょうぶって、何が、ですか?」
 羞恥でか、アルコールでか分からないが、鬼塚は真っ赤な顔で聞き返した。呂律もあやしくなり始めている。
「病気の事ではないよ。その、痛くはないのかと思ってね。ちゃんと、その〜…感じてるのかね?」
 スケベ親父である。自覚もあるが構わず訊いた。鬼塚は思わず目を伏せたが、質問に答えた。
「いたい、ですよ。でも…」
 口籠り恥ずかしそうに伏せた睫毛を震わせる姿が、何ともスケベ心をくすぐる。
「でも、イイんだ? どんな風に?」
「どんなって……」
 まだ多少理性が残っているのか眉間に皺を寄せる鬼塚に、日下部は真面目な顔を作って言った。
「なに、家内としてみたいと思ってね。普通に考えると、受け入れる側って辛そうだろう? でも、今聞いた感じだと良いみたいだし。堤くんに訊いた方が詳しいと思うが、彼は見栄を張りそうだしね。やっぱり、実際に受け入れる側の意見の方が参考になると思ってね。だって、せっかくするんだったら、感じてもらいたいだろう? だから、どんな風にされたらイイのか、後学のために訊いておきたいんだ」
「ああ……。だったら、入り口を潤滑剤でよく解して、ゆっくりしてあげれば、ぜんぜん大丈夫ですよ。入れる時は痛いですけどぉ、先が入ればあとはもう、スルッと」
「スルッと、入るのかね?」
 真面目な顔が功を奏したのか、鬼塚は頬を染めたまま、身振り手振りつきでぺらぺら喋り始めた。完全に出来上がっている。日下部は笑いを堪えながら「じゃあ、あとは気持ち良いんだね」と言うと、鬼塚は首を振った。
「やっぱ、太いと、苦しいですよ。動かれると痛いし……」
 そう言いながら鬼塚は日下部の股間の辺りをチラリと一瞥した。カウンターに隠れて見えないはずだが、開いていた膝を慌てて閉じた。
「あー…でもぉ、痛いまんまじゃなくて、そのうちぃ、だんだん、ゾクゾクしてきて……。ワケ分かんないうちに、きもち良くなっちゃうんですけどね〜」
 恥ずかしそうにしながらも、何やら思い出してうっとりした顔をする。
 ほぉ、鬼塚はMの気があるのかと目を見張ると、「でも、長くなると、ちょっと…」と言って眉間に皺を寄せた。やはり問題はそこか。
「辛いのかね?」
 労るように訊くと、鬼塚は目を瞑って腕を組み、う〜んと唸ったあと「女の人とは違うんで、参考にはならないと思うけど」と前置きして言った。
「俺、一回イクと、次すぐなんて、無理なんですよぉ。なのに、続けてされてるとぉ、出ないのに…イッちゃうんです」
「ああ……」
 それは、アレだ。ドライオーガズム…。放心して、ただ唸った。
 鬼塚は組んだ腕をそのままカウンターに載せて前のめりになり、その上に顎を載せると眠そうに欠伸をした。
「……もう、イキっぱなしっていうか、痙攣しちゃうんで、恐いから止めてくれって言うのに、ちっとも聞きゃしないしぃー。あいつ、持続力長いから、しょーがないんでしょうけどぉ、絶対一回じゃ終わらないし、こっちの身にもなれっての……」
 げんなりする鬼塚の顔を見て、そんなに保つのかと半ば呆れて絶倫男の顔を思い出す。
「……ふ〜ん。ちなみに堤くんは、一晩で何回くらい射精できてる?」
「ストップ! レッドカードだよ。日下部さん、何に訊いてんのさっ!?」
 鬼塚との間に、さっとお盆が差し込まれ、見上げると梓が赤い顔で睨んでいた。
「鬼塚さん、もうベロンベロンじゃない。どうすんの? 俺、堤さんに電話すんの嫌だよ?」
 そう言う梓の陰から、すっと三本の指が出て来た。鬼塚がカウンターに突っ伏しながら、三本指を立てて振っていた。
「確実に、三回は出す……」
 鬼塚はそれだけ言うと、そのままスースー寝息を立て始めた。
「くそー、負けた」
 思わず舌打ちすると、「競うなよ…」と梓が呆れたようにため息を吐いた。
「もう、スケベ親父なんだから」
「そういうお前も聞いてたんだろう? どの辺から聞いてた?」
「痛いのが、そのうちだんだん気持ち良くなっちゃう…ってあたり」
 梓はへへへ…と舌を出して笑った。
「すごいよねぇ、ドライでイクってさ。やっぱり “ 受け ” なんだね。相性も良いんだろうな…」
 そう言いながら首まで赤くして、「どーすんのさ? もう堤さんの顔、マトモに見らんないよ〜〜」と唸った。
 何でこんな話をしてたんだと訊くので、日下部は「堤くんのお願いを、果たしてやっただけだよ」としれっと言いながら、内ポケットからスマホを出してメールを打った。
「私だって、何もなければ、他人(ひと)の性生活なんぞ、訊きたくないよ?」
 梓は嘘つけという顔で日下部を一瞥すると、注文の酒を用意し始めた。
「どんなお願いされたの?」
「ん〜? 『あんまり、したがらない』って、彼と酒を飲むたんびに悲愴な面持ちで愚痴るんで、『そりゃ、良くないからだろ』って言ったら、『そんなはずはない!』って断言するんだ。じゃあ、何でかねって話になるだろう?」
「それで、ワケを訊いて欲しいって、頼まれたの?」
 本当かよと疑わしげに片眉を上げる梓に、「頼まれてはいないが、心の声が頼んでたんだよ」と嘯くと、梓はやれやれと首を振った。
 手の中のスマホが震えた。着信は堤からで、残業を切り上げてすぐに迎えに行くとあった。梓にタクシーの手配を頼み、すやすや眠る鬼塚の顔を覗き込んだ。
「旦那が迎えに来るそうだよ」
 柔らかい頬を指先でつつく。鬼塚は「ん…」と吐息をもらした。
「一回を軽めにすれば、週三くらいは出来るだろうよ」
 うんうん頷いていると、「週二が限度だろ」と梓が肩を竦めた。
「まあ、回数はどうでもいいが、嫌がってないと分かれば、あの焼きもちも少しは治まるだろうよ」
 何にせよ愛されてる証拠だねと笑いながら鬼塚の顔を眺めていると、梓が複雑そうな顔をした。
「愛情なら、堤さんに負けてなかったと思うよ」
「じゃあ、何が負けていた?」
 笑いながら冗談まじりに問うと、「押し」とひと言で返された。
 日下部は堤に『押して押して押しまくれ』とアドバイスしたのを思い出し、自嘲するように喉の奥で笑った。梓はどう受け取ったのか「ごめん」と申し訳なさそうに謝ったが、すぐに言葉は続けた。
「見てて、歯がゆかったから。何て言うか、鬼塚さんもそうだけど、敦史(あつし)おじさんも、うちの親父も、後ろばっかり見てるんだよね。だけど、堤さんはいつも前を見てるじゃない? たぶん、その違い。鬼塚さんが今幸せなのは、愛されてるからって言うより、堤さんにつられて、一緒に前を見ようとしたからだと思うよ?」
「前、ねぇ……」
 言うようになったなあと、苦笑いしながら空になったグラスを弄ぶと、梓は打ち止めだというように日下部にお冷やを寄越した。
「そうだよ。俺、敦史おじさんには、今度こそ幸せになってもらいたいから、この二人みたいに前を向いててほしいな」
 薄く笑って、梓も眠る鬼塚の顔を見つめた。
 梓は彼の母親が亡くなってから、父方の祖母と日下部が育てた。日下部の友人である梓の父親は、妻を失った悲しみを演劇(しごと)で紛らわせ、息子を顧みなかった。その分も日下部は梓に愛情を注ぎ、梓も父親より日下部を慕っている。
 一人目の妻との間で、梓の存在は少なからず波風を立てた。彼女は自分の子を欲しがったが授からず、関係は冷え切り当てつけにした浮気がバレて離婚した。
 浮気相手だった二人目の妻とは、けじめを付けて一緒になったが揉め事が多く、自業自得と耐えるしかなかった。ちょうど鬼塚が入社して来た頃で、だから余計に心が傾いた。
 その経緯を梓に詳しく話した事はないが、傍らで静観しながらずっと気を揉んでいたのだろう。
 今、日下部は三人目の妻と暮しているが、彼女は精神的に自立していて、それほど日下部を必要としていない。だから選んだと言ったら呆れられるだろうが、一番安定した結婚生活を送っている。
 日下部は笑って「私はそんなに不幸そうに見えるかい?」と訊いた。梓はじっと日下部を見つめたあと、微苦笑を浮かべた。
「……いや。楽しそうだけどね」
「ああ、楽しいよ」
 頷くのを見届けて、梓は客の元へ酒を届けに行った。日下部は頬杖をついて鬼塚の寝顔を眺めた。
「人間万事塞翁が馬か……」
 ひとりごちて、これは自分のための言葉だと思った。人生は悲喜こもごも。何事も楽しめばいいのだ、前向きに。可愛い君と、梓がいるから……。
 日下部は幸せそうに眠る鬼塚の頬を指先で撫でながら、「楽しいよ」と微笑んだ。

 (了)


ただのスケベ親父の猥談になってしまいました。いくつになっても男はガキっぽい、というお話です。

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