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昼の静寂 サンプル

 すっかり熱の引いた身体に纏わりつくしつこい指を振り払い、郁実は革張りのソファから体を起こした。
「まだ時間はあるだろう……。まだ三十分はあるじゃないか」
 名残惜しげな男の台詞を黙殺して、郁実は脱ぎ捨てたシャツを羽織り釦を留めた。
 隣町の高校へ赴任して来た芸大出の美術教師に、三ヵ月前からデッサンの指導を受けていた。芸大を受験する為のもので、報酬はもちろん払っているが、男はその他に郁実と寝たいと言って来た。君の事は聞いているよと耳打ちされた人物の名前は、郁実を頷かせるには充分威力があった。
 父親が改築してくれた離れのアトリエで、土曜の午後一時から三時に掛けて人払いをしているのは、半分はそうせざるを得ないからだが、郁実は男が思うほど弱みを握られたつもりはなかった。どうせお仲間なのだから、バレてしまって困るのはお互い様。いい気になっている男に、少しは役に立って貰わないと高い報酬を払っている帳尻が合わない。
 郁実はズボンを履いて髪の毛を掻き上げると、わざとらしく流し目を送りながら微笑んだ。
「今日はね……来客があるんですよ。もうすぐ着くから、貴方も挨拶したらどうですか?」
「えっ、客?」
 男が驚いて起き上がるのと同時に部屋の扉がノックされた。
「郁実さん? 藤枝さんがお見えになったの。お通ししてもよろしくて?」
 遠慮がちに義姉の声が尋ねる。ええ、と口を開き掛けたのを男が手を上げて制し、慌ててソファから転がり降りると急いで身支度を始めた。
 郁実はその様子を鼻で笑いながら「すみませんが、少し待って貰ってください」と扉ごしに返事をした。
 義姉の遠ざかるスリッパの音に耳を傾けていると、「君は人が悪いな……」となじる男の声がした。
「来客があるのなら、最初から言ってくれればいいのに。藤枝さんって誰だい? 僕が挨拶して得になる人って、教育委員の人とかじゃないだろうね……」
 そう言いながらシーツ代わりにしていた毛布を丸め、忌々しそうにソファの隅に投げると、締め切ったカーテンを開け、縁側の窓を開けにかかった。
 立ち込めていた淫猥な空気が、一瞬で冬の冷気に浄化されていく。村でも有数な分限者の息子に大胆な要求をしてきた割に、本当は誰より小心な男だった。
「兄の友人です。東京で画廊を経営している……」
「藤枝って、もしかして『藤枝画廊』?」
「そうです。やっぱり、有名なんですね」
「有名も何も! 絵を描いてるヤツなら誰でも知ってる。あそこで扱って貰えたら一流の仲間入りだ。『藤枝画廊』と知り合いだなんて……流石は篠山家だ。じゃあ、僕を紹介して貰えるのかい?」
 涎も垂らさん勢いで畳み掛ける男に下卑たものを感じたが、顔には出さなかった。この男も教鞭の傍らコツコツ絵を描いている。今の自分の状態では人の事は嗤えないと苦いものが込み上げた。
「……そのつもりですよ。貴方の準備がよろしければ、こちらに来て頂きましょう」
 郁実は母屋に連絡しようと内線電話の置いてある窓際のサイドボードへ近づいた。受話器を取ってふと中庭へ目を遣ると、築山の回りに巡らせた池の畔を歩く男が目に止まった。
 濃紺の、遠目でも仕立ての良さが分かるコートに中折帽を被っている細身の男。顔など見なくてもすぐ分かる。
 胸が高鳴って指先が震えた。郁実は男から目を晒さずに受話器を戻すと、「真理さん!」と呼び掛けた。
 声に反応して藤枝真理はゆっくりと振り向いたが、彼は一人ではなかった。その腕の中に小さな子どもを抱えていた。三歳になる兄の息子、甥の一輝だ。郁実は血が上るのを感じた。
 気がつけば裸足で庭に飛び降りていた。夢中で真理の傍まで駆け寄ると、ぎっと一輝を睨みつけた。一輝は怯えた表情で郁実を見返しながら、ぎゅっと真理にしがみついた。
「降りろ……」
 郁実が唸る直前に、真理はさっと踵を返し背中を向けて歩き出していた。そのままゆったりした足取りで築山を回り、母屋が見える場所まで行くと一輝を降ろした。冬枯れの芝がつくのも構わず、真理は片膝ついて一輝の耳元で何か囁くと、一輝はこくりと頷いて転がるように母屋の方へと走って行った。
 一輝が無事母屋の縁側から家へ入るのを見届けると、真理はゆっくり立ち上がり、仁王立ちした郁実の傍へと戻って来た。
「寒いだろう?」
 一月の寒空にカッターシャツ一枚に裸足で突っ立っている郁実の姿を一瞥し、真理は苦笑して自分のしていたマフラーを外し郁実の首へかけた。
 何故こんな恰好で、幼い甥にあんな態度を取ったのか聞く素振りはない。

※ こちらはサンプル用に横書きに直したものです。同人誌の紙面とは異なります。

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