INDEX NOVEL

ハロウィンの夜に

 木製の扉を開けると辺りはすっかり黄昏色だ。店の入り口に看板を出しながら空を見上げると、ちょうどビルの向こう側へ陽が落ちるところだった。
 日が傾くのが早くなったと感じてはいたけれど、東京で季節を感じるのは難しい。温暖化が著しい昨今では特に。今が秋だと感じられるのは、吹く風に金木犀の香りを感じた…とか、そんな時くらいだ。
 秋と言えば……あれから一年になるんだな。去年の今頃、プロポーズを断られた石川に啓介くんが逆プロポーズして、ぐだぐだしたものの上手い事いってくれて…。
 あの時は本当に気を揉んだ。もしも石川のプロポーズが成功したなら、俺がヤツの学生時代の女性遍歴を密告してぶち壊してやるつもりだったけど、見事に玉砕したくせに啓介くんを受け入れない石川の往生際の悪さには、ほとほと感心してしまった。まあ、無理もないっちゃないんだけど。
 仕様がない、さて次の手はと頭を捻っている間に事態は思わぬ急展開を見せて、二人はあっという間にくっついた。まさか亮介さんが口添えするとは思ってもいなかったから驚いたけど、お陰で二人は今、中国で幸せに暮らしている。
 これで漸く目の上のたんこぶが消えてくれて、思惑通り亮介さんとの夢の同居に漕ぎ着けたものの……一年、正確に言えば八ヵ月経った今も、何の進展もしていない。積年の想い人、亮介さんと一つ屋根の下にいるっていうのに、俺としたことが手出しどころかアプローチひとつ出来やしないんだから…。
「あっ、こんなとこにいた。林くん、ちょっとおいで」
 不意に声をかけられてぎょっとして振り向くと、店の扉から顔を出した亮介さんが手招きしていた。俺は胸のうちを知られた訳でもないのに、ドキドキしながら店の中に入った。
 今年も店内は明るいオレンジ色のカボチャと、ドライフラワーのリースを使ったハロウィンの飾りつけで、ちょっと田舎風の暖かな雰囲気になっている。本当はもっとノーブルで正統派フレンチの店としてやって行きたいのだが、神田とお茶の水の真ん中の立地では、あまり取り澄ましていてはやって行けない。お客のほとんどは学生とOLと、昔なじみの地元民なのだから。
「はい、おやつ。食べちゃってくれる?」
「えっ? どうしたんですか、これ?」
 厨房に一番近いテーブルで差し出された皿の上には、ニカっと口を開けたジャック・オー・ランタンの小さなパンプキンパイと、マロンとバニラのアイスクリームと黄金色の焼きリンゴが一切れ。添えられた生クリームにはチョコレートシロップがかけられて、三日月に見立てたオレンジピールがのっかっている。紛れもない、“ ハロウィン限定 ” デザートだ。
「焦がしちゃったんだよ。パイ」
 言われて見ればパイの色が黒い。冗談じゃない。今日は土曜日のサービスデーでハロウィンと重なっている。予約も団体が多く、一番デザートの出る日なのに数が足りなくなる。オーブンの担当は今年正式に入社した矢沢だ。あの野郎、また失敗しやがって…。
「大丈夫! 時間を見計らってまた用意するし、焦げたのは奥の三個だけだから何とかなるよ。うちのオーブンもそろそろ限界なんだね。焦げちゃったけど、味はすごくいいんだよ。今回ね、喜一(きいち)にフィリングを任せたんだけど、あいつは才能あると思うよ。うん」
 眉間に皺を寄せた俺の顔を見て、慌てたように庇う亮介さんに文句を言う気はさらさないが、矢沢の馬鹿野郎の飄々(ひょうひょう)とした顔が思い浮かんで腹の中が煮えくり返った。
 矢沢喜一は店の近所に住むガキで、高校生の頃からうちの店でウェイターのアルバイトをしていた。卒業と同時にそのまま店に就職したはいいが、将来に何の展望も持っていないと言ういい加減さに「何の為に就職したのか」と問うと、「亮介さんと働きたかったから」とほざきやがった!!
 ちょっと彫りが深くて甘ったるい顔をした今時のイケメンで、付き合っている彼女もいると言うしゲイのにおいは感じないから、ライバルになる可能性はないと思うが、ヤツが亮介さんを「兄貴」と馴れ馴れしく呼ぶのを聞くと妙な気分になって落ち着かない。
 耳にする度「シェフと呼べ」と注意しているが、馬耳東風も甚だしい。一事が万事その調子だから、しょっちゅう失敗を繰り返している。まあ、人間は悪くないと思ってはいるが、俺は馬鹿なヤツと出来るのにやらないヤツが、この世で一番嫌いだ。
 人のいい亮介さんは「何か目標を持った方がいい」と、こいつを有給で製菓学校に通わせている。今日も、つい今し方厨房入りしたばかりで気でも抜けていたのだろう、古いオーブンだから途中で鉄板を回転させなければならないのに、ころっと忘れていたに違いない。なのに庇うんだな、この人は…。
 皿を受け取ってジャック・オー・ランタンのパイにぐっさりフォークを突き立てた。行儀悪いがナイフがないからそのままがっぷり噛みつくと、確かに味は良かった。甘すぎずカボチャの自然な甘みが生いきていて、これなら男性にも好まれるだろう。
「どう? 美味いだろ?」
「…………」
 片眉を上げて悪戯っぽく笑う顔に思わず釣られて微笑んでしまう。亮介さんは、きりっとした眉と切れ長の目元がとても涼やかで凛々しい顔立ちをしているのに、笑うと目が垂れて愛嬌のある顔になる。俺はこの顔にとても弱い。大好きなんだこの笑顔が…。
 初めて会った時は、フランス料理のシェフだと言うのに角刈りに手ぬぐいを巻いていて、まさに「兄貴!」と呼びたくなるような板前スタイルだった。背が高く、ほどよく筋肉がついて引き締まった体躯は、文句のつけようもないのに勿体ないと思った。この人をどうにかしたくて、石川に頼み込んでアルバイトとして紹介してもらったのが始まりだった(自分でも嫌なんだが、矢沢と同じ理由…)。
 あれから八年、徐々に徐々に時間をかけて俺好みに仕立てていった。今ではきちんとコックコートを身に纏い、少し伸ばした艶やかな黒髪を後ろに流してコック帽を被った姿は、ほれぼれするほど格好良い。お陰で昔なじみのマダムたちや、若いOLたちからテーブルへ呼ばれる回数が増えたのは痛し痒し…。
「美味しいです…。可愛らしくて綺麗だし、食べるのが勿体ないくらい」
 矢沢を誉めるのは業腹だけど、少し見上げる高さの視線を交わしながら素直に感想を述べた。亮介さんは愛嬌のある笑顔を引っ込めて、ちょっと考え込みながら言った。
「見た目の綺麗さも味のうちだけど、俺は “ 平らげたい ” と思わせたいなぁ。まあ、デザートは別物だから、色々な角度で楽しんでもらいたいよね」
 この人の料理に対する信条は、お客さまに「楽しんでもらう」事。それ以外の事はあまり考えていない。だから本人は美丈夫なのに格好など気にしない。きっと角刈りでも手ぬぐいでも、どうでもいいと思っている。
 この店で初めて亮介さんの料理を食べた時、フレンチの料理人としてその腕の確かさに驚いた。なのに、メニューは全て “ 〇〇風 ” という自信のない書き方で、「フランス料理も出す」垢抜けない街の大衆食堂だった。

「料理人としての心構え? そんなものは特にないよ。でも、そうだな…人ってさ、元気のない時でも美味しいものを食べると、ちょっと元気が出るだろう? 俺の料理を食べて、また頑張ろうって思ってくれたらいいかなぁ。お客さんは色んな境遇の人がいるから、うちの店で一時でも楽しんでもらえたら嬉しいし、そのための努力なら惜しまないつもりだよ」

 いつだったかそう話してくれた。老舗ホテルの厨房で正統派フランス料理をみっちり修行してきた人なのに、大衆食堂でいいのだと言い切っていた。堅苦しいのは嫌いだし、お客がそれをフランス料理と知らなくても、食べて満足して喜んで、“ 明日の糧 ” にしてくれたらそれでいいのだと。
 それをガイドブックに載るような洒落た店構えに変えさせたのは俺だ。この人の料理の腕を埋もれさせるのは勿体ないと思った。もっと正統に評価されてしかるべきで、そのための客層を取り込みたかったからだ。
 改装してから雑誌にも取り上げられて、目論見(もくろみ)通り舌の肥えた客が増えた。不景気だから目立って好調という訳でもないが、経営は安定していて申し分ない。だけど…最近、元気がないんだ亮介さん。
 ぼんやりと考え込む時が増えたし、昔より仕事に身が入っていないというか…。それは啓介くんが中国へ発って、俺と同居し始めて少したった頃からなんだ。
 俺はこの人が好きだから、少しでも役に立ちたいと思って行動してきた。そんな俺を、亮介さんは評価してくれているから、店の改装も同居の件もすんなり了承してくれたのだと思う。けど、本当は…嫌だったのかもしれない…。
「林くん? どうかした?」
 黙り込んで皿を眺めていた俺に、亮介さんは訝しげに声をかけた。目を上げると、心配そうに覗き込む優しい視線とぶつかった。この人は優しい。でもこの優しさは俺だけにじゃない。誰にでも、特に弟の啓介くんにはもっと…。
「う〜ん、僕にはこれでも甘すぎるかな〜。全部は食べられないから半分食べてくれませんか?」
 にっこり笑って明るく言った。自分の感情を隠して笑うのは得意だ。アイスをフォークですくい亮介さんの口元へ運ぶ。
「ハイ、あ〜ん」
 亮介さんはぎょっとした顔を見せた後すぐに赤くなって、それでも素直に口を開けてくれた。知ってるんだ、俺。よくこうして啓介くんに料理の味見をさせていたのを。そんな二人の姿を見る度に激しい嫉妬を必死で抑えていた。
 啓介くんはもういない。石川の元へいっちまった。だからって、すぐに俺との距離が縮まる訳じゃない。だけど、今こうして側にいるのは俺なんだから、もっとその位置を楽しんでもいいじゃないか。
 不安な気持ちに蓋をして、一口ずつに想いをのせて、アイスを亮介さんの口へ運んだ。恥ずかしそうに、けど最後まで綺麗に食べてくれたのが嬉しくて、思わずキスしたくなった。
 見上げたまま亮介さんの顔に顔を寄せると、何? という顔で亮介さんも近づいてくる。不意打ちでこのままキスしてしまえば――と思ったその時、ドアが開く音がした。開店にはまだ30分早い筈だ。慌てて振り向くと、本日の予約のお客さまで常連の親子が窺うようにして入り口に立っていた。
「ごめんなさいね〜。まだ早いの分かってるんだけど、この子が早く行こう、早く行こうって急かすもんだから。まだ、駄目かしら?」
 俺は咄嗟(とっさ)に声が出なかった。代わりに亮介さんが返事をした。
「どうぞ、どうぞ。構いませんよ。いらっしゃいませ、沢村様。お待ちしておりました」
 亮介さんはにこやかにお客を招き入れ、俺に「席にご案内して」と言うと、自分はすぐ側のカウンターバーへお菓子の小袋が入った籠を取りに行った。俺は内心の動揺を隠して親子を予約席に案内し、水を用意しにカウンターバーへ行った。亮介さんは籠を抱えて男の子の側に行くと彼の目線に合わせてしゃがんだ。
「じゃあ甲斐(かい)くん、今日はお店に入ったら、何て言うか教えてあったよね。何て言うんだっけ?」
「トリック・オア・トリート!」
 小さな甲斐くんが舌足らずに唱えると、亮介さんはくしゃっと相好を崩して「よくできました。はい、どうぞ。好きなの選んで」と楽しそうに笑った。
 これは去年からやっているハロウィンのサービスで、子どもたちや女性にはクッキーとチョコレートのお菓子を、男性にはワンドリンクサービスを行っている。今日一日の出血大サービスだが、これが功を奏して今日は予約でいっぱいなのだ。
 甲斐くんの頭を撫でながら笑う亮介さんの顔を見ると胸が痛くなる。でも、そんなことはおくびにも出さず笑顔でレモン水の入ったボトルとグラスを持って行く。
「では、どうぞごゆっくりお楽しみください。甲斐くん、またね」
 亮介さんは甲斐くんに手を振って俺と入れ替わりに席を離れ、厨房に続くスウィングドアを押した。入る間際、口だけで『頼むね』と言ってウインクされ、俺は笑って頷いた。亮介さんが消えると、アルバイトの子たちが慌てて店内に入って来た。『店が始まる』――心の中で呟いて、浮ついた気持ちを引き締めた。
 俺が亮介さんに積極的に出られない理由は色々あるが、その中でも大きいのは彼が “ 子ども好き ” な事。俺はゲイである事や、男に生まれた事を嘆く気持ちは毛頭ないが、こればかりは男の自分にはどう仕様もない。
 彼のあんな顔を見た後は、いつも、いつも、諦めなきゃいけないのかと胸が千切れるみたいに痛くなる。でも、俺は諦めたくない。亮介さんを手に入れたい…。
 箒に乗った魔女の飾りを見ながらため息をついた。今日は巷に魔女や悪魔が溢れる日だ。もしも本当に彼らが魔法を使えるのなら、俺の何をやってもいいから願いを叶えて欲しいと馬鹿げた事を思ってしまう。
 啓介くんは……彼はいったいどんな魔法を使ったんだろう? あれほど落ちる事に怯え抵抗していた石川を、結局どうやって手に入れたのか、俺は未だ訊けずにいる。
「トリック・オア・トリート!」
 扉の開く音と共に元気な声が聞こえてきた。近所の酒屋さん一家と元気印の兄妹だ。俺は胸のもやもやを押し込んで笑顔でお菓子の籠を手に取った。さあ、いつもの台詞を呪文のように口にすれば、仕事の頭に切り換えられる。

『いらっしゃいませ。さあ、どうぞ』――今日も忙しくなりそうだ。

 (了)

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